夏の7頁め
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日曜の朝、部屋の蒸し暑さで目を覚ましたら、すでに十一時前だった。もう昼に近い。 携帯電話を探すと布団と壁の間に沈んでおり、八時にかけたアラームを「誰か」が止めた形跡があった。
ああ、たしか、きょうはアレとのデート(笑)の日だったな、と紳は思い出した。ゴミの日の朝、ゴミを出し忘れたような、微妙な掻痒感を覚えた。部屋が暑すぎるので、すかさず扇風機をつける。トランクスとタンクトップだけの格好であぐらをかき、扇風機のぬるい空気を浴びる。この温風を冬に回すような技術は発明されないものか。
さて、どうすっかなあ。
待ち合わせ(笑)は九時とかだったが、もう過ぎている。今からでも行ったほうがいいだろうか。どうせ大遅刻なのだから行くのをやめるか。心底、どっちでもよかった。だが、どっちかに決めなければ、いつまでも寝起きの醜怪な格好であぐらをかいていることになる。
「これが美人なら行ったよね」
紳はひとりごちた。人間の本能にまつわる冷厳な事実を確認したのだ。相手が思わず背筋の伸びるような美人なら、寝坊すらしていまい。
正直、もはや行く気はほぼない。今更行ったら、萌映にネチネチとなじられるだろう。そういえば、あのブスッとした顔が嘲笑以外で笑ったことは一度も無い。根拠は無いが、萌映は二時間が過ぎた今も、A駅の改札で待っている気もした。思わず紳は、ユルめのチュニックとか、涼しげなワンピースとか、私服姿の萌映を想像した。胃液が口から出そうになる。朝から危険な想像をしてしまった。
「まあ、おれが寝坊したのは、ちょっと……」
紳は立ち上がった。
窓辺に行き、なにげなくレースのカーテンを開けると、真下から萌映が見上げていた。
「うげぇ!!」
紳は叫んだ。インパクトありすぎる不意打ちだ。
「待ってても来ないから、来たわよ」
萌映は不機嫌そうに言った。スタイル的には痩せているはずだが、顔はまるで膨らんだフグがオタフク風邪をひいたかのようだ。これが平常の顔なのだから手の施しようがない。
もう、この世に存在している間じゅう、モザイクをかけてほしい。
せっかくだから、というより、萌映が「デートだから町まで行くんでしょ」と言うので、町に出ないと駄目な空気になった。なにより、二日連続で家まで来られてはうんざりだった。
紳は適当な古着のシャツを羽織り、下に降りて行った。
「で、どこにいくんだ」
「どこでもいいんじゃない。どうせどこでも同じようなもんでしょ」
萌映は蛸のような口をしてぼやいた。町に行くと言いながら、どこでもいいと言う。あいかわらず紳に丸投げだ。
とりあえず、紳は町に向かう電車に萌映を乗せることにした。休日に地元にだらだらしていては、誰に見られるか分からない。この、新たに所持してしまった壮大な恥を、どこかに運搬しなければならない。
紳は切符を買った。ちらと萌映を見たら、薄汚れた小銭入れから券売機に金を投入していた。金は多少は持っているらしい。自分の茶色の小銭入れと少し似ているのがイラッときた。
町に向かう電車はすいていた。が、紳はわざと立った。萌映と隣同士で座るのが嫌だったからだ。上に冷房の吹き出し口があり、風が冷たかった。隣に立っている萌映からは微妙な臭いがした。泥と汗の溶け合った臭いだった。
萌映は学校に居る時の服装のままだった。スカートはエプロンのように長く履き、長袖のブラウスを腕まくりして、七分袖にして着ていた。ブラウスは何となくくすんだ感じがする。ほかに服が無いのだろうか。腕や額は玉の汗で濡れ、しきりに袖で汗を拭いている。顔色は青白かった。自律神経の調整がうまくいっていないようだ。
