第七話 裏町の死7。
霧街がファンブルと呼ぶ裏町の住人達は全て消えた。僅か三十分の間に。霧街の六角金剛達はジズ大橋を落として烏頭鬼の行軍を止めた。少なくとも数日は烏頭鬼軍の侵攻は無いだろう。
「一体、何が起こっているの?」
クウの素直な声が医療施設の中庭に響く。一文字と渦翁は備え付けの石のベンチに腰掛け、負傷した胆月は芝生の上にあぐらをかいていた。ラスは背もたれの高い椅子をどこからか持ってきて浅く腰掛けている。唇は薄く半笑いだ。彼らの周囲を霧街の仲間達が取り囲む。でも、そこにはサカゲもグワイガも居ない。周囲には烏頭鬼達の血とジズ大橋が巻き上げた粉塵の香りが漂っている。日は傾いて、精彩を欠く。羊王角渦翁は、落ち着いた声で答えた。渦を巻く角が黒く光る。
「いずれにしても一旦、引き上げるしかない。ここが烏頭鬼の軍勢に蹂躙されるのも時間の問題だ。準備をしろ、全員連れて帰る。」
渦翁はテーブルの上に置かれた念鏡に向かい話していた。その先に繋がっているのはロイだった。彼は地下深くで見つけた首切りの部屋について念鏡を使い、状況を地上に伝えていた。哀れな犠牲者達が壁一面を埋め尽くしていた。足下にはサカゲやグワイガが失神したまま拘束されていた。ジズ大橋での戦闘を終えた一文字達をロイの念鏡が出迎えて、地下で起こったことを全て伝えたのだ。すなわち、首切りの部屋で、首謀者であるシキと遭遇し戦闘になり、辛うじてシキを撃退したこと。また、サカゲ達が裏切ってシキの味方をしたこと。ロイやラスに襲いかかったことを伝えた。ロイの話にラスも同意した。地下に居るラスはげらげらと下品に笑い、この大発見を悦に入って自慢した。自分は天才かもしれないと。一方で地上のラスは驚く六角金剛達の顔が面白くてげらげら笑っていた。黒い羽を零しながら哄笑を続けた。一文字は地下の息子に告げる。
「ロイ。ともかく上がってこい。犠牲者の弔いは後だ。全員で霧街に帰還する。それから、サカゲ達を解放しろ。彼らは仲間で、無実だ。」
ロイはかっとなり大声を出した。
「無実?違う!彼らは首切りの部屋を知るなり、俺たちに襲いかかってきたんだ。彼らはこの事実を隠匿したんだ。忍のポーと供に事実を隠そうとした。判ってるのか?理解しているのか?霧街の存亡の時だ!!」
叫ぶ彼の背景には無残な生首が壁を飾っていた。一文字は理解する。念鏡で見るだけでも心に刺さるこの光景を、息子は直に見ているのだ。苦しくて辛くて、冷静では居られないだろう。今は何を言っても反発するだろう。霧街の状況を考えると、ロイが反発せざるを得ない状況は望ましくない。一文字は、息子のためではなく、霧街の為に言葉を紡いだ。
「判った、ロイ。とにかく地上に上がれ。そして霧街に戻ろう。」
ロイは父のその冷めた瞳に何かの意味を見いだした気がした。だが、それを咀嚼する前にラスが笑い出した。ゲラゲラ。ゲラゲラ。
「へぇぇぇ。ねるほどねぇ……形勢が悪いと判断して息子に迎合するんだねぇ。息子に忖度???」
ラスは笑う。地下のラスも地上のラスも。ゲラゲラ。ゲラゲラ。一文字は苦い顔をする。だが、自身と同じように真っ直ぐな息子の性格を理解していた一文字はラスを無視して告げる。
「ロイ。上がってこい。烏頭鬼が足踏みしている今しか立て直す時間はない。裏町への不信も判る。だが、今は霧街を一番に考えてくれ。今を逃せば、烏頭鬼に敗北する。」
ロイは父の誠実な言葉を聞き、興奮していた自分を恥じた。そして。
「いやいやいや。なに命令しちゃってんのかねぇ。もう六角金剛は用済みなのにねぇ……まぁ、いいか。」
げらげら。げらげら。ラスは笑う。地上と地下で。ラスの物言いに激高しながらも、理性を失うわけにはいかない一文字は、気が狂いそうだった。一瞬、冷静さを取り戻そうとした息子の表情がすぐに熱病に浮かされた狂人のそれにすり替わってしまった。一文字は歯がみする。
……ラスは駄目だ。あれは……疫病そのものだ。
