序章 7.ロバに乗った姫君
マッサリアの騎兵が乗り込んできたのは、実は偶然ではない。
立ち会いの前の晩、ルルディはこっそり部屋を抜け出した。
幼いころから何度も遊びに来ている城館。目当ては厩だ。
何頭もの駿馬を尻目に、彼女は一頭のロバを探し出した。
「ヒンハン、私を覚えてる? もう一度、私を乗せておくれ」
あたりを見回すと、ヒンハンの鞍と馬銜が壁にかけてあった。
この時代、馬銜は当たり前だが、鞍は普及していない。熟練の騎兵でも、裸馬に乗るか、厚手の背布をかけた上にまたがるだけだ。
乗馬には当然ながら長い時間の訓練が必要となる。
マグヌスは騎乗に不慣れなルルディのために、わざわざロバに鞍と鐙を用意しておいたのだ。
見よう見まねで、馬銜をくわえさせて腹帯を締め、旅の間にマグヌスに教えられた通り、鐙につま先をかけて飛び乗る。
「えいっ!」
この際、お行儀は置いておく。
メイ城のお付きの侍女が見たら悲鳴をあげるに違いない。
横座りではなく、着物をたくし上げて、しっかりと両足で鐙を踏み、
「さあ、行くのよ。お前の御主人が大変なのだから」
深夜、門を守る兵には、指輪を渡した。
「メイ城のルルディです。緊急の用があって通ります」
「げえっ、姫様……どちらへ……」
「許婚の部下のところへ。これを私が渡したと言えば、おまえがとがめられることはありません」
気迫に押されて門番は脇の潜り戸を開けた。
「ご無事と一刻も早いお戻りを」
「ありがとう」
ルルディは城外へ躍り出た。
「マッサリアに続く街道……」
ルルディは迷わず、ヒンハンの足を進めた。
マッサリアの軍隊は近くまで来ていると彼は言った。
間に合うかどうかわからないけれど、王とルークの立ち合いを止めさせたい。
というよりも、アルペドン王アレイオの手から自分を救い出し、助けてくれようとした人が、命を懸けた決闘に挑むときに安穏としてはいられない。
今まで、漠然と許嫁と考えていた相手が、明確な人物像として、一人の人間……好ましい人間の姿を取っていた。
「ヒンハン、急いで!」
夜の道を行く人はいない。
麗人が励ますままにヒンハンは脚を動かした。
このあたりの広くて三重に舗装された街道は、星明りの心細さにも迷う心配は無い。
「マッサリア軍……まだなのかしら」
目印も何も無い街道を走り続けて、マッサリアの旗を掲げた天幕の群れにたどり着いたのは、やっと明け方になってからだった。
兵士たちはすでに起きて朝食を摂っている。
「人数は少ないわね……王がチタリスにいらっしゃるなんて思わないもの」
ルルディはヒンハンに乗ったまま、思い切り息を吸い込んで精いっぱい大きな声を出した。
「私はミタール国メイ城のルルディ。マッサリア王の許嫁です。急いでチタリスに向かいなさい。マッサリア王がそこにいらっしゃいます」
ざわざわと兵たちがこちらを向く。
ルルディは続けて叫んだ。
「王は、チタリスの去就をかけて一騎打ちされようとしています。止めて」
「ほう。このロバの主人が一騎打ちとな」
隊長が答えた。そして、
「黒髪を、こう、後ろに束ねたお方かな?」
「そうです。時間がないの。急いで」
隊長は周囲の兵士とうなずきあった。
「ほほう。それなら、間違いなく……」
隊長は、数人の部下を呼び集めると、後方各部隊に伝令を命じた。
手順を済ませてから、
「姫自ら恐れ入ります。休んでいただくために野営地はこのままにしておきます。我々はチタリスへ向かいます」
そして、その場には護衛を一人残し、十五人の集団となってチタリスへと駆け去った。
ルルディはやっとロバから降りた。
「ヒンハン、大丈夫よね」
彼女はロバの首を抱いてすすり泣いた。
「マッサリア王は大事ありません。ご心配なく」
残された護衛が声をかけた。
「どうしてそんなことがわかるの? 相手はクマ殺しのルークと言われる人よ」
ルルディは、声を荒げた。
「いや、それは……」
もの言いたげな表情のまま頭を垂れた兵は、ヒンハンに水をやる。
「あの時、私がチタリスに行きたいなんて言ったから……」
「姫、少しお休みを」
「休みません! このままチタリスに引き返します!」
と、言葉は気丈だが、膝が笑って、立っていられない。
あたりを見回して座れるところを探し、隊長の床几に腰掛ける。
「姫、パンと水が残っておりますが……」
「いりません」
ルルディは気が張ったまま、兵士の言葉に耳も貸さない。
「奥に入って寝台でお休みになることも……」
「いいの! 放っといてちょうだい!」
取り付く島もないルルディの態度に、兵は困り果てて、
「御用があればお呼びください」
と小声で言い残して幕屋を出た。
日は高く昇った。
本隊もまだ追いついてこなければ、チタリスの様子を知らせる伝令もない。
兵はあくびを噛み殺した。
休めと言われても休めなかったルルディだが、ついに限界が来た。
一晩走り通した疲れが出て、まぶたが重い。
眠気に負けて、こくりこくりと居眠りを始めた。
「おやおや、こんなところでお目にかかるとは」
快活な声に眠気は吹き飛んだ。
「マグ……エウゲネス様!」
よろよろと幕屋の外に出てみると、灰色の裸馬にまたがり、にこやかに笑う青年の姿があった。
「試合見物もなさらない、お部屋にもいない、ヒンハンは鞍ごと厩から消えている、で、もしやと思って馬を一頭失敬してこっちに来てみたのです」
「試合は、勝ったのですね?」
「いいえ、負けました。でも、こうして生きていますし、あなたのおかげで先遣隊が到着し、チタリスは完全にマッサリア側につきました。ありがとう」
護衛兵が、何か言いたそうに、マグヌスに視線を送っている。
「本隊はミタール公国に入ったか?」
「はい、昨日のうちに」
「戦うなら、アケノの平原だな」
「隊長も同意見です」
ふぅ、と若者は溜息をついた。
「ところで……」
急に改まった口調になる。
ルルディの前にひざまずき、深々と礼をした。
「あなたの誤解を利用して、危険な目に合わせたことをお詫びします。私はマッサリア王ではありません」
その言葉にルルディは衝撃を受け、大きく青い目を見開いた。




