第八話 裏町の死8。
渦翁は手を伸ばし肩をつかんだ。胆月はぎくりとなり、振り返る。
「落ち着け。我々が動揺してどうする。」
渦翁に言い返そうとする、胆月はしかし、続く渦翁の一言で我に返った。
「全ては複雑に絡み合って、“渦”を巻いている。一旦下がり、仕切り直す必要がある。」
胆月も一文字も渦翁のその言葉に事態の深刻さを感じ取った。渦に巻き込まれたのは誰だ?|誰が渦の中心に居るのだ?単純で策略を巡らすことが嫌いな胆月は、状況を理解しながらも真偽を質そうと渦翁に詰め寄った。が、一文字の苦い表情を見て、思いとどまった。息子が訳のわからない旅のモルフに良いように操られている一文字が堪えているのだ。自分が先に切れるのも迷惑な話だろう。渦翁は想い留まった胆月を見て、安堵した。最悪は回避された。だが、ラスが危険で誰とも価値観を共有しないことには変わらない。そして、ファンブルを憎んでいる。その瞬間、渦翁は心の空から音が消えて晴れ渡り、雲が流れ去るのを感じた。これまでの人生で渦翁はずっと考えてきた。これが正解か?それが命題なのか?考えるべきは何だ?常にそうやって考えてきた。思考力を磨いてきた。今、この時にその積み重ねが結実して花開いた。限られた情報から最適を判断した。渦翁は大切な命を守るための分岐点を見誤らなかった。そして、彼は行動に移す。……さて、と話を切り替えた。
「我々はラスと供に霧街に戻る。クウは好きにしろ。勿論、霧街に足を踏み入れることは許さん。」
驚いて質問しようとするクウを遮って渦翁が続けた。
「我々とラスはファンブルを信じていない。首切りの部屋を隠していたのは何故だ?そして、水紋の国が大きな災いに覆われたこの時、姿を消してしまった何故だ。むしろ!お前はどうして、ここに残った?何が狙いだ。さっさと仲間のところへ行ったらどうだ。正直、不愉快だ。お前の顔を見るのは。」
クウは世界が揺れるのを感じた。身体の中がかあっと熱くなり、精神が暴走している。ひどいよ!違うんだ!僕は何もしていない!自分を助けようとする言葉でクウの心の中は埋め尽くされていた。冷静では居られなかった。霧街に冷たくされ裏町に受け入れられてもらえず、でも、みんなのことは信じていた。自分が失敗してしまったとしてもゆっくりと愛情を注ぎ、大きく大きく育った自分たちの信頼は決して無くなる事は無いと。でもそれはただの夢想だった。こうなってみると……渦翁の言葉を聞いてしまった今では……そんな信頼なんて最初から無かった気さえした。
そうか。独りなんだ。僕は。
クウは実感した。身体が震えて今にも泣きそうだった。世界は傾いて今にも崩れ落ちそうだった。クウは思った。最後に聞こうと思った。その答えが何であれ、それを受け止めて、この場を立ち去ろうと。クウは言葉を吐いた。
「今までありがとう。僕はみんなのことが大好きだったよ。みんなのおかげで独りでも寂しくなかった。ねぇ、みんなはどうだった。」
クウは渦翁を見つめ、一文字を見つめ胆月を見つめた。胆月は何故か涙を浮かべていた。念鏡に映るのは幼なじみのロイ。彼に表情は無かった。そして、ハク。彼女の黒く艶やかで大きな瞳は更に見開かれていた。ひとしきりクウを見つめた後、彼女は振り返り六角金剛をラスを見据えて叫んだ。
「あたしは大好き!クウが大好き!たくさん、たくさん一緒に戦ったし、笑った。助けてあげたし、助けられもした。家族同然だよ。あたし達は最後の子で……。」
ハクの声は尻すぼみに小さくなる。一文字の困り顔や父である渦翁の怒りを伴う表情を見て、彼らが本気であることを悟ったのだ。彼ら六角金剛は考え、判断する。冷静に霧街を思い決断するのだ。その彼らが本気で判断したとなればもう、ひっくり返ることは無い。それは一つの確定した事実となる。
「……いや。駄目よ。どうしてそんなひどいことが言えるの?ねぇ、止めてよ……。」
でも、ハクはそれ以上、渦翁の気迫に押されて言葉を続けることが出来なかった。クウも全てを悟り、覚悟を決めた。そうだ。これでさよならだ。
「ありがとう、みんな。僕はもう行くよ。本当に、ありがとう。」
クウは下を向いた。考えても仕方がないと判ってはいたが、考えずには居られなかった。何が悪かったのかな?どこが分岐点だったのかな?道は他に無かったのかな?
……僕は何の役割を持って生まれてきたのかな。
何も無い。空虚だった。全ての意味は失われて、世界から色が抜ける。クウは振り返り歩きだそうとして、その背に声がかかる。クウを引き留めて慰め、愛を注ぐ言葉では無かった。
「おいおい。勝手は赦さないんだよねぇ。」
ラスはヘラヘラ笑い、右手をクウに向ける。ラスの指先が闇を纏い鋭い刃となり、伸びて、クウを引き裂く……直前に消えた。クウは消えた。ラスは苛立つ。
「あぁ?どういうことだ。」
感情を破裂させようとしたラスは、次瞬、強力な衝撃波を受けて大地を転げ回った。完全にラスは不意を突かれた。見たことも無い程、無様に転げ回った。それが余計にラスを苛立たせた。ラスは目の前の何も無い空間を長く伸ばした闇爪で切り裂き貫く。だが、その爪に命の手応えは無い。クウは消えた。ハクは泣きながらも安心していた。衝撃波が何を意味するのか、ハクには疑問を挟む余地などない明白な事象だった。それは、渦翁も一文字も胆月も……そして、ロイも理解していた。だが、誰も言葉を発しなかった。怒り狂うラスが落ち着いたところを見計らって渦翁は物語を進める。
「まぁファンブルの一人くらい、どうと言うことも無い。さぁ、そろそろ霧街に向かおう。我々には時間が無い。」
そして彼らは、裏町を後にして、霧街へと向かった。




