序章 2.いにしえの帝国
「ルルディを逃がしただと!」
早馬の知らせにアルペドン王アレイオは激怒した。
彼は王座を降り、いらいらと広間を歩き回った。
恰幅の良い初老の男で、耳には耳飾り、腕には腕輪、腰には金を貼ったベルトと、装身具をつけられるだけ着けている。彼は指輪をはめた手を握りしめ、知らせを取り次いだ家宰を怒鳴りつけた。
「せっかくエウゲネスの許婚を捕らえたのに、何のために五人も護衛をつけたと思っている! 相手はたった一人というではないか! どこのどいつだ!」
「名乗らなかったのでわかりません。ただ。古い上衣を着た若者とのみ」
家宰がアレイオの怒りにおびえたように答える。
「とにかく街道の関所を固めて、メイの地から逃さぬことが肝要かと」
「ううむ、お前の言うとおりだ。若い男女の二人連れを通さぬよう、ミタール公国の街道すべての関所に触れを出せ」
ドスン、と玉座に身体をあずける。怒りの発作は去ったようだ。
アレイオは、せせら笑った。
「マッサリアごときが旧帝国の復活を語るとは」
かつてこの地には、多島海を抱き、世界を統一した大帝国があった。
だが、神々に愛され繁栄を誇った帝国にも終焉の日は訪れた。
内紛で東西に分かれた後、東の帝国は皇帝を頂点にした体制を維持し、比較的安定を保ったが、西の帝国の後には無数の小国が乱立した。南大陸の諸国は東西どちらにも加担せず独自の道をたどっていった。
西の帝国の後から再び大国家を建設しようという動きが起きたのは、分裂後に八十余年を経てからだった。
マッサリア王国も、アルペドン王国もこの動きから生まれたものだ。
旧西帝国内陸部に位置するマッサリア王国が、一足早くエウレクチュス王国征服や、ミタール公国、ルフト侯領、インリウム国、グーダート神国との同盟によって旧西地方をほぼ手中に納め、多島海を渡って大規模な南征、植民市建設へと乗り出した。
旧帝国再建のために、まずは西方を統一し、その戦力を持って多島海を渡った南方諸国、東の旧帝国までを併合するつもりなのだ。
ただ、アルペドン王アレイオはもちろんそれに従うつもりは無かった。
マッサリア王エウゲネスの不在を狙って、反旗を翻してみせた。
「南征で負担が増える」とする諸国の不満をも掬い取ってのこと。
しかしながら、周囲の国々も挙兵するという目論見がまず外れ、そしてカギとなるルルディも逃がしたというのが現状である。
ルルディをさらったのには、富める国ミタールからの許婚、しかも謳われるほどの美女であるルルディを奪い、エウゲネスの野望を財政と心情の二面から突き崩す狙いがあった。
「なんとしてもルルディとその若造を捕らえねば」
アレイオは親指の爪を噛む。
「ちょっと待て」
と、家宰の背後から現れた人物が口をはさんだ。
アレイオの宮廷に寄食している、人呼んで「熊殺しのルーク」なる剣客だ。
長身痩躯、とび色の髪に黒い目、そして、長い剣を背に負っていながら、隙のない身のこなしで姿を現す。
「五人をあっという間にか。それほどの手練れとあらば、一戦交えてみたいもの。生かして捕らえるように付け加えて頂きたい」
「ルークか。気持ちはわかるが、そんなことを言っている場合ではない。我々はマッサリア王国に対して反乱を起こしたのだ」
わはは、とルークが高笑いするのを、うるさげに聞く。
「俺は人生に飽き飽きしている。だからこそ勝ち目のないアルペドンの側についたのだ。今を時めくマッサリアが倒れるならそれをこの目で見てみたい。この剣で無敵の剣を誇るマッサリア王を倒してみたい」
アレイオは、持て余し気味に溜息をついた。
「ルーク殿、それよりも、今は行ってもらいたい所がある」
「どこなりと」
「そう、チタリスへ……」
二日目の夜。
森は静まり返っていた。
揺れる炎が「メイ城の華」と呼ばれる、ルルディの美しい寝顔を照らしていた。
突然、ロバのヒンハンが足踏みしていなないた。
あたりに潜む獣の気配に気づいたのだ。
闇の中にオオカミの目が不気味に光っていた。
マグヌスは、そっと身を起こして抜刀した。
カサコソと音を立てて近づいてきた、やせこけた黄色いオオカミが口を開く。
「お前は何をしている。その女は王のもの。マッサリア王のものではないのか」
「違う! 人を物のように扱うお前は間違っている」
オオカミはダラリと舌を出して笑った。
そして、間合いを詰め、勢いよく飛び掛かった。
マグヌスの刃は空を切った。
牙が肩に食い込む苦痛に思わず声を上げ、その声ではっと我に返る。
「……夢か。黄色いオオカミよ……お前はいつまで私にとりつくつもりだ……」
食いしばった歯の間からかすかにうめき声が漏れた。
(黄色いオオカミよ、政争に敗れた先の王妃よ、無念のあまり死者を統べるグダル神の下へも行けないのか)
