第二十話 二乃越1。
一乃越を越えてから、三日間が過ぎた。夏に向かおうとする山は機嫌が良く、癇癪を起こさなかった。午後から夜に駆けて多少吹雪くこともあったが、長くは続かず、強度も弱いものだった。クウは順調に進んだ。一乃越を過ぎて、雪山の景色が少しずつ変わり、今では以前とは異なる景色の中をクウは進んでいた。大きな木の生息できる高度を越えて、木々は低木に変わってしまった。これから迎える二乃越を過ぎれば完全に樹木は無くなり、高山植物だけの侘寂の世界になるのだ。今はその直前。
二乃越は、別名惑ヶ原と呼ばれていた。低い木々の上を人々の足を掬うように亡者の声が囁き渡り、そこに足を踏み入れたモルフ達は正気を失い、惑乱の内に遭難するのだ。そこを徒で渡る者は居ない。通常は大きく迂回して三乃越に向かう。だが、クウは惑ヶ原を歩いて渡る計画だ。クウは黒丸から道を教えられていた。細く薄い板が惑ヶ原には渡されていた。それは、亡者の囁きを受け付けない大喝破が若かりし頃にこつこつと積み上げて架けた、彼岸渡しだった。その橋を渡る者は、亡者に襲われることは無いとされており、事実、大喝破の小さな式神はそこを通り、霧街と岩戸を往復していたとされている。
クウは遂にその端に到達した。彼の少し先には木で出来た橋――と言うよりは道――の始まりがあった。低い、低い低木が山肌を覆っていた。この辺りは温泉が湧くようで所々で雪に覆われた山肌が爛れたように地肌を見せて湯気を吹き上げていた。地面はうねり、波打つように大きく起伏して、クウの視界を踊らせる。軽いめまいに襲われたクウは、一旦目を閉じて、魂気を集中させてから、その景色に挑む。
「よし!いくよ!」
彼岸渡しに飛び乗ったクウを直ぐに異常が襲った。彼を惑わせるように空気が囁いた。
(そっちじゃないよ、クウ。ほら、右に進まなくちゃ。)
(左だよ、左。)
(ああ!だめだって!早く引き返さないと!)
空に掛かる日輪がぼやけて、冷やかし笑いを振りまいている。世界には何も信じられることが無いようで。それでもクウは進む。ここは単なるマイルストーン。数多の区切りの一つ。そうだ。走り抜けなくてはならない。そうだろ?そうでしょ?走る。クウは決めた。引き返すことは無く、ただ、前に進むだけ。クウは彼岸渡しを走り続ける。ゴボゴボと沼底から湧き上がるあぶくに、亡者の痩せて揺らぐ白い腕が踊る。筋張った腕に長い長い爪だけが鋭く、クウの足を攫おうと揺らぐ。クウはふわりと駆け抜ける。遙か昔に大喝破さまが残してくれた彼岸渡しだけを信じて、駆け抜ける。
(とにかく飛び込んで!)
と、声が響く。惑ヶ原の亡者の叫びだ。あぶくを吐き出す沼地の亡者。クウはだまされない。黒丸に教えて貰った大喝破さまの行いだけを信じて、彼岸渡しを駆け抜ける。そうだ。駆け終わるまでは、下を見てはいけないのだ。沼地に咲く甘い香りの花は二乃越の罠で、取り合ってはいけない。ここで絶命した数多の亡者の欠片がクウに夢を見させているのだ。そうだ、思い出した。ここを駆け終わるまでは息をしてはいけなんだった。クウは駆ける。そうだ。問題ない。ここを駆け抜けるまでは八時間かかるけど、息を止めることは問題ない。余裕だ。走れ走れ走れ。直ぐに身体は空気を求めてあえぎ始める。でも、クウは騙されない。走る。走れ走れ。息を吸ったらお仕舞いだ。二乃越の亡者に取り込まれてしまう。クウは意識をしっかりと保ち、両手で口と鼻を押さえて走り続ける。ふわりと意識が飛びそうになるがクウは騙されない。ここで空気を吸ってしまうと亡者達の罠に落ちる。
(ほら!息を吸って!死んじゃうから!早く!)
クウは耳を貸さない。それが大好きな幼なじみの声だったから尚更だ。彼女はここには居ない。それは亡者の罠だ。クウは必死に息を止める。
――後、何時間?7時間57分?頑張って息を止めなくちゃ。
それが絶望的な時間であることはクウは理解していた。多分、後、一分も保たない。でも、彼はやるしか無かった。最善を尽くして走れる限りの先まで走るしか無かった。無理でも不可能でもやるしか無かった。走れ!走れ!走れ!クウは走りながら、息が出来ずに気絶した。彼岸渡しに頭部を強打した瞬間に沼地から湧き上がる生白い腕に捕まれて、透き通る深い沼地の水の中に引き摺り込まれた。体中の空気を使い切っていたクウはただ一つのあぶくも出さずに、深い深い底に沈んで行った。