決定的な事実は無い。状況証拠さえもない。でも、心証は確定している。ラスは異常で、受け入れがたい。身近で言葉を交わすだけでも、身体を蝕むような致死的な何かを感じる。触れてはいけない。声を聞いても、目を合わせても駄目だ。近づいては駄目なのだ。一文字は全てを飲み込み、ここで一旦線引きをする事に決めた。争っては駄目だ。一文字はしっかりと深呼吸をしてから、霧街への退却について改めて語ろうとした。目を閉じて、再び開いた時、ラスは胆月に喉元を咬み千切られていた。黒い血飛沫を上げて、ラスは絶命した。胆月はラスの喉肉を吐き捨てて、血まみれの顔で宣言した。
「話を聞く必要はない。我々は常に正しい必要すらない。信じることを信じるだけだ。」
胆月は豪語する。それを見て安堵する異常な自分がいた。胆月の行動は狂人のそれと変わらない。それを承知で安心した自分がいた。ラスは絶対悪だと認識している自分がいたのだ。空の眼や流動する闇と同列の絶対悪だと一文字は直感していた。だが、ラスが霧街にどんな悪影響を与えているのか確信出来なかった。九頭竜から霧街を救い、首切り探しに尽力して、今日も烏頭鬼の侵攻を止めた。それは英雄の行いだった。だが、そこに正義はあっただろうか?自己の利益を超える、他者を想う判断はあっただろうか?一文字には判らなかった。今となっては永遠に。でも、もういいのだ。それで。永久に判らなくとも一定の平和を得られたのだ。一文字は目を閉じ、霧街の代表として、相応しい行うべき行動を思案した。答えは出なかった。でも、烏頭鬼の軍勢を前にした今は、それと対峙する準備を行う必要があった。一文字は判断を先送りにして、霧街への帰還を促した。促そうとした。でも。胆月の首が落ちた。闇の鉈が胆月の首を切り落としたのだ。胆月は悲鳴を上げること無く、絶命した。鉈を握る男が哄笑する。げらげらげらげら。
「はいはいはいはい。そんなもんだよねぇ。権力者なんてぇ。既得権益守るので精一杯……死ねば良いんだよ。みんなぁ。」
一文字の瞳から涙が零れた。胆月は死んで、ラスは再び現れた。地下のラスも爆笑している。どこから現れた?何人居る?ラスは何者?一文字は感情が渦を巻くのを感じた。長い、長い人生を供に歩んできた胆月は死んだ。あっさり。こんなことは許されるのだろうか?いいや、決して。一文字は爆発する寸前に渦翁に肩を捕まれた。
「何が目的だ。ラス。我々の魂を揺さぶり、対立させて何を見たいのだ?何を知りたい?言ってくれ。どれだけでも教える。何の秘密でも。だから、これ以上、我々を苦しめるのは止めてくれないか。」
渦翁の言葉に、ラスは一瞬真顔になった。少し不快そうな表情を浮かべたが、それはすぐに消えた。また例の馬鹿笑いが響く。
「俺は歩む者だ。何も望まない。ただ、世界を貫き歩いて行くだけだ。道中、やりたいことがあればやる。ただそれだけだ。貴様らのようなまがい物ではない。俺は本物だ。見ろ!」
ラスは大きく両腕を広げた。その腕は長く速く広がり、その指は長く鋭く伸びた。黒い刃となった彼の腕は、モルフ達を貫く。一瞬で数十人が切り裂かれて死んだ。モルフ達の悲鳴が上がる。一文字はこめかみを右から左へと貫かれていた。鼻から血を流し、死んだ。ハクは胸に何本もの黒い針が突き刺さり、貫いているのを見た。ごぼごぼと肺から血が泡となってあふれ出した。クウは辛うじて躱し、左腕がちぎれただけで助かった。倒れ込みそうになるがクウはこらえる。倒れている場合じゃ無い。無理でもやるしか無い。でも、何を?どうやって?悲鳴を上げるモルフ達の中心で……涙を浮かべるクウを余所に……ラスは大笑いする。見せしめとして生かしておいた渦翁に告げる。
「俺に偉そうな口を利くな。いいか?お前達は偽物だ。本物であり真実である俺に口答えするな。良いか?全ては貴様らの“勘違い”なのだ。世界は嘘だ。」
渦翁はふう、とため息をついて零した。
「時間だ。」