A駅の改札を出ると、休日だけあって、パチンコ玉のように人間がひしめいていた。
紳は喧騒の中に紛れられることにホッとした。けれど、万一誰かに見られたらどうしようと恐れてもいた。夏らしく、まわりの人間はカラフルで露出の多い服を着ていたが、紳は自分の真上だけ梅雨の湿気が残っている気がした。
デートと言っても、どこに行けばいいか思いつかない。萌映が相手のため、デートプランを練るモチベーションも蝋燭一本分くらいしか燃えていない。
昼飯は食ったのかと訊いてみようかと思ったが、やめた。仮にもデート(笑)となれば、牛丼屋や立ち食いそば屋でワンコインというわけにはいくまい。カップル向きの、ちょっとしたオシャレな店でくつろぎのヒトトキ(笑)、ということになる。つまり、萌映と差し向かいになる可能性が高い。食欲もなくなろうというものだ。
紳は迷ったが、萌映のために迷うのは腹立たしいので早く行く場所を決めたかった。すると、アウトレットモールの存在を思い出した。いろんなブランドの店が集まっている、お子様向けの盛り場といった感じのエリアだ。幸か不幸か飲食店が集まっている建物もあったはずだ。ちょっとした遊園地のかわりにもなるだろう。紳はアウトレットモールで時間を経過させることに決めた。一番の理由は、駅から連絡通路一本で行けたからだ。
アウトレットモールの周囲は、手入れされた植え込みと、いかめしい鉄柵で囲まれていた。入り口には、写真撮影ポイントであろう大きな門があり、店が集まっている棟は西洋建築風に統一されていた。
紳の記憶では、売っているものによって建物が分かれていたはずだ。生活雑貨を売る棟、スポーツ用品を売る棟、高級ブランドの棟、そして食事をする棟などだ。それぞれの建物は空中回廊でつながれ、集まった人間たちがオートメーションのように回廊をうろついていた。
萌映は、入り口の門の時点で、なぜか立ち竦んでいた。門の大きさに圧倒されている様子だ。紳は「キメェ」と思った。初めてラブホテルに入る女でもあるまいし。まあ、自分も入った経験は無いけど。
紳は早く時間が過ぎることだけを願いながら、園内を見て回った。あっちを見れば値札やPOP、こっちを見れば服屋の店員の客引き。過剰な照明が建物の白い壁に反射してまぶしい。非日常感を演出する一手であろう石畳も、歩いていると膝が痛い。
こういう場所は美女と来るべきだとしみじみ思った。
紳は隣に居る忌まわしいモノをつとめて見ないようにした。だが、見ないようにしても、モノが消えてくれるわけではない。時間が経つほどに活力が奪われる感じがした。
萌映は、実につまらなそうだった。最初の数分こそ、ウィンドウの向こうに展示されたブランドの服を見て回ったりしていたが、すぐに行動をやめた。飽きたらしい。
買いたいものは無いのかと訊いても「別に無い」と言い、あっちの建物に行くかと訊いても「行きたくない」と言い、結局「もういい」とか言って中庭のベンチに座った。わがままな子どもみたいだ。しかもブスな子どもというわけだ。
紳はベンチの前に立った。ほとんど匙を投げる気分になってきた。
「お前、なんかやりたいこととか、行きたい場所とか、無いのか」
「……」
萌映は黙っていた。
答えを期待してはいなかったが、紳は苛立った。「シカトかよ」と、わざと聞こえるように言った。
「……ハァーーー」
萌映は、溜め息をついた。
「あのね」
唐突に言い、紳の顔を見た。
「なんだよ」
紳は訊き返す。やっぱり、おぞましい顔だな。異常に蒼白な顔面。よどんでギラギラした、有害物質の池のような目。左目に泣きぼくろがある。って、余計な細部に気付くな、おれ。
だが、次に萌映が言った言葉で、紳の頭の中は真っ白になった。
