第十四話 闇底 1
あさつゆは泣いていた。クウの体調が悪化しているから。高熱と嘔吐、痙攣が断続的に続いている。意識は空白で、いよいよ危ない。もうこれでお仕舞いかもしれない。医療施設の地下廃病室で、あさつゆは独り泣いた。
……あたしが間違っていたのだろうか?違う。ハクが間違っていたのだ。クウを独り占めしようとしていた。クウが間違っていたのだ。どれだけ止めようともあの廃屋に戻ることをやめなかった。イソールが間違っていたのだ。そうだ。みんな間違っていた。あたしは?
「クウ。」
広大な地下廃病室の入り口に呆然の声が落ちた。あさつゆは驚いて振り返る。闇の中から現れたのは、天使のように愛くるしいハクだった。大っ嫌いなハク。何もかもを持っているくせにクウを横取りしようとしているオコジョ。どうしてここが?底の見えない天井を支える太い支柱が整然と立ち並ぶ中、ハクはふらふらと歩いてくる。大きな瞳は見開かれている。すらりと伸びた手足が美しかった。美人でかわいくて強くて、若隈で評議会に属している。
「どうして?どうしてここに来るの?あなたは何でも持っているじゃない!あたしにはクウしかいないのに!どうしてクウを盗みに来るの?」
あさつゆの足元で獰猛な肉食獣の威嚇音が聞こえて彼女は後ずさった。足元にいたのは無数のコジョコジョ、ハクの式神だ。
「トト。攻撃はしないで。敵対種ではないの。……敵かどうかは別として。」
群れのリーダーである黒オコジョのトトはハクの声を聞いて、振り返る。ハクとお揃いの漆黒の瞳が美しい。が、眼には血を求める獰猛が写っていた。トトは素早くあさつゆの身体をよじ登り。耳元に鼻を寄せる。あさつゆは悲鳴を上げるが、トトはやめない。散々匂いを嗅いで、そして威嚇の唸りを上げる。あさつゆは怯えて倒れこむ。トトは眼を赤くしてあさつゆの首筋を噛み切ろうと、
「トト!!」
ハクの気迫がトトを制した。トトは不満そうにハクを見つめる。黒い体に真紅の口が輝く。ハクの式神の中で唯一、言葉を理解するトトが返す。
「ハクさま。この女は死の匂いがします。これは良くありません。クウさんのことを想うのでしたら、処分した方がいいです。これは死、です。」
トトの言葉にあさつゆは悲鳴を上げた。恐れ怯えて四つん這いでトトから遠ざかろうとする。だが、トトが制御するハクの式神……九十九匹のオコジョ……はあさつゆを取り囲み威嚇して、逃がさない。広大な地下廃病棟の中央部に頼りない明かりで保たれているクウのベッドの周囲の光ある空間と闇の境界に九十九匹のオコジョが目を光らせていた。あさつゆには、無限のオコジョに取り囲まれているように見えた。広大な地下廃病棟の闇の全てをオコジョが埋めているように感じられた。その圧倒的な圧力にあさつゆは恐怖して、悲鳴を上げて叫んだ。
「助けて、やめて!あなたが悪いのに!あなたがクウを横取りしようとするからよ!他にどうしようもないじゃない!クウはベッドに居るときだけ、あたしの物になるの!熱を出して血を吐くときだけはあたしの所有物になるの……病状が回復すればすぐに居なくなって……。」
地下廃病棟の闇は張り詰めて静寂が引きつるような悲鳴を上げ始める。きいいいいいいん、と闇が微細に震える。
「え?どういうこと?」
ハクは大きな美しい瞳を見開いて、ぽとりと零した。オコジョ達の瞳は赤く輝く。あさつゆは泣きながら叫ぶ。
「あたしが毒を盛ったのよ!クウに毒を与えたの。いつまでも回復しないように、あたしの側を離れられないように!だって、他にどうすればいいのよ!クウは全てだったの!あたしの人生の全て。あたしは、失敗して病に冒されて徐々に弱っていくだけの人生だった。霧街からは差別され、裏町の中でも忍とは区別された。あたしの人生は徐々に摩耗して失われていくだけだった。死人と変わらないような病人に囲まれて自分もちょっとずつ死んでいく。誰もあたしを必要としなかった。あたしなんてお薬を出すだけの召使いだもの!誰もあたしの話なんて聞いてくれなかった。誰もあたしと笑いを分かち合ってくれなかった。その世界の中で、クウだけは違った。彼はあたしを見てくれた。話しかけて、微笑んでくれた。でも、彼は別世界の人だった。霧街の希望で最後の子。世界の明暗を分ける存在だった。失敗するまでは。」
オコジョ達はあさつゆの狂気にうなり声を上げ、ハクは震える。目の前に居るあさつゆは闇、そのものだった。闇がうねる。
「クウは失敗したの。落ちてきた。目の前に。嬉しかったの、彼が手の届くところに来てくれて。あたし、生まれて初めて、幸せだった。」
あさつゆは大きく息を吸って吐いた。
「あたし、彼とずっと一緒にいることに決めたの。彼をベッドに沈めて。いいでしょ?別に。だって失敗したら霧街から見捨てられて、誰も顧みないもの。」
あさつゆの笑顔にハクは絶叫した。それは獣の叫びだった。九頭竜のそれだった。そこに言葉はなく、ただ一つだけの感情が乗せられていた。
それは、殺意。
ハクは叫んだ。クウがファンブルしてからずっと、彼が元気になることだけを望んできた。彼との距離を詰めたくて、霧街と裏町が本当の意味で繋がることを願っていた。歪んだ差別がなくなり、霧街も裏町もお互いを世界の……多様性の……一部として受け入れられるそんな日常を望んでいた。
……それで?これか?




