夏の6頁め
ところで萌映の姿がなかった。
紳は萌映という文字列すら思い出したくもなかったが、はらがへったと言っていた張本人だ。厚かましくも金を持っておらず、紳にたかることも考えられる。
先にパンを買い、帰ったのだろうか。それならいいが、あまり期待はしないほうがいいと思う。帰っておらず、唐突にあの顔を見た時は、ショックがすごいだろう。
だが、店内には確実に居ないようだ。迷った末、紳は苺とホイップクリームのパンをひとつ買った。このパンの味については毎度文句ないが、『ストロベリー・ラブ・オン・ザ・ヒル』という相当微妙な名前はどうにかならないものか。
「ちょっと」
店から出た紳は、萌映が居ないので安堵しかけたが、背後から糊のように粘着的な声が被さってきて落胆した。
ああ居た。
振り返ってみるが、広いガレージのような用具置き場があるだけだ。人の姿は無かった。
「ちょっと、ここなんだけど」
大きな青いポリバケツの蓋が持ち上がった。生ゴミのような顔をした女が、中に居た。紳は理解不能な行動に眉をひそめかけたが、一転、吹き出した。
萌映に生ゴミのバケツはお似合いだと思ったのだ。
「何をやっているんだ」
「……」
萌映は辺りを観察し、無言でノソリと立ち上がる。しかつめらしい顔をしているが、視線を下に転じるとポリバケツである。非常に滑稽だ。
突然、萌映は叫んだ。
「うわあ、もう、やだよお!」
ガレージの壁によりかかり、「うえ~」とか「ひ~ん」とか、嗚咽を出し始める。
泣いているらしい。
紳は戸惑ったが、何もしなかったしする気もなかった。こっちに落ち度はない。なぜ急に泣くのか理解不能だ。「ひ~ん」とかいう呻き声は、まるで馬の出産である。暑さも手伝って不快だった。ふだんはなんでもない蝉の声すら耳障りだ。
なるほど。これが「メンヘル的な一面」か。だが、それが分かったからどうしろというわけだ。
手に負えん。
「よくわかんねえけど、パン、ここ置くぞ」
泣いている萌映の足元にパンの袋を置き、紳は踵を返した。
「ちょっと」
萌映が後ろで叫んだ。
嫌だが、振り向いた。
萌映は、何か言いたげに口をぱくぱくしていた。
ふと、足元に置かれた袋を見付けると、虫のように素早くしゃがみ確保した。
やがて、
「日曜日、忘れないで、九時」
涙を拭きながら、言った。
紳は、了解とも拒否ともつかない溜め息をつき、また歩き出した。
帰り道、萌映の不細工な泣き顔が繰り返し浮かび、何回も地面を蹴り上げた。
紳は、だらだらとパン屋からつづく坂をのぼった。
車通りもない信号を渡る。ここから、紳の家がある宅地に入る。登りは一段ときつくなる。とくに、家の直前にある、長いコンクリートの階段が苦しい。
ジワジワジワ、蝉の声がする。宅地の何処で鳴いているのか不思議だ。
コンクリートが暑くて眩しい。人はほとんど歩いていない。家の隙間とか側溝とかで野良猫が丸くなっている。ランニングシャツに団扇を持ち、日干しになりかけといった感じのおじいさんが、蛞蝓のようにゆっくりと歩いている。
紳はコンクリートの階段を登りはじめた。道端には、町内の誰かが四季の植物を育てている花壇がある。今は、幽霊みたいに大きく育った向日葵が並んでいた。ぎゅっと詰まった蕾の何割かは、内側から割れるように開き始め、目が覚める黄色の花びらをぎらりと覗かせていた。紳は大きいパイのような花を見上げ、この前見た時は腰ぐらいだったよなあ、と思った。
疲れた。すこし立ち止まった。ふと下の景色を眺めた。ここで涼しい風でも吹いてほしいところだが吹かなかった。むしろ、うだるような熱風がもわっと吹いてきた。
階段の下に萌映が居た。
大きな白い棒のようなシルエットが、かげろうに漂いながら登ってきている。
自分の目を疑う。別れたと思ったら、なんでついてくるんだ。ふと振り返らなければよかった。
萌映は追いついて来て、紳をジーッと見た。いまだに梅雨をひきずっているような、情念に満ちた湿っぽい目だった。汗だくの脂ぎった額が光っている。
「あのね」
萌映は言った。
「あたし、家、無いんだけど」
ジトッとした目で紳を見た。
あからさまに、施しを狙っている目だった。
「おれの家にいきなり来られても、正直、困るんだが」
「あたしたち、つきあってるんだよね」
また、脅迫まがいの疑問文である。つきあっているから何でも施せというのだ。面の皮が厚いにもほどがある。
「つきあうのは、まず日曜日のデートをやって、それ以降にしないか」
と紳は言った。遠回しに振ったつもりだ。正直、関係を切れるなら、今すぐ切りたい。
「なんで。日曜じゃなく、今でいいじゃん」
萌映は真意を理解しない。こういう機微が分からないから、自分の面相を客観的に見ることもできず、厚顔無恥が極まるのであろう。
というか、紳は今更突っ込むが、
「家が無いって、どういうことだよ」
まさか、本当に家が無いわけはなかろう。あれか、いきなり泊めろというわけか。男の家に泊まるための口実か。
冗談じゃねえ。お断りだ。
紳にとって、萌映は痴女とさえ見れない。ブスという、男でも女でもない、より下層の種族なのだ。こういう人間は虐げられてしかるべきだ。そして、そういう感情が湧くのが仕方ないと思えるのだ。
「紳の家に泊まりたいんだけど」
紳の靴あたりを見ながら、萌映は、もじもじ言う。両手の指をこねくり回している。恥じらっているつもりか。前触れもなく名前を呼ばれた不快感。
「いやいや、それはやめようぜ」
紳は即答した。即答しなければ沽券に関わるという気概さえ感じた。多少怒りが込もっていたかもしれないが、紳は自分を許した。
「わかった」
さすがに望みがないと踏んだか、萌映はポツリと言った。
「のどかわいた」
と、すぐ切り替えるのは憎たらしい。
紳の家はすぐそこである。すでに斜め上に見えていた。自販機で買え、なければ公園の水でも飲め、と言いたいが、近辺には自販機も公園もない。
「あー。すごいのどかわいた」
萌映は大きな声で繰り返した。
「……うち、そこだから、お茶だけ出してやるから。そしたら、とりあえず帰れ」
「お茶いいねー。お茶菓子あるー?」
萌映は待っていたように食い付いてきた。
紳は枯れた向日葵のようにゲンナリした。
二階の部屋には絶対に上げず、玄関先で茶だけ出して済まそう。
「あらあらあら、紳のお友達? 学校のお知り会いですか? それとも、彼女さんかしら? まあまあまあ。どうぞあがってください、いまお茶いれるからね、あら、でもいま散らかってるんだけど、いまかたづけますから」
紳の母は、ニコニコとほていさんのような笑顔をふりまき、べらべらまくしたてた。台所のほうから、鼻を突く生暖かい空気が流れてくる。五目寿司でも作っていたのだろう。