「あたしはね、違う世界の住人なの! まちがってこの世界に来てるの! だから、戻りたいんだよね。帰りたいんだよ。いつまでもこんな世界に居るわけにはいかないのよ」
「……おまえ、なにを言ってるんだ?」
紳は首をかしげ、結構強い口調で言った。そういう話は、もう、するな。そう強く思った。
世界、とか言い出しやがった。
ふたたび萌映のメンヘルな性格が顔を出したらしい。たちが悪いことに、やや宗教がかった雰囲気を感じなくもない。紳は自宅に来た宗教勧誘員の相手をしたことがあるが、追い返すのに一時間もかかった。この手の人間の扱いは大変なのだ。
なにより、単純に、萌映の話は全然説得力がなかった。
だが萌映は、紳が訊いてもいないのに、勝手に喋りだした。
「あたしはね、気付いたら、この世界に居たわ。どろどろして、もやもやして、はっきりしない場所。それがあの池の中だった。おかしな場所に来たと思ったら、まもなく、あなたに釣り上げられた。そして、意識がハッキリしてくるにつれて、あたしの頭には情報がどんどん流れてきて、いろいろなことに瞬間的に目覚めた。最悪の目覚めだった」
中庭を歩いている客がしばしば振り返った。おいやめろと突っ込む隙もなく、萌映は喋り続ける。息継ぎもせず、まるで溺れるように、喋った。
「あたしは突然、この世界に来た。時空のはざまから落とされてしまった。まるで、宴会の途中でトイレに行ったら、扉の向こうは崖で、そこから落ちてしまったように。理由は分からない。でも、あたしは帰ることはできなくなり、この世界で暮らさなければならなくなった。この世界はひどいよね。あたしが今まで居た世界とは別物よ。なにもかもおかしすぎる。なんていう劣悪な世界なの? あたしが今まで居たIWとは完全に分断されているわ」
「ちょ、ちょっと待て」
紳は耐え切れず嘴を入れた。もちろん、ちょっと待ったのちに再び話してほしくはない。完全に、ついていけない。なにやらIWとかいう用語的なものまで出てきた。
「あたしは、来た瞬間に、この世界は最悪な世界だと分かった。言うなれば、この世界はEWだわ。すべてが適当で、しかも不快だわ。不自由だし、不適材・不適所な場所だわ。この錆を吸い込んでいるような劣化した空気は何? なんて汚れた世界よ。こんな世界で価値があることと言えば、懐かしいIWの空気に思いを馳せることぐらいしかないに決まっているわね」
道行く人々が振り返る。紳はもはや、石柱のように硬直しているほかない。
まてよ、宴会だと?
少し引っ掛かる。たぶん、もののたとえで言ったのだと思うが、一応訊いてみる。話を逸らせるかもしれない。
「おまえ、宴会と言ったが、高校生のくせに、酒を飲んでいるのか?」
「違うわよこの世界では飲んでないわよ。IWではあたしは立派な大人だった。いえ、子供でもあったし、時には空想上の生物でさえあったわ。それは記憶の深い所にあるわ。IWでの人間は必ずしも肉体を持たないのよ。だって、好きな時に、好きな肉体に入れるんだから。肉体なんて、希望する性質や能力によって脱ぎ着するものなのよ」
「ああ、もういい、しらねえけど、わかったから」
「それが、なによ! この低級なEWじゃあ、なんて結び付きが強いわけ? 一個の肉体からは離れられなくて、こんなんじゃ、にっちもさっちもいかないじゃない。肉体の縛りが強すぎるんだわ。EWの有害情報が一日じゅう脳に流れてくるわ。本当に不自由だよ。IWの情報が、どんどん、頭から離れちゃうよう」
「まずいな」
紳は舌打ちし、呟く。いかん。完全に、メンヘル気質のド真ん中がパカッと割れ、不可視なキチガイ物質が飛散している。突然暴走するから困るんだ。というか、もう暴走とか生易しいレベルではない気がする。
