第十六話 一乃越4。
ロープは恐ろしく重かった。十キログラムや二十キログラムではない。最も細いロープを選んだがそれでも百キログラムはありそうだった。勿論、クウは諦めない。舞闘で鍛え上げられた膂力は非常に強く、クウは少しずつロープを引き上げていく。ファンブルしたとは言え、彼は充分に強いのだ。掌を擦りむきながらクウはロープを引く。手が震え、息が上がると、ロープを杭にひっかけて、休憩した。休みながら手を血だらけにしてクウはロープを引く。汗をかき、体中に巻かれた包帯は土に汚れてほどけ、クウは薄汚い姿を晒しながら、それでも作業を続けた。やるもやらないも自分次第だ。クウは自身の意思で作業を続ける。ロープをたぐり寄せた。山は今日も良く晴れて清々しく、光は鮮明だった。美しく静かな世界にクウの息づかいだけが響いていた。そして、永久に終わらないかと思われた作業もお昼を迎える少し前に決着した。引きちぎられたロープの先が崖の切っ先から姿を現したのだ。当たり前だが、最後は笑ってしまうほど、軽く、あっけなくクウは作業を完了した。
早めのお昼をホシナシで済ませたクウは、状況を整理していた。引き上げたロープを自分の身長を基準にして測定したところ、長さはおよそ700メートルだった。黒丸から貰った地図が正しければこれは向こう岸に充分に到達する長さだ。また、これも黒丸情報が正しければ、崖下に到達するには300メートルほど足りない。でも、クウは霧街の城壁の外にある断崖から飛び降りることが出来ていた。崖下は柔らかい大地であるとは言え、霧街の断崖は500メートルはある。つまりクウはさほど時間をかけずに崖下に降りる手段を手にしたのだ。勿論だからといって対岸に到達出来るわけでは無い。だが、これでクウが旅を続けるためのオプションが二つになったのだ。落下傘大作戦と崖を上り下りする作戦の二つだ。
(どうしよう。)
クウは、断崖の側にロープを絡まないようにきれいに巻いて、その脇で向こう岸を眺めていた。クウは霧城の大断崖を上るのに3日かかっていた。この目の前の一乃越であれば、降りて渡るのに1日、上るのは7日は必要だ。落下傘でいくのなら1日で到達出来るが、リスクがとても高い。ロープをたぐり寄せてすりむけて掌が、崖を上り下りしようとクウを説得する。クウが決意を固めようとすると、崖下からの素晴らしい突風がクウを急かすように誘う。
……時間と成功率。
どちらを取ろうか、クウは考えていた。対岸に渡る事だけを考えれば、クウは崖を上り下りするだろう。時間がかかるがやり直しも利くし、いつか成功するだろう。だが、そこがゴールではないのだ。対岸は通過点に過ぎず、ゴールは大喝破でもなく、霧街の窮地を救うことだ。そしてその先には零鍵世界の死を止める大目標があるのだ。世界は謎の病に犯されていて、死を迎えようとしている。それは子供が生まれない……これは成体だけの問題になってしまったが……事による緩慢な死や、空の眼や流動する闇がもたらす暴力的な死もある。クウは世界を旅してその双方の脅威からこの美しい世界を守りたいと願っていた。逐鹿が旅立った様に、クウもまた世界の謎に向けて旅立ちたいと熱望していた。だから、ここで旅を終えるわけにはいかないのだ。これは、クウの人生で待ち受ける難題のほんの一部で、始まりにすぎない。突然、谷底から突風が吹き上がり、クウを誘うように揺さぶった。そして、クウの中の焦りが決断を鈍らせた。
(よし!落下傘で行こう。)
目指すゴールが遠ければ遠いほど、焦ってはいけない。失敗してやり直して、何度も挑む事が必要となる。もし、黒丸がここに居れば忠告できただろう。ここで無謀な賭に出て死んでしまえばその先はない。仮にここで霧街を烏頭鬼から救うことが出来なくとも世界は続き、可能性は残るのだ。今を大切にしない者に未来を語る資格は無い。だが、ここにはクウ独りだけで黒丸も渦翁もシキも、アマトさえ居なかった。クウは危険を承知で、賭に出ることにした。




