第二十七話 三乃越4
クウは血を流しながらも気配を殺し、その場を離れた。山道を挟む両脇の古い崖が崩れた音や衝撃や匂いは強烈で、クウの痕跡を完全にかき消していた。一刻も早くこの場から可能な限り遠くに移動したかったクウはしかし、その欲望を堪えた。無理に移動しても気配を残すだけだ。それよりは身を潜めて、虹目が遠ざかるのを待つ方が良い。クウはそう判断して、崩壊した崖の頂上付近の岩の影に身を隠した。崖下からは暴れ回る虹目の叫び声が響いている。鍵を返せ、鍵を返せ、と。
(なんてことだ……虹目は鍵を失ったんだ。無くしているんだ……。)
クウは恐怖と戦いながらも、状況を整理していた。学校では、美しい女神日輪から零鍵を奪った虹目は、鍵がもたらす全能を使って世界を死へと向かわせたと教えられた。その“全能”が何であり、どの様な目的で死へと舵を切ったのかは教えてもらえなかった。ただ、鍵の守護者から鍵を奪い悪用したため、今、世界は死へと向かって進む事になったとだけ教えられていた。でも、虹目も鍵を失ってしまった様だ。無くしたのか、奪われたのか。クウには判らなかった。一瞬、ほんの一瞬だけ、改めて虹目と対峙して、鍵をどうしたのか、聞いてみようかと想った。無論、それは無謀だ。身体中の裂傷がそれを宣言している。改めて黒丸の言葉が蘇る。
……見つからないようにするしかない。見つかったら引き返すことが唯一の対処法だ。それに挑んで打ち負かせるのは大喝破さまだけだ。
本当にそうだ。どうして僕は、無謀にも虹目に挑んでしまったのだろうか。六角金剛の黒丸でさえ逃げるしか無いと言った存在に対して、どうして挑んでしまったのだろうか。理由は判っていた。早く楽になりたかったのだ。早く旅を終わらせたかったし、背負わされた役目を果たしたかった。烏頭鬼との戦を決着させたかったし、ラスの暴挙も正して、霧街をあるべき姿に戻したかった。でも、それには大変な苦痛が伴うことがわかり、少しでもその苦痛を減らしたい、少しでも早く、その苦痛を終わらせたいとの思いが、黒丸の忠告を忘れさせて、虹目から鍵を奪い返せば、全てが決着するなどという短絡を産んだのだ。血まみれのこの現状の全ては、クウの未熟さが産んだのだ。虹目の叫びは響き、岩が砕かれる轟音が続く。それは少しずつクウの隠れる岩影に近づく。クウは虹目が立てている騒々しい破壊音が近づく度に、岩陰から飛び出して、逃げだそうか悩んだ。だが、恐らくもう遅い。虹目の叫びはクウの直ぐ側まで迫って来ていた。今、飛び出せば、見つかってしまうだろう。クウは覚悟を決めた。虹目に見つかる可能性も確かに存在したが、彼はここに隠れることを決めたのだ。途端に大きな音が頭上で響き、クウの肩に岩が落ちてぶつかる。骨に響く激痛にクウは悲鳴を上げ、そうになったが歯を食いしばり堪えた。更に大きい岩がクウの脇に落ちる。クウは恐怖と焦りで岩陰から飛びだしたい衝動に駈られたが、黒丸の忠告を思い出してその場に留まった。突然、周囲が静かになる。虹目の叫び声も、砕け散る岩の音も消えた。クウが何が起きているのか確認するために岩陰から這い出そうとした時――すとん。と虹目が落ちてきた。クウから一メートルも離れていない。だが、クウに背を向ける虹目は標的に気付くことが出来ない。息を潜めるクウの目の前で虹目は音を立てず、用心深く、周囲を探っている。永遠に続くような数瞬をクウは耐え忍んだ。傷の痛みを堪えながらも、気配を隠し、身じろぎ一つ出来なかった。
――ぽたり。
クウの血が大きく滴って、地面を濡らした。何かを感じた虹目は素早く振り返えり――クウは虹目の狂気が渦を巻く瞳の奥を真っ直ぐにのぞき込んでしまった。狂気が世界に溢れてクウを飲み込もうとする。クウは悲鳴を上げそうになるのを必死に堪えた。虹目はこちらを見たまま動かない。一か八か虹目に戦いを挑もうとする本能をクウは辛うじて押さえ込んだ。
(いや、見えていない。虹目は光を見ない。魂気だけを見ているはずだ。さっきの舞闘がそれを証明している。僕のマイトは消えている。見えていない。)
クウは言い聞かせていた。そしてそれはその通りだった。虹目は遂に闇を見つめるのを止めてそこから歩き去った。クウが蹲る岩陰からは直ぐに虹目の姿は見えなくなり、暫くは彼の独り言……ゆき、かぎ、かえせ……が聞こえていたが、やがてその気配も消えた。
(……早く大喝破さまに会いに行かなくちゃ。もたもたしていると霧街が攻め滅ぼされちゃう。)
安心すると供に、クウには自身のミッションがのし掛かる。クウはその圧力に負けて、そこから這い出そうとした。が、クウはふと想う。
(虹目は本当に居なくなったのだろうか?僕みたいに魂気を消して付近に潜んでいないだろうか?)
その閃きはクウから行動力を奪った。疑心暗鬼になり、この場を去ることが出来なくなってしまった。クウは完全に逃げ出すきっかけを失った。貴重な時間を垂れ流しにして居るのでは無いかという焦りと、岩陰から見えない場所で間抜けなクウがのこのと現れるのを待っているのでは無いかという、恐怖に挟まれて身動きも傷の手当てを行うことも出来なくなってしまった。
しかし――確かに虹目はそこに居た。崖上から自分が荒れ狂い破壊した山道の全貌を眺めていた。鍵を保有する何かが出てこないか見張っていた。クウと虹目の戦いは終わっていなかった。