「みて、各種、ココロの薬。この世界に来た時から準備されてたんだ」
萌映はポケットから百均のアルミケースを見せた。振ってみせ、ジャラジャラと音を出す。
「これを食べてないとEWでは息もできないわ。あなたはよく普通に呼吸して普通に生きているものね。狂ってるんじゃないの?」
鼻で嗤った。パンの焼き崩れのように不細工な笑みだった。
紳は、心から疲れた。
「ああ、なんていうか、いろいろと訊きたいことはあるが、まあ別に訊こうとは思わねえが、場所を移るか。いつまでもここに居てもグダグダだからな。ちょっとややこしくなってきたんで、整理の意味でもな」
「生理の意味? 不潔な男だね」
萌映は嫌らしく笑い、立ち上がった。
紳は一瞬意味が分からず、遅れて気付いた。だが言い返す余力はもはや無い。セクハラっていうか、女の立場を利用したパワハラか? しょうがねえと言うしかない。
そもそも、ブス自体がハラスメントだからだ。
萌映は、アルミケースを傾け、薬をラッパ飲みした。
ぼんやり歩きながら、紳は、萌映の話を脳内で検討した。
検討したくはなかった。だが、萌映があの顔面で必死に力説したので、否応なく頭に残り、フラッシュバックしてしまったのだ。
萌映の話には、一応の一貫性はあると思ったが、具体性と現実性が全く感じられなかった。ただの絵空事、論理ゲームだと思った。
だから、おれは、どう応答すればいいのか。
頭のおかしいブスが即興で語った夢想としては、綻びが無い程度に作り込まれているとでも言ってやればいいのか。
てか、わけわかんねえし。
紳は「すげぇ不快だ」と感じた。
何処に行くかは決まっていなかったが、アウトレットモールを出ると、駅を挟み逆方向に高いビルが見えた。
一枚絵のような現実感の無い大きさ。
セントラルタワーだ。四十五階建て、一九〇メートル。青っぽい鼠色に輝く駅前のランドマークである。
一昔前、自治体が中心となり、駅前の開発計画の目玉として建てた。市民が知ったら目玉が飛び出るくらいの税金が投入されたそうだ。当時はエレベーターの速度や耐震性の高さが話題になった。ちなみに、一度も目立った地震には襲われず、自慢の耐震性を示す機会はやってきていない。ビルの中には、展望台や飲食店のフロアがあるほか、市民が利用できるイベントホール、会社やクリニック、予備校、本屋や服屋も入っている。
マイナーなデートスポットの一つでもある、らしい。
行くところもないので、紳はセントラルタワーへと足を向けた。罰ゲームの時、小山が口にした仮想のデートプランで挙げられた場所でもある。行ったことはないが、空中楼閣のように堂々と聳えているので、まずは迷わないだろう。
太陽は冬の時の百倍ぐらいの明かりで真上から照らしている。空気がうだる。そういえばおれは独自性がないなあ、と紳は思った。雑誌に載るような小粋なデートスポット(笑)は考え付かず、結局、小山のプランに沿っている。もっとも、萌映と一緒に回るスポットを考える必要などないのだが、彼女ができた時も思い付かなかったら、さすがにまずい。
「あああ、暑いわね」
萌映は、リボンの無いだらしない胸元から手を入れ、ぼりぼりとブラウスの中を掻いた。色気も何も無い。むしろ、グロ気だ。ビショビショの額から瞼へと汗が垂れ、お岩さんのような目が無残なほどに細くなる。
途中、汚れた裏路地に迷い込んだ。飲み屋のシャッターが両側に並んでいる。大きなデパートの影となっていたし、一帯が屋根で覆われ、太陽は当たらなかった。路地のコンクリートは、シミやツバだらけだ。犬のフンとか、猫の餌の食べ残しとか、なぜか鳩の羽根なども落ちている。萌映はその様子を見て顔をしかめた。そして自分も、粘度の高い白いツバを吐き出した。で、また顔をしかめた。
