第十六話 砂煙。
「ここに居たか。」
渦翁はやれやれとつぶやくようにその大きな背中に告げた。返事は無い。霧城に八つある物見の塔の一つ……一番見晴らしの良い第二の塔に黒丸は居た。遠く水平線を眺めている。春を迎えようとしている海は穏やかで陽光をゆっくりと混ぜ返している。
「首切りとの交戦以降、犠牲者は出ていない。ひょっとしたら手傷を負って身動きがとれないのかも知れない。」
渦翁は黒丸の隣に立ち、信じていない話をする。チラリと彼の顔を盗み見る。
「どした。難しい顔だな。」
二人とも壮年のモルフで、しかもこの街最強の六角金剛の称号を得ている。一見すれば、怖い物など何もなく、迷いや弱さとは無縁の存在に思われる……が、そうでは無かった。彼らでも、迷い、恐れ、間違うのだ。黒丸は大きくため息をついて話始める。
「わしはどうすれば良いのかわからん。クウはファンブルしたし、ロイは何かに取り付かれたように首切りを探している。ハクは評議会を辞めたし、新しい子供は一向に生まれん。裏町はどんどん離れていく様に感じる。逐鹿殿も戻らん。大喝破様も霧街に現れんようになったし、ジュカは滅び、次は霧街の番じゃ。なあ?どうすればいいのだ?敵対種なら、わしが殴り倒そう。逐鹿殿を探しに行くことも厭わん。じゃが、子供が生まれんことにはどうやって戦えば良いのじゃ?緩慢に滅んでいくの待つしかないのか?大地を埋め尽くす流動する闇にはどう対処出来る?空の眼には?」
「答えはないよ。黒丸。私達で探すしかない。」
渦翁は間髪入れずに答えたが、黒丸にとっては永遠の時が過ぎていた。冷たい海風が街を駆け抜け霧城を駆け上がり、彼らの言葉を流し去る。がりがりと黒丸は頭を掻く。
「すまんかった。先日、クウを裏町に置いてきてしもうた。悔やまれる。今のはだたの愚痴じゃ。忘れてくれ。」
渦翁はすっかり老けてしまったこの親友の肩をたたいた。ぽんぽん。黒丸には渦翁の掌のぬくもりがありがたかった。渦翁は微笑んでから続ける。
「なぁ。もう手遅れかも知れない。世界は徐々に死んでいくのかも知れない。でもな。だとしても私は止めない。大切な妻や娘、親友や街人が生きるこの世界を守ることを諦めない。お前も付き合えよ。黒丸。」
わっはっはっ、と大きく黒丸は笑った。冬の名残りの低い空が少し押し上げられた気がした。
「そうじゃな。暫く足掻いてみるか。打ち手が見えぬのは、問題が見えていないからじゃ。表層ではなく深層を見る必要がある。或いは全く新しい情報が必要なのかも知れん。」
また、渦翁は黒丸の肩を叩き、黒丸は渦翁と肩を組んだ。もう何十年も前からこうして互いを励ましてきた。悩みながら、苦しみながら。今、ハク達がそうであるように、彼らにも青く、感情的で脆い時期があったのだ。いや、今もそうなのかも知れない。顔のしわが増えただけで、中身は何も変わっていないのかも知れない。いずれにしてもやるしか無いのだ。無関係に思える様々な問題は必ずどこかで繋がっていて、それは世界の終焉へとたどり着くのだ。それを止めなくては。大切な人たちの世界を守る、二人は改めてそう決意した、が。
「おい。ジズ大橋の方を見ろ。」
渦翁に言われて、黒丸は顔を向ける。穏やかだった彼の表情はぎゅっと締まった。再び空が下がり、雲の厚みが増した様に感じられた。不吉が立ちこめる。渦翁が指し示す先、ジズ大橋の向こうに伸びる街道が黒く塗りつぶされている。微かに砂煙が立ち上っている。黒丸は素早く足下にある望遠鏡を取り上げ覗き込んだ。黒丸は見た物を信じられなかったが、そのままを渦翁に伝える。
「距離50キロメートル、数万規模の軍隊じゃ。」




