第三十一話 岩戸3
風は無かった。午後のリツザンは急激に機嫌を悪くして、大空の雲は千切れ飛ぶように舞っていた。それでも、気絶したクウの周囲には風は無かった。まるで、神さまがクウのことを思いやって、彼の死にかけた身体を冷やさない様にその場所だけ、山の法則を歪めてしまったかのように。
だが、真実はそうでは無い。
生命の少ない高高度に一匹の蝶が迷い込んでいた。神さまの気まぐれだろうか。それも、違う。神さまの“ウッカリミス”だ。ともあれ、蝶々はふわふわひらひらと風の無い山頂を舞い、クウの鼻先に止まった。包帯だらけのクウの顔で奇跡的にちょっとだけ突き出している場所だった。他の場所ではそうならなかっただろう。それは確かに一つの奇跡だった。そして――。
クウは目覚める。陽光に包まれて極寒の中に。クウのまつげの動きに驚いた蝶々は慌てて飛び出す。しかし、周囲にはクウ以外に色のある物も匂いのする物も無く、その白い蝶は再びクウの鼻先に止まろうとはらはらひらひらしていた。クウは現実と夢の狭間、生と死の境界でその白い蝶を見た。とてもきれいだと彼は想った。
……蝶と雲の対比が素敵だな。
クウは死を覚悟しながらそう想った。もう、無理だった。体力は底を付いて精神も削られた。本当に寒くて仕方が無かった。もう一山を越えて歩く事が出来なかった。実際に出来るか否かでは無く、チャレンジすることが出来なかったのだ。その精神力は折れて砕けて霧散していた。
……黒丸さんゴメンナサイ。僕はもう無理。ここでバイバイするよ。でもいいんだ。だって蝶が祝福してくれているもん。
ゆっくりとクウを誘うように踊る蝶の背後で切り裂かれるように速く走る雲が美しかった。同じ白色をした切れ端である蝶と雲の緩急だけのコントラストがきれいだった。クウはゆっくりと目を閉じる。もう、これ以上は頑張れなかった、寒くて暖かい何かに包まれたかった。例えそれが死であっても。
……ざりり。
眼を閉じたクウの耳に違和感が聞こえた。何だろう?どこだろう?これを聞いたのは。クウは想い出せない。でも、もう、死にたかった。本当に辛くてここから逃げるには、死ぬしか無いと考えていた。寒くて、寒くて。
……ざり。
クウは眼を開けた。死にたくなかったからでは無い。違和感。それを感じたからだ。彼の好奇心が死の間際の魂をその棺桶から引き摺り上げた。眼を開いた彼の視界に改めて美しい世界が飛び込んできた。
(……綺麗だな。空も雲も。ただ、広がるだけの空を切り裂くように走る雲。その手前でふわふわと……。)
クウは眼を見開いた。目の前で蝶が踊っている。走る雲と踊る蝶。何も無い山頂。彼は精一杯、周囲を見渡した。生き残るためでは無く、好奇心に突き動かされて。クウは違和感を掴んだ。稜線を渡る強風の中、この白い小さな蝶はふわふわと踊っている。クウは遂に発見した。草木が低すぎてこれまでは気付かなかったが、山風に吹かれてなびく草木と微動だにしていない草木が存在していることを。風に煽られる草木は山々の稜線を覆い遙か彼方まで続いていた。一方で――。
(僕の周囲だけ草木が動いていない。)




