第三話 春夏秋冬1。
――吹雪いていた。
漸く、リツザンの裾野と呼べる地域に到達したクウは大吹雪に見舞われる稜線を目撃した。その大海のうねりにも似た巨大な吹雪はリツザンの稜線を覆い尽くし、その雄山を深く閉ざしていた。白い貪食生物にも見える雪が山々を覆い、世界を閉ざしていく。クウが目指す大喝破はその奥、雄山の裏にある常春の泉の岩戸に居る。クウの周囲にもふわふわと大雪が振り舞い踊る。この先は急激に気温が下がるのだろう。雪の世界は氷の世界の始まりだ。岩戸までの道のりは過酷だ。日没にはまだ少し時間がある。よし、とクウは声に出した。
「一回、寝よう。」
クウは背嚢を下ろして野営の準備を進めた。クウ一人がなんとか座って入ることが出来るテントだった。脂をしみこませ乾かせた丈夫な袋状の布の中に入り簡単な骨組みを立てれば、テントの完成だ。クウはもそもそとカトを食べて、水袋の水を飲んで横になる。小さな魂力核も持ってきていたので暖かいスープを作ることも出来たが、クウは魂力核を温存していた。この先、熱源は益々重要になる。クウは大きな背嚢を枕にして、寝袋に潜り込んだ。少しずつ光が消えていくのをテントの中から感じ取りながら、クウは目を閉じた。黒丸から貰った地図――何度も見て、既に暗記してしまった――が正しければ、ここから岩戸のある場所まで40キロメートルある。これだけ険しい山道であれば恐らく10日の行程だ。もうすぐ夏を迎えようとしているリツザンはまだ多くの雪が残り、しばしば吹雪いた。恐らく、一歩も進めない日も出てくるだろう。カトは30日分ある。焦って失敗さえしなければ、到達出来る距離だ。季節も最悪ではないし、到達可能なミッションに思えた……途中の“越”を無視すれば。一乃越、二乃越、三乃越を考えるとクウの心は波打った。大渓谷、惑わしの声、狂獣。本当に岩戸にたどり着けるのだろうか?それを想うと、心臓が駆け足を始める。
何とか、クウは心を落ち着かせようと、大地のきしみを感じ取り、風の呟きに耳を澄ました。雪が降り、冷えが忍び込んで来ていた。でも、世界はゆっくりと回り、平穏で緩やかなマイトが満ちていた。ふと、冷やされていく大地の上を何かが這いずり回るのを感じた。何だろう?とても大きな何かが、ゆっくりと渦を巻くように彷徨っている。その渦は徐々に絞り込まれて中心部に収斂していく。その中心はこのテント。間違いない。ふらふら、ふわふわ漂いながら近づいてくる。大きくて力のある何かだ。クウはそれに意識を集中する。その姿を捉えようと魂気を集めていく。もやもやとしたそれは敵対種のようで……違った。敵対種には本当の意味での魂がない。愛情はなく、ただ、食欲と怒りだけがそれらの中を埋め尽くしているのだ。モルフとは根本的に違う存在なのだ。この時、クウはそのモルフでも敵対種でも無い存在を確かめようとしていた。魂気を研ぎ澄まして、それを感じようとした。瞬間――それは闇の中からクウのことを見つめ返し、歓喜の咆哮を上げた。巨大な顎の中にはクウよりも大きい牙が立ち並んでいた。それはクウのことを引き裂こうとするかのように、巨大な顎を開き、クウに丸太のような牙を突き立て――闇。クウはテントの中だった。周囲は真っ暗だ。汗をかいて、息が乱れていた。狭い空間にクウの息づかいがこだましている。
――寝てたんだ。
安心しながらも、何かを予感したクウは少しだけ身体を起こして、そっと入り口の布をめくり外を覗いた。闇で埋まっていた。世界は深い夜の中にあった。ただの夢だったのだろうか?
ざりざりざりざり……。
何かが何かを引きずってこちらに近づいてくる。夢で感じたあの存在だ。クウは静かにテントの入り口を塞ぎ息を潜める。
ざりざりざりざり……。
それは近づいてくる。夜の闇の中を。もう、渦は巻いていない。真っ直ぐにクウに向かって来ている。見られたのだ。夢の中でそれを感じようとして、近づき過ぎたのだ。
ざりざりざりざり……。
一瞬、直ぐにテントを飛び出すことを考えたが、思いとどまる。クウは、雪よけの大きな岩の下にテントを張っていた。土色のテントだ。日中でも目視では簡単に見つからないだろう。闇の中では尚。相手の移動速度も判らない現状では、このまま隠れていた方が良い。でも――見つかったら――見つかったら、その時は逃げ場は無い。夢で見た巨大な顎が蘇る。心臓が大きく波打つ。クウは静かに呼吸をして魂を落ち着かせる。大地と呼吸を合わせる。魂をオーロウ寸前の波長に持って行く。手足の感覚が無くなり、上も下も無くなる。自分の輪郭が、完全に無くなり、全体と細部は意味を持たなかった。
ざり、ざり……ざ。
それの動きが止まる。テントの直ぐ近くだ。だが、それはクウを見つけられない。クウはクウであると供に岩であり、山であった。クウ自身がそうであるように、その存在はクウを自然と見分けられない。だが、それは立ち去らず、長い長い間、そこに留まっていた。時折、それは身じろぎをして、ざりりと音を立てた。クウには肉を待つ獣の歯噛みにも思えた。時だけが過ぎ、雪が降り、風が吹いた。どれだけの時間が過ぎただろう。静かに闇は密度を上げていき――そして、次にクウが気付いた時には朝になっていて……世界に闇は、存在しなかった。