彼は幼い日を思い出す。
評議会の意向を受け、有力な家臣が蜂起した。そして当時まだ幼いエウゲネスを王として立て、実権を握っていた母后を処刑したのだ。
エウゲネスの異母弟がマグヌスだった。
エウゲネスが傀儡として王の座を開始したのに対し、邪魔者となったマグヌスは、南の大陸へと追放された。
マグヌスは南の地で育ち、かの地の剣を学んだ。
見慣れない優雅に湾曲した剣を使うのも、南国育ちゆえだ。
義兄王の野望に応えて帰ってきたはものの、これで良かったのか。
複雑な過去に思いを馳せ、彼は暗い森の奥を見つめた。
「眠れないな」
独り言を言って、ふと笑った。
翌日マグヌスはルルディを明け方早くに呼び起こした。
彼は難しい顔をして地図を巻き戻す。
「どうしても、街道を通らねばチタリスへは行けないようです」
ルルディの顔も曇る。
「危険ですか?」
「どうでしょう。やってみるしかありませんね」
彼はさっさと野宿の痕跡を消し、荷物をヒンハンの背にかけた。そして、
「失礼」
自分が着ていた上衣をすぽりとルルディにかぶせて、町娘のなりを一層みすぼらしくさせた。
マグヌスのほうは逆に鎖帷子を着込んだ体格のいい傭兵のような身なりに変わる。
「気休めですが、ね。何もしないよりはましでしょう」
マグヌスは、ルルディにヒンハンに乗るよう勧めた。
「そう、そのヒンハンの背の鞍からぶら下がっている金具に足を掛けて」
「え……」
ルルディは恥じらう。
「誰が見るわけでもない森の中、男と同じようにまたがってください。そして両足を金具──鐙といいます──にかけてみてください」
ルルディは、言われたとおりにやってみた。
「乗りやすいわ」
「そうでしょう」
マグヌスが得意げに笑った。
街道へ出る前に、森の木陰からマグヌスは通り過ぎる旅人たちをしばらく観察していた。
ややあって……。
「やあ! 用心棒はいらないかい?」
マグヌスは南国なまりで、六人で三台の荷車を運んでいる旅の一行に呼びかけた。
「なんだ、お前、兵隊か?」
一行を率いていた人物が足を止めた。
「あぁ、メイの城を落とすってんで来てみたらもうすっかり終わっちまって」
「こっちはチタリスの御城下だ。方角がちげぇ」
「チタリスの御城下はどんな具合で?」
「なあに、戦争はこっちに来ちゃいないよ。アルペドンの兵隊も来ちゃいねぇ。商売繁盛!」
親父は手を挙げて商売の神へ祈る仕草をした。
「いい商売だ。塩はどこでもいい値で売れる」
「ほう、俺たちの荷が塩ってよくわかったな」
「だてにあちこち腕を売っていやしねぇよ。ところでさっきの相談だ。見たところ、おたくらに腕の立つ人間がいねぇ。一人どうだい」
「飯代だけでなら雇ってやらぁ。どうだ」
「いいさ。で、もう一つ頼みがあるんだが」
マグヌスは、ルルディを手招きした。
ヒンハンの手綱を引っ張って、緊張した面持ちで木陰から姿を現す。
「ほう、こりゃたまげた、別嬪さんだ」
「前の主人のお嬢さんでな、チタリスに親戚がいるってんだ」
親父は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「お前たち、お触れの二人組じゃないだろうな?」
「ないない、迷惑してるんだ、こっちも」
塩屋が舐めるように二人を見た。
「……まぁ、腕の立つ奴は欲しいと思ってたんだ。いいだろう、仲間になりな。それからお嬢さん、俺達と一緒に来るならこれを顔に塗っときな」
「……な、なんでしょう?」
「渋だよ。色が黒くなる。そんなお日様にも当たったことがねえような顔してちゃ、怪しまれるぞ」
マグヌスが受け取ってルルディに渡した。黒ずんだ液体の入った小さな小瓶である。
「すみません。南から塩を運ぶ隊商です。王の認可を受けているので見とがめられにくいのです」
渡しながらマグヌスがささやいた。ルルディはうなずく。
「なるべく目立たないようにしているわ」
そして、従順に小瓶の茶色い液体を顔と手足に塗った。
健康的な小麦色の肌になった出来栄えを見て、マグヌスはにこりと笑った。
塩屋の親父がマグヌスたちに聞かせるように大声で言った。
「俺たちもなぁ迷惑してんだ。メイを通って北に抜けるつもりが、チタリス回りでよ、そのくせ塩は勅許品だから値段に上乗せできねぇ。損な商売さ」
塩の一行は、にぎやかに、いかに関所の番人が間抜けかという話題をしゃべっていた。
禁制品を密輸した話、量を偽って関税をごまかした話、などなど、きりがない。
(お触れか……素性はバレているな……)
会話を聞きながら、マグヌスは感じた。
おそらく今回のことも、彼らの武勇伝の一つになるに違いない。
(チタリスに入ってしまえば……)
彼は幸運の神に祈った。