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夏の8頁め

 店を出るとラウンジになっており、ビル全体の案内板があった。

「つぎはどこいくの? エレベーターで上にのぼるの? あたし高い所で外を見ながら食べたい」

 萌映は案内板を眺め饒舌である。水を飲んで機嫌が良くなったのか。

 この女が機嫌がいいのは初めてだな、どうでもいいことだが、と紳は呟いた。だが、もともと紳は気分屋が大嫌いだった。今までの合コンでは、往々にして、ブスな女ほど気分屋だったからだ。気分屋でも許されるのは美人だけだ。

「展望台行きたいなー。だけどやっぱり最初はごはんだなー。どこにしようかなー。あっ、四十三階、中華料理の店があるじゃん。いいじゃん。ここにしよう」

「好きな所にしろ」

 紳は上の空でぼやいた。どうせ今日は何を食べてもまずいだろう。戸沢萌映という概念の味がするのだろう。

「また介助してもらおうっと」

 遠く、エレベーターを待っている萌映の声がした。というか、介助って、本当にネタではないのか。いつまで引っ張るんだろうか。面白くないからやめろよ。

 いや、だが、メンヘラーには思い込みこそ真実なのかもしれない。手首を切ったりするメンヘラーが居るが、あれもよっぽど強い思い込みが無ければできまい。その意味では、ネタではなく、本気なのだ。

 紳は亀のような足取りでエレベーターに向かった。

 ふと気付いた。

 すっかり萌映に引っ張り回されている自分。

 美人ならさておき、ブスが相手だから、余計に腹に据えかねた。紳は、触れるだけで明かりがつくエレベーターのボタンを押した。なかなか来なかった。二階まで来るのに何分かかっていやがる。

 十人近い客で賑わっているエレベーターに乗り、一気にビルの上方にのぼった。

 紳と萌映は中華料理店のある四十三階で降りた。ほかの三分の二ぐらいの客は乗ったままだった。四十五階の展望台に行くのが目当てだろう。

 中華料理屋は、いかめしい外観だった。黒い大きい扉に、金の崩し文字で店の名前が書かれてあった。入り口には椅子が並べてあり、座って待っている客も居た。観光案内の本を持った人も居て、意外と有名な店なのかもしれない。

 五分ほどで中に案内された。今度も下界をばっちり見渡せる窓際の席。無駄に運がよい。

「意外と高いビルね。こういう『見下ろす感じ』、ちょっと懐かしいわね。IWではいつも味わっていたものだわ。けど、EWの景色って最悪ねえ。ごみごみしてるし、虫の巣が集まっているみたい」

 萌映はチラリと横目で紳を見たりするが、紳は見ないようにした。ココロの薬を飲んでいる奴の世迷い言に付き合う気はない。

 紳はメニューを見る。漢字の料理名が羅列され、驚くような値段がついていた。尻ポケットの財布に思わず手をやった。一応お金はあるだけ持って来たが、何品頼めるだろうか。

「このエビソバ。あとエビチリ。水ギョーザ」

 萌映は次々と料理を決める。日本語でメニューを言えるのは、漢字の下に日本名が書いてあるからだ。

「お前、金あんのか?」

 そう訊くと、萌映は意外そうな顔をした。

「あるよほら、見る? EWこっちで気付いた時、スカートのポケットの中に入ってたの。食べ物も飲み物も意味ないから、ほとんど使わないだけ」

 例の薄汚れた小銭入れを見せる。

「ああ、もういい、しまっていいから」

 いくらあるのか知らないが、そんなに持ってはいないだろう。それに、萌映の言動的に、当然のように紳に払わせることもあり得る。最悪、こっちで全部持つ覚悟をしなければならない。


「さて。場所を変えたから、話の続きをする」

 萌映は改まり、テーブルに両手を置いた。

 話の続きをするとか、断言かよ。もういいって。紳は無言で窓を見た。

「つまんないものね。この世界の行事は。これがデートっていうもののわけ? EWの人間達は、こういうことをして満足する生物なの? ……くだらない。くっだらない。でも、まんざらでもなさそうだよね。ここに居る人達の顔を見ると、えへらえへらと、脳が溶け切っているような締まらない顔付きをしているものね。もちろんあなたもその一人だけど。みんな溶けているわよ。ただのゴミよ。カスの集まりよ」