「最悪よこの世界。最低よ。生ゴミ袋を引っかき回して皿にあけたような世界よ」
お前がそれを言うか。紳は寒気がするほど感心した。
萌映の歩き方は、あいかわらずグラグラしていた。頻繁に体が接触する。まっすぐ歩くバランス感覚が無いのか。紳は何とか自然に萌映との間隔をあけようとするが、そのたびに引力のように擦り寄ってくるのだ。「来るな」と怒鳴るわけにもいかず、ストレスばかりがたまった。心に立った鳥肌を懸命になだめた。
「のどかわいた」
「なんか」
買えばいいだろ、自販機で。
そう言いかけたが、さすがに飲み込んだ。
「なんか飯でも食うか、じゃあ」
「水が飲みたい」
「わかった」
紳はものすごい適当に返事をしている。ほぼ脳を使っていない。まじめにコミュニケーションしてもムカつくだけである。
セントラルタワーに到着した。
何枚もあるドアを、たくさんの人間が出入りしている。
大きな吹き抜けのエントランス。人の流れに沿いつつ歩いてみる。
向こう側は一段と明るい。本屋があるのが見えた。人がいっぱい居て、本を立ち読みしている。
「本屋があるんだね」
萌映は呟いた。
紳は、このビルの構造はよくわからない。来たのは初めてだ。花崗岩の立派な階段を登ってみた。二階に上がると、海外資本のコーヒーショップがあった。
「コーヒー屋があるね、入ろう」
萌映が持ち掛けた。「カフェ」とか言ったらどうだ。言ったら言ったでイラッとするが。
「めしを食うんじゃないのか?」
「聞いてないんだね。水が飲みたいって言わなかった?」
たしかにそう言っていた。事実を指摘されたので言い返せなかった。
「お水を五つください」
いきなり萌映は引く注文を繰り出した。
「Lサイズのグラスで」
続けざまに補足。紳は他人のふりをしたい。小さい声でアイスコーヒーを頼む。
紳にとって不運にも、窓際のソファの席があいていた。大きな一枚ガラスが何枚も連なり、駅前がきれいに見える。萌映はいち早く座り、おしぼりで顔をゴシゴシと磨いた。
「あのさあ、飲ませて」
「いきなり何を言うんだ」
水滴の滴る氷水のグラスを、萌映が差し出している。
またか。家に来た時も同じことを言っていた。そんなに飲ませて欲しいのか。だが、こっちも、同じくらい飲ませてやりたくない。
「あたし、この世界に来てから、もう三日、水も飲んでいない」
「またその、世界とかいう話かよっ。何なんだよ」
紳は叱るように言った。公共の空間で非常識な話をしないでほしい。
「あたしは、この世界では、自発的に飲食する能力を与えられていない、……の」
「だから、何言ってんだよ」
「飲ませてくれないと飲めないって言ってんの!」
萌映は叫んだ。
「自分でも、やってみた。けど、ダメなのよ。食べたり飲んだりしても、口に入っていかないの。全部こぼれちゃうの。池の水さえ、飲めなかった」
萌映は力無くグラスをテーブルに置いた。
体が震えている。顔は青白い、いや、通り越して青黒い。そういえば声も震えていた。
まさか本当なのか。紳は一瞬思った。
いや、あるわけない。嘘っぱちだ。勝手な設定の檻に自分を閉じ込め、同情を買おうとしているのだ。メンヘラーというのはそういうものだ。
「お前、薬は普通に飲んでいただろう」
「薬は食べれるの。これもあたしを苦しめようとするEWの策略だろうね。だって、この下等な世界では、薬がないとわたしは自意識を保てないもの。自意識を持たない発狂した人間には、世界の苦しさを感じさせることもできない。だから薬は飲めるようにさせて、しっかり意識は持てるように仕向けてる。でも、食べ物や飲み物はムリ。なんとなく、このEWに来た時から、そういう『習性』は分かってはいたわ。やってみたら、やっぱり飲食はできなかった」
