第十三話 ハクの日常。
霧城の正面にある大きな門は正大門と呼ばれる、瓦葺きの大きな屋根を持つ門だった。この門は特別なことが無い限り閉ざされることはない。閉ざされることの無い大門は、開かれた政の象徴だった。ハクは守衛さんにぺこりと挨拶をして門をくぐる。苔に覆われた美しい中庭を通り、ハクは霧城の裏側に回り込んでいく。街の喧騒からうっすらと隔離された場所に高く細く白く落ちる滝があった。周囲は濃い緑の苔に包まれている。そこは霧滝と呼ばれる祈祷場だった。霧滝は霧街では霧宮に次いで神聖な場所で魂気を清め高めてくれる場所だった。世界や神々との繋がりを感じることの出来る、特種な聖域だった。ハクの父である渦翁は、よくこの霧滝で全を組み、滝行を行っていた。薄暗がりに追われているこの時刻でははっきりと見ることは出来なかったが、霧滝は小さいながらも深く澄んだ清浄な滝壺を備えていて、沢山の魚たちが浮遊するように泳いでいた。ハクは美しい滝壺の脇を当たり前のように……まるで、それが永久に失われることは無いかのうように、通り抜けていった。その先には、ファル家……ハクの一家……に与えられた霧城内の離れがあった。
鍵のかかっていない玄関の引き戸をかららと開いて、ハクは家の中に入った。
「ただいまぁ。」
ハクは気の抜けた挨拶をする。彼女の父である渦翁は六角金剛羊王角であり、また霧街の医療と情報を統括する組織、八掌の長でもあり、常に多忙で離れに帰ってくるのは深夜になることが当たり前だった。また、彼女の母はシロフクロウモルフのビャクヤで、四牙の隊長の一人だった。彼女は隊員達の教育係を務めていて、彼女もまた日々の業務に追われていた。街中ではモルフ達にもてはやされているハクだったが、家に帰ればいつも一人だった。渦翁もビャクヤもハクが待ちくたびれて眠りにつく頃、帰宅するのだ。
「遅かったわね。クーちゃんとデート?」
廊下の奥から、ビャクヤが現れた。人化状態の彼女は溶けるような真っ白な羽毛に包まれた美しいモルフだった。にっこりと微笑んでいた。
「ママ!」
言いながらハクは駆け出して、ビャクヤに抱きつき、ビャクヤの顔は更に緩む。激情のモルフである彼女のこのような姿は四牙の隊員達には想像もつかないだろう。二人は仲良く早口でお話ししながら、台所へと進んだ。
「おかえり。もう少しで出来るからママと待っていなさい。」
ハクはびっくりして眼をまんまるにする。渦翁も帰宅していた。渦翁がこの時間に帰ってきているなんて年に何度も無い。しかも、外では決して見られない人化状態だった。渦翁は彼の術効力が最も高くなる半獣化状態でいつも過ごしている。彼の強力な練術である“ソ”は常に最大効力で発動できる状態にしておく必要があるからだ。だから、彼は黒山羊の頭部と脚に人の身体の姿という半獣化状態で居ることが常になっている。今、この一時は任務から離れて居て、人化状態に遷移していた。心配事はここには存在しないのだ。今暫くは。ハクは面長で精悍な顎髭のある人化状態の渦翁の顔が大好きだった。半獣化状態はどうしても強面になってしまうので少し怖いのだ。でも人化状態であれば柔面で幼生である自分に近しくて安心するのだ。
「パパ!ただいまっ!何作ってるの?」
ハクは渦翁の元に駆け寄って台所をのぞき込む。渦翁は微笑みながら返す。
「野菜たっぷりの湯豆腐だよ。」
「えー!肉喰おうよー!」
空かさずツッコミを入れるビャクヤと困り顔の渦翁を見てハクは幸せな気持ちなった。笑いながら二人の服を掴んで言った。
「あたし、両方食べるー!」
「そうか。じゃぁ、肉入りの野菜たっぷりの湯豆腐にしようか。」
「えー!肉だらけの肉豆腐鍋にしようよ-!」
「いや、湯豆腐消えてるよ。」
久しぶりに両親のくだらないやりとりを見たハクは胸が温かくなった。ああ、これが毎日続けば良いのにな、と想いながら、ぴょんぴょん跳ねて笑っていた。霧城の陰に隠れるように佇む、その離れからは笑い声と暖かな光が漏れて、そこには小さな家族の日常が確かに存在していた。