 大声で演説モードに突入した。「わー」と紳は慌て、身を乗り出し、萌映を制止する。

「おい、もっと音量をしぼってくれ。頼むから」

 小声でお願いする。

 萌映は不本意そうに睨んできた。

「あんたたちさあ、こんな世界で暮らしてるのに、誰も不思議に思わないんだね。なんで『で?』って思わないの? あたし、不思議」

「……?」

 紳は何も言わなかった。

 意味が分からなかったからだ。

 はーっ。萌映は溜め息をつき、苛立っているように腕を組み替えた。

「あたしね」

 萌映は言葉を切り、遠い目で窓の外を眺めた。いや、簡単に遠い目と言うようなものではなかった。遠いというより、半分死んでいるような濁った目だった。

「あたし、こんな世界があるなんて、ついぞ今まで、一回も考えたこともなかった。EWに来なかったら、絶対にこれからも、こんな世界の存在自体、考えなかった。こんな世界のことなんて、考えるのも嫌。でもこの世界に居る限り、あたし……。あたしは……」

 息が荒くなり、呼吸が速くなる。吸い上げるような異常な息。過呼吸の発作だ。青い顔で、震える唇で、言う。

「あたしは永遠に帰れないのかな。死んだら、IWに帰れるのかな。死ぬの怖いよう。死にたくないよう」

「……何の話だ」

 紳は吐き捨てるように呟いた。

 なぜか、心の奥の襞が剥がされるような、不快な疼きを感じた。

 ちょっとごめん、お薬、トイレ、と言い、萌映は席を立った。ハァー、ハァー、と乱れる息で、ふらふらと歩いて行った。

 ……何なんだ。

 紳は腕を組み、はーっと溜め息をついた。

 萌映と同じことをしている自分に気付いた。 

 

 十五分ほどして、萌映は席に戻ってきた。

 テーブルの上では、来たばかりのエビソバや水ギョーザが湯気をたてている。

 萌映は別人のように落ち着きを取り戻していた。掻いていた汗は引き、ブス特有のふてぶてしい微笑さえ浮かんでいた。

「お薬」を服用してきたのだろう。紳は地味に安心するところであるが、あいかわらず地雷を懐に抱えたような気分には変わりない。

「あ、料理きてる、たべよう、のびちゃう」

 おれのはまだきてないぞと内心で呟く。どうせ言っても無駄だろう。

 このメンヘラーは、徹頭徹尾、自分のセカイしか関心がないのだ。

 萌映は黙って紳に箸を差し出す。ほらな。この衆人環視のレストランでも介助しろというのか。そこまで曲げられない「ジブンのルール」がどうやったら出来上がるのか、紳は理解できない。露骨にイヤな顔をしてみるが、萌映はエビソバの丼を眺めてご機嫌の様子だ。ビー玉みたいな小さい目をクリクリさせ、カラカラと快活な顔をしている。どれぐらい薬を飲みまくったのか。飲み合わせの禁忌を犯したのではないか。今までにないような興奮ドライブ具合だ。

「どうしたの、具合悪いの、しわ寄ってるよお?」

 萌映は二本の指でハサミの真似をし、紳の眉間を触った。

 さわんな! だしぬけに、何しやがる!

 あぁ、しまった、見ないように決めていたのに、うっかりこいつの顔を見ちまった。 

「アーン」

「言いながら口を開けるな。あと、また言うが、声を絞れ。そうしないと帰る」

 紳はピシリと言った。萌映はジワリと涙ぐんだ。ふてくされた目で紳に抗議を示す。

「……わかったわよ。はやくして。いま食べておかないと、背に腹は変えられないし」

 萌映は黙って口を開けた。紳にとって業苦の時間がスタートした。当然周囲からは観察の的になった。二人の若者が食べさせ合っていたら気になるものである。実は紳が一方的に介助していただけだが。恥と緊張で、肩がコンクリート化したような気分だった。丼から萌映の口へ、粛々と箸を動かした。店員が白い目をして何回二人のテーブルを通り過ぎたことか。

