第二十二話 二乃越2。
長い爪の付いた手はそっとクウを横たえる。クウは、息をしていない。信じられない程に強い彼の精神力は、彼の肉体を窒息させたのだ。クウは白く、冷たくなっていた。鋭い爪の付いた手はクウの瘡蓋に覆われたイドをその掌で打ち据えた。二度、三度と。クウが何の反応も示さない事を理解したその水底の白い手は文字通り、屍に鞭打つように彼のイドを打ちのめした。百回、二百回と。そして――。
ソコは、真っ暗闇ではなかった。うっすらと優しい光が満ちていた。水草で編まれたベッドの上にクウは横たわっていた。ベッドは大きな泡に包まれていてクウは呼吸に困ることは無かった。胸に激痛が走る。クウは悲鳴を上げた。見ると胸のイドを覆う瘡蓋がひび割れて出血していた。それだけでは無く、肋骨も折れているように感じられた。苦痛でクウの呼吸が乱れる。クウは淡い優しい光の元も見やる。その光はぼんやりとした光の輪郭を纏う毛属の女性の姿をしていた。
「……ハク?」
光の輪郭は笑う。
「違いますよ。私はその方を知りませんが、貴方にとってとても大切な方なのですね。もし、再会する事があればその愛をお伝えになればと想います。」
その答えを聞いてクウはとてもがっかりした。目の前に居るその光の輪郭は恐らく、二乃越から自分を救ってくれた命の恩人であるはずだが、それでも、クウは目の前に居るのがハクであってくれた方が嬉しかった。例え、それが自身の死の間際の邂逅であっても。光の輪郭はそのクウの心のさざ波を感じ取り、クウの愛の大きさを喜ぶと供に、間違えやすい思春期の愛について憂慮した。だが、時間が無かった。彼女達には時間が無かった。彼の広く鋭い感覚がクウの魂気の停止を偶然に感じ取っただけであり、本来であれば、このような干渉は不可能な状況だった。クウに残された時間も、霧街が使える時間も彼女たちが使用できる時間も限られていた。彼女はクウに伝える。
「私達はここから遠く離れた場所に居ます。実質的な助けにはなりません。偶然、貴方が水に近い場所に居たため、私達は気付くことが出来たのです。私達は水を介して、意思を伝えたり、感じ取ることが出来るのです。さぁ、騙されないで、クウ。惑ヶ原の亡霊達は貴方と会話しながら貴方の声をまねるの。他人の声として話しかける事は無い
わ。彼らに出来ることは貴方の振りをして、話しかけることだけ。貴方の足を掬うことも出来ないし、貴方を惑わせる瘴気を発することも出来ないの。貴方は、息を止める必要は無いのよ。貴方はただ彼岸渡しの上を歩く事だけを続ければ良いの。」
確かに、そうだ。とクウは納得しかけた。でも、続くその言葉にクウは身を固くする。
「だから、早くこの泡を破って水中に逃げて。真っ直ぐに上に上がれば、彼岸渡しがあるから。」
本当に?これは本当なのだろうか?この光の輪郭は惑ヶ原の亡者は話すことしか出来ないと言った。今の光の輪郭と同じ状態だ。この声がクウを安全な水泡の部屋からおびき出して沼底に沈めようとしている可能性は否定できない。クウは混乱した。これまでは信頼出来るモルフの中で過ごしてきた。黒丸もハクもロイも。皆信用できた。でも……。
――ファンブルしてからは?
霧街の皆は疎遠になり、裏町のファンブル達はクウと距離を置く。あさつゆはクウをコントロールしようと毒を盛ったし、烏頭鬼が霧街を襲い、裏町は新しい命の誕生を秘密にしていた。何が正しくて何が誤りなのだろうか?クウは判断できなくなっていた。
……みんな自分の事ばかり考えている。
そうだ。みんな自分の事だけを考えている。死ねば良い。他人なんて。自分の利益だけ考えていたい。霧街なんてどうでも良い。そうだ。望みの薄いリツザンへの旅など無意味があるだろうか?そうだ。そもそも黒丸が行けば良いんだ。なぜ僕が?渦翁でもいい。いや、ロイが行けば良いんだ。だってあいつ生まれながらのエリートで才能もあるし、美人のハクから好かれている。何も持っていない俺が奴らのために命を賭ける必要などない。そうだろ??そうさ!みんな死ねば良い。ロイもハクも大っ嫌いだ。大体、シキはどこ行った?あいつがファンブルしてから全てがひっくり返ったんだ。俺は何も悪くない。そうだ!どうして俺が冷たい水の中に出ていかなくてはならないのだ。ここは居心地がいい。暖かい水底の泡の中。そうだ。永久にここに居れば良いんだ。俺はここで頭のおかしなロイやハクや黒丸のことをあざ笑いながら、のんびり過ごすんだ。世界なんて滅べば良い。誰からも愛されない俺は誰も愛していないんだ。だから皆、死ね!
「うそだね。」
クウは呟いて、泡を破り、水中に飛び出した。水は冷たく、でも清浄だった。ぐんぐんと水を掻いて水面を目指す。
ぷはぁ!
大きく、クウは息を吸い込んだ。手はしっかりと彼岸渡しを掴んだ。クウは曇った空を眺め、低木が覆う大地と沼地を見つめた。
「僕はロイやハクを愛している。世界を諦めない。誰が僕の声をまねたのか知らないけど、おかけで改めて大切な人や事に気付かされたよ。ありがとう。」
クウは笑いながら、そう言い放ち、身体を水中から引き上げた。




