第十五話 闇底 2
ハクの中を黒い渦が駆け上がる。我々が悪いと思っていた。裏町への差別は我々の思い上がりと思いやりの無さが根本にあるのだと考えていた。だが、現実は違った。裏町は裏町で境界線を持っており、その利益を確保しようと必死なのだ。我々は仲間ではないのだ。全ては幼生の妄想なのだ。自分はまだ、子供だったのだ。世界に愛は満ちあふれていない。愛で世界を満たしたいのなら、狂気から切り離して柵で囲って守るしかないのだ。多様性など、認めるわけにはいかない。ハクの愛らしい顔には怒りが渦を巻いて、形相が変貌して、血の色の痣が浮かび上がる。隈取り……舞闘を極限まで極めた成体がその最大能力を発現する時に現れる文様……だ。白いハクの顔に赤い隈取りが現れ、口が裂け、牙が伸びる。爪が伸びて和毛が逆立ち、雷を孕む。それはまるで敵対種さながらの姿だった。あさつゆは圧倒され、身動き一つできずにいた。ハクは完全に怒りに我を失い、何もためらうことなく、あさつゆに飛びかかった。短刀の様に長く伸びた爪を振りかざしてなぎ払った。あさつゆをスライスする……つもりだった。実際は、
「おお。怖いですね。黒化を削るのですか。」
紫檀のパーロッサが二人の間に割って入り、ハクの渾身の斬撃を黒化した左腕で受け止めた。金属が打ち合う鋭い音が響いていた。あさつゆは腰が抜けてへたり込んでしまう。隈取りに支配され正気をなくしているハクは策もなくそのまま、爪でパーロッサを切り裂こうとする。長身のパーロッサはハクの力に押され、左腕が少しずつ削られていく。裏町の支配者層である紫檀のパーロッサは目の前にいるオコジョモルフが誰で霧街にとってどのような意味を持つのか十分に理解していた。
(最後の子か。霧街にとっては何者にも代えがたい存在で、最後の希望なのでしょうね。)
だが、裏町にとっては違った。最後の子など無意味だった。全ては変わってしまったのだ。パーロッサは自身の左腕と目の前の娘の命を天秤にかけて、右に構えた長刀のこいくちを切った。そのまま右手で逆手に持った長刀を振るう。一切の迷いなくハクの首を狙って振るった。
「いや。勘弁してくれ。この子は最後の子じゃ。引いてくれんか。」
パーロッサは我が目を疑った。振り切った筈の長刀が目の前の何も無い空間で制止していたのだ。次瞬、眼前の空間が水の様に揺らぎ、ツノガエルモルフが現れた。六角金剛蛙王角の黒丸だ。体の表面が分厚い透明な膜で覆われており、刀が通らないのだ。同じく、先ほどまで左腕を切断しようとしていたハクの凶爪もそれに捕らわれており、パーロッサから引き離されていた。ハクは狂った様に藻掻くが、黒丸はまったく動じていない。
「そうね。ここまでにして、置きましょうか。」
地下廃病棟に張りのある声が響く。奥の闇の中から白檀のイソールが現れた。黒丸は露骨にいやな顔をする。イソールは気に留める様子も無く続ける。
「蛙王盾と水鏡ね。相変わらず怖いわね、黒丸。」
ハクを取り囲むオコジョ達はイソールを避けるように飛び跳ねて闇に消える。地下廃病棟の闇の中に浮かぶクウのベッドの周りで、彼らは短い協議をする。
「わしはハクの様子が変じゃったから、後をつけてきた。クウがここに居る噂も聞いておったしの。あんたも何かを感づいてここに来たのか?」
「そうね。あさつゆの様子が変だったからパーロッサ達にお願いして監視をしていたの。大事に至らなくてよかったわ。」
どさり、とハクが倒れ込んだ。黒丸が戒めを解いたのだ。簡潔に伝える。
「ハク。わしの体表には毒がある。暫くは体の自由がきかん。おとなしく霧街に帰るぞ。」
ハクの顔から隈取りは消えていつものハクの姿に戻っていた。疲弊して吐き気がしたが、ハクは精一杯を伝える。
「黒丸!あさつゆはクウに毒を盛っていたの。クウがひどい病気に苦しんでいたのもそのせいだったの、あさつゆには罰を受けてもらうわ!」
ハクは、クウがひどい目に遭っているのだから当然、黒丸も怒り狂って、自分の意見に賛同してくれると考えていたが、そうでは無かった。
「これは裏町の問題じゃ。ファンブル同士の揉め事じゃ。さあ、帰るぞ。」
ハクは信じられなかった。呆然となり、少し笑ってしまった。
「え?どして?あんなにたくさんの時を過ごして笑って泣いて、あたし、クウとずっと一緒に生きてきたんだよ!それ、それをファンブル同士の揉め事?」
「ええかげんにせえ。霧街と裏町は互いに協力はするが不可侵の部分を守って共存しておる。特にモルフの生死に関わるような事件や事故についてはそれぞれが対処することとしておる。評議会におるのじゃからハクもわかっておろう。」
「そうよ。お嬢さん。あたし達がそちらの首切りについてとやかく言わないのは不可侵の大前提があるからよ。勿論、協力の要請があれば別だけどね。」
年老いたファンブルのイソールが優しくしかし、堅い意思を持って黒丸の言葉を補強した。
「うそよ。じゃぁ、クウをこの人殺しの所に置き去りにするってこと?だめよ。殺されちゃうわ!」
「かわいいお嬢さん。気づいてあげられなくて、クウのことは本当にごめんなさい。私が責任を持って直接、治療するわ。恐らくあなたのお父さんが直接治療に当たるより、確実に速やかに良くなるわ。」
「でも……。」
イソールは胆力を込めて、発した。
「もう、クウには会いに来ないで。これは裏町《私達》の問題よ。」
ハクは泣きそうだった。もう会いに来ないで?どういうこと?だってあたし達は最後の子で親友で幼馴染み。誰にもあたし達の関係を壊す権利などない。あたし達が望めば、この関係はずっと続くの……だが、イソールの気迫と黒丸の決意を感じてハクの喉は干からびていく。声がかすれて何も言えない。黒丸はハクを担ぐ。既に毒の体表は消えており、いつものやわらかな皮膚に戻っていた。
「騒がせたな。申し訳ない。この件に関してはこれで手打ちとさせてくれ。」
長身の黒丸が小さなイソールを見下ろして言った。白檀のイソールは返す。
「ええ、結構よ。クウのことは任せて。私が責任を持って、精一杯の面倒を見るわ。」
黒丸はベッドに沈むクウを見つめた。大好きなおにぎりは食べられて居るのだろうか?ふと、体の芯から何かが込み上げてくるのを感じて、背を向けた。
「イソール。シキタリに従ってクウは置いていく。だが、これまでじゃ。クウにこれ以上何かあった時は、裏町にも覚悟してもらう。よいな。」
「結構。その心配は要らないわ。最後にお嬢さんに教えてあげるわ。クウはファンブルしているわけでは無いの。あなた達にはわからないでしょうけどね。全てが解決したら迎えに来るといいわ。ただ、彼はその時に霧街と裏町とどちらを選ぶでしょうね。世界は普遍ではないわ。裏と表が逆転することもあるのよ。」
言いながらイソールは自嘲的な笑みを浮かべた。少ししゃべりすぎてしまった。まあ、いい。問題にはならないでしょう。黒丸は不要な追求はせずに歩き去った。その場に取り残されたあさつゆも、追い出されたハクも、ただ静かに泣き続けていた。