 エビソバの最後の一口が終わった途端、萌映は喋りだした。

「でさー、あたし、心残りなのよね。IWのこと。あ、勘違いしないで。もちろん帰ることを諦めたわけじゃないよ。あたしは帰れるわ。帰れるに決まってる。帰る帰る帰る帰る。でも、EWに居ると、気が気じゃないのよ。あたしはIWに思い残していることがあるんだよ」

 唐突だった。だが、紳は慣れつつあった。「ああ」「うん」を駆使して聞き流そう。

「あたしはIWでは別のキャラだったの。こんな、あなたなんかと時間を潰すような、低劣な存在じゃなかった。ねえ聴いてるかな? そうなの。別の世界で別の物語を生きていたの。その素晴らしい世界こそIWなの。わたしはIWという物語の主役だった。ううん、主役じゃないかもしれないけど、主役級というか、メインキャラだったのは確かなの。IWはとにかく充実していて、ステキな仲間にも恵まれて、『物語』を謳歌していたの。今でもその充実感をハッキリ覚えてる。『物語』の世界がどういう感じだったか、今はほとんど頭に残ってないんだけど、『物語』が佳境だったのは覚えてる。仲間のみんなの顔も覚えてないけど、ステキな仲間だったのは間違いないの。『物語』はもうちょっとで完結しそうだったわ。みんなで頑張って、最高の結末を迎えようとしていたし、『物語』のダイナミックな流れもまさに結末に向かって動き出していたの。でも突然、あたしだけが、『物語』の世界から弾き出されてしまった。予想もしてなかったアクシデントだった。どうしてこんなことになっちゃったんだろうって」

「……」

 紳は黙っているほかなかった。「ああ」「うん」と言う気力さえ打ち砕かれた。黙る以外、どんな返答があるのか。

 なるほど、とりあえず、萌映が迫真の態度で喋っていることは分かった。だが、内容は一から十まで空疎だった。正確に造ってはあるが、吹けば倒れる紙工作のような薄さ。現実味の無さ。

「あのさぁ、その、IWとかいうのは何処にあるんだよ?」

 気になって思わず訊いてしまった。

 いったい何が、こういう奇妙な夢想を作らせるのだろうか。

「IWはIWに決まってるじゃない。ここはEW。IWじゃない。分かりきったことじゃない」

「分からねえんだけどなあ」

 話が空転する。徒労。苛立ちが込み上げる。

「あたしは、残してきた『物語』が気になっているの。あの世界からあたしが居なくなったら、『物語』に狂いが生まれるのは間違いない。『物語』がバッドエンドになっちゃうかもしれない。バッドエンドどころか、完結もできなくて、途中で世界が崩壊するかもしれない。『物語』が立ち消えしちゃったら、仲間たちも消えちゃう。消滅してしまう。あたしが居なくなったせいで、仲間に物凄い迷惑を掛けちゃう。かけがえのない仲間なんだよ。最高の仲間たちなのよ。どうすればいいの。嫌だよ。この世界で、一人だけ閉じ込められてるの、嫌だよう……」

 萌映は俯いて泣いた。ブスのくせに、おままごとのような妙にカワイイ動作で涙を拭いているのが、ブス度を倍増しにしている。

「まあまて。話は分かった、分かったから」

 と、紳は言った。だが、それは嘘だ。

 正確に言うと、分かったのか分からないのか分かっていないことが分かった。

 つまり、紳は、めんどうで、やけくそで、なげやりになっていた。自分のことながら、現状を良く把握できなかった。そして、そういう状況に流されている自分を感じた。ハッと気付いたら「分かった」と言ってしまったのだ。なぜだか分からない。萌映の勢いに引きずられたのか。それとも萌映が泣いたからか。男は女の涙に弱いという通説を、紳は身をもって知ったのか。しかし、いかんせん、こんな女だ。泣いても涙など効果的ではない。

 もしかすると「足し算」だろうか。萌映が泣くのは、これが初めてではない。何回も泣いたために、ポイントカードのように積もり積もって、今効力が生じたのか。

 ていうか、こいつはなんで、こんなに思いっきり、わけのわからない問題で悩んでいるのかわからない。それがとても苛立った。

 まあ、仕方がないか。言葉のアヤで「分かった」と言っただけだ。ここで泣かれても困るから巧みにあしらっただけだ。

 萌映の話を本気で聴き、EWに来た事情等について詳しく聴取する気は、髪の毛一本もない。紳はそう結論した。 

 そして、ふと思った。

 今の場面は、美人な女が相手なら、おれ的に相当テンションが上がる場面ではないか。美しい女に泣かれて、突き放したり戸惑ったりする奴は、健全な若い男子の風上にも置けない。

