第九話 春夏秋冬 7
空を覆うような巨大な烏だった。アマトもクウもそれが発する魂気からその存在がラスであることを確信していた。翼を広げたその姿は翼長100メートルを優に超える。三本の脚と赤く燃える瞳を持つ狂気の烏だった。雲を切り裂いて飛翔し、山肌を削りながら逃亡者を捜す。ラスは吠える。切り裂くような甲高い声で。
「騒がしくて困るな。どうした。腹でも痛いのか?」
突如、雪深い稜線に現れた灰色のシミはラスを蔑むように零した。やれやれしかたないな、といった風情だ。その声を聞いた大烏は上空で翻りながらぎょろりと赤い瞳を振り返らせ、アマトを見つけた。ラスは羽を畳み錐もみして雪山に落下する。その間にもラスはしぼんで縮み、最後には人の形に戻っていた。とすん。と着雪する。ひひひひ。げらげらげら。ラスは空を仰いで、様々に笑い、世界を嘲笑する。
「いやいやいや。久しいねぇ。漸く会えたねぇ。いつぶり?先月の会議以来かぁ?」
そう言ってラスは爆笑する。さして面白くも無い冗談だ。アマトはその表情を変えない。ラスは、軽いため息をついて続ける。
「その愛想の無い顔は何とかならないのかねぇ。なぁ、気負わずに笑えよ、素顔のままの君が一番素敵だぜ。」
また、ラスは爆笑する。アマトは表情を変え――正直、髑髏の顔ではどれだけも表情を出せないのだが――なかった。かぱり、と唇の無い口を開き核心を話す。
「ラス。この世界を去れ。ここは貴様が居て良い世界では無い。三神の許可は無いだろう。」
「ウケるねぇ。貴様にはイドが無いだろ?それで何をするつもりだ。まさかこの零鍵の世界を救おうとでも思っているのかぁ?」
「当然だ。」
ラスは爆笑する。最高だ。最高の冗談だ。自虐ネタの極地だ。不可能に挑んでアマトは命を落とすが、誰も傷つかず、全ての人間がアマトはかわいそうだねってなる。ははははは。くくくくくく。ゲラゲラゲラ。散々、アマトのことを嘲った後、ラスははーあ、とため息をついた。
「でぇ?どうするつもり?」
雪山の稜線に風が吹いて雲が流れた。そろそろ日は中天にさしかかろうとしている。山の午後は荒れる。風が雲を運び、雪と雷を呼ぶだろう。純白の雪原のただ中でアマトは髑髏となってしまった醜い姿を晒していた。四肢には僅かばかりの肉が付いているが、胸の中央は抉られて虚ろだ。中天の太陽のように輝いていた以前の姿は見る影も無い。ゆらり、とアマトは大鎌を振るい、かざした。光が切れたような気配が漂い、周囲の気温はぐん、と下がる。ふらふら、へらへらしていたラスは表情を引き締めた。だが再び、にやにやと笑う。
「忘れてないよねぇ?お前にはイドが無い。その状態のお前が俺に勝てると思ってんの?可能性の話は止めてくれよ。キリが無い。確かにここは俺が居るべき場所ではなく、鍵は合わない。だが、それでも充分に強いぞ。理解しているだろう?」
「勿論だ。そして俺にはイドが無い。だが、ここは私の居るべき場所だ。勝負は五分と五分だろ?」
「ウケるねぇ……。」
その瞬間、霊峰リツザンは鐘音に包まれた。神々しくも畏怖を覚える、神々の鐘の音。底知れぬ深さの青空に響いて世界を揺らし、吸い込まれていった。山が揺れる。ラスの繰り出した足蹴りをラスが大鎌の柄で受け止めたのだ。その衝撃が世界に響いたのだ。たったそれだけで、世界が揺れるのだ。洞穴内部にいたクウはその途方も無い魂気を感じ取り、危険を承知で洞穴の入り口まで進んだ。クウが目撃したのは別格の魂気のぶつかり合いだった。ラスが蹴りを繰り出し、アマトが受ける。アマトが拳を突き出し、ラスが受ける。ラスの羽歯をアマトは躱し、アマトの大鎌をラスは避ける。特別な技巧もなく、特別な速度でも無い。ただその一撃一撃が世界を内包するかのような魂気を孕んでおり、一撃ごとに彼らの周囲の深雪を溶かしていく。空振が起こり、現れ始めた雲を割る。その拳と蹴撃の鐘音はリツザンに鳴り響いていた。