「お前、拒食症か?」
「ちがうっていってるでしょう!」
萌映はまた叫び、咳き込む。
「わ、わかんないの? 『習性』だって言ったじゃん。べつに不思議じゃないでしょ。虫が飛び方を教わったり、魚が泳ぎ方を習ったりするわけ? 虫は二足歩行しないし、魚が陸に上がることも無いよ。できることとできないことなんて、生まれつき弁えているのよ。それと同じなの。どうせ、このEWは下等で劣等で単純な世界なんだから、あたしのプログラムを飲食できないように記述することは簡単に決まっているわよ」
「お前、何を言っているんだ?」
紳は自分が馬鹿に思えてきた。「何言ってるんだ」ばかり繰り返している。
「さっきから、世界だの、『習性』だの、わけがわからねえよ」
紳は苛立ち、自分の膝を叩いた。まず意味不明な話をやめろ。それができないなら、せめてこっちに分かる言葉を使え。話が通じない相手に対し、怒るような祈るような気持ちだ。
「どうしてEWとIWのことが分からないのよ。だからこの世界は所詮EWなのよ!」
萌映は叫んだ。もはや理屈すら無い。まるで鳴き声だ。
ぐったりと椅子に背を預けた。だいぶ弱っているようだ。
水を摂取したほうがいいかもしれない。
しかし萌映は飲まない。というか、飲ませなければ飲めないと言う。それはできない。飲ませるわけにはいかない。言っていることが、何もかも、納得できないのだ。
徐々に話題をずらす意図で、紳は萌映の意味不明な用語について訊いた。
「お前が言うには、この世界?が、EWとかいうんだよな。それじゃあ、IWっていうのは、いったい何だ?」
「あたしが居た世界よ……。最高の世界だったなぁ」
「IWってのは、何の略なんだ?」
「教える必要ない。IWの世界観が汚れる」
萌映は軽蔑し切って言った。外観的には歩く汚物のような萌映から「汚れる」と言われるとはお笑いである。が、あまりにもギスギスし、かつグダグダなので、笑う気力も無かった。もう何とでも言えよと思う。紳はアイスコーヒーのグラスをジャラジャラと乱暴にまぜた。
ここで、紳はある意味観念したように、考えを切り替えた。
もう、めんどうくさいので、表面では萌映の話を分かったことにしてやろうと思ったのだ。
口先でハイハイ言っていれば、ギスギスしないし、こっちが苛立つことも少ないだろう。ブスと喧嘩などすることほど非生産的なことはない。いつもニコニコしているが実はあまり聞いていない小山あたりを見習うのだ。風のように受け流す訓練だ。そう思えばいい。ハイハイ、ハイハイと発音すればいいんだ。
「早く飲ませてよ」
「ハイハイ」
ん? ちょっとまて。
迂闊だった。発音練習のつもりで言ったら、うっかり承諾しちまったじゃないか。
くそったれ。
萌映がアヒルのような口を開けている。
紳は、なるべく見ないように、グラスを相手の口に押し当てた。グラスを傾け、中身を流し込む。ちらりと横目で見る。萌映は、貪っている。まるで食道が太い一本のストローのように、そのまま胃に落ちて行っている。勢い余って、わきから水が垂れる。萌映は小さい目を剥き、今生の最後の飲み物のように飲んだ。グラスは五つとも空になった。
ハァーッ……。深ーく、萌映は溜め息をついた。すぐにキッと顔を上げ、
「で、分かったわね? あたしがIWからこの世界に来てしまったことは」
「ああ、ハイ、そうだな」
「本当に分かったんでしょうね」
「分かったから」
まともにお前の相手をしても意味がないってことがな。
「それなら、いい」
萌映は立ち上がった。
水分を補給し、ここでの用事は済んだらしい。
「おなかがすいた。ごはん食べにいこう」
「あー」
マジか。もう一軒行くのか。嫌気に潰されそうだ。