 それなのにどうして、美人ではなく戸沢萌映おまえだったんだ。ちくしょう。そう思った時、紳は地獄の釜で茹であげられるような、はらわたが破れるような苛立ちを覚えた。

 その裏で、ブスに生まれついた目の前の女をどこか哀れにも思った。少しだけだったが。

 ――この世界は最悪。

 萌映はそう言ったが、その動機が何となく分からなくはなかった。潰れたピザのような顔面で生まれてきてしまったのだ。世界でも呪うしかなかろう。薬を常用するようになるのもやむを得まい。

 ここで紳は何か引っ掛かりを感じた。……まてよ。戸沢萌映がブスな生い立ちを呪いココロを病んだという説は、本当にそれでいいのか?

 萌映を初めて見たのは、このまえ池で釣り上げた時だ。りょうも一緒に見ている。

 あの日以前、紳のクラスには戸沢萌映なんていう生徒は居なかったのである。だが、池で釣った日を境に、戸沢萌映は前々からクラスに存在していることになっていた。紳は敢えて今まで触れずにいたが、この不可思議な改竄は上手く説明できなかった。 

 

「ねえねえちょっと、きいてる?」

 萌映がテーブルをバンバンと叩いている。いつのまにか泣いていない。

「ああ悪い、ちょっとぼんやりしてたわ」

 いつまで喋るんだ。いい加減飽きた。

 ふたたび聞き流しモード。

「あたしはね、池で目が覚めた時から、この世界で自分がどう動けばいいか漠然と知っているわ」

「そっか、そっか」

 聞き流したものの、なにげに大事なことを言ったようだ。

「自分がどう動けばいいか知っている」と言ったのである。

 ならば一人で勝手に動けばいいではないか。他人おれを巻き込む理由はないだろう。

「あたしね、IWに帰るには、IWで経験していた『物語』を思い出すことだと思うのよ。あたしはどういう世界にいたのか、どういう敵や仲間が居たのか、どういう世界観だったのか、思い出すことが必要なのよ。この世界に落ちた途端、記憶が流出しちゃって、ほとんど忘れてしまっているの。今は、IWは良かったっていう漠然としたイメージだけ」

「それを思い出すと、お前は帰れるのか?」

 IWとやらに帰り、萌映が隣から消えてくれるなら、とっても嬉しいことだ。

 もっとも、どうせすべて萌映の空想による設定だろうから、「帰る」ことは実現しないだろう。しかし、萌映は言い切った。 

「帰れるわ。本能的に分かる。EWここでIWの物語を復元することが、帰る方法だと思う。この下等な世界は、IWからは遠すぎるの。だからまずIWを身近にイメージできないといけないわ。この世界では『完全な存在』と言えるものは驚くほど少ないけど、その一つが物語という形態だと思うの。IWで経験していた『物語』を創造することで、IWと共振できると思う。IWへの通路が開けるはず」

「それは適当な推測だろう?」

「さっき、自分の『習性』は分かっているって言ったよね。『こうすればいい』って、何となく感じるの。だから、確信のある推測だよ。絶対帰れるわ。うん、それしか方法は無いと思うわ」

「ふーん」

 紳は白けた鼻息を出した。そうか。なら何も言うまい。お前がそう言うんならそうなんだろうお前の中ではな。

「もう一つ、確信があって、こっちは悪い確信だけど」

 萌映は胸ポケットから小さい紙を出した。

「この世界に来た時から、これを持っていたの」

 一枚の汚れた写真だった。

 写真は、色あせ、波打っていた。前に水で濡れた跡かもしれない。すこし破れていたが、映っているものは分かった。人の顔だった。

 思わず、紳は自分の鼻と口を押さえた。驚きを悟られないようにするためだった。

 だが、どうして萌映に悟られてはまずいのか、少しも分からなかったが。

「この人、たぶんあたしを狙っている刺客だと思う」

 萌映は言った。

 紳は黙って写真を見た。

 パン屋で会ったメガネの少女が映っていた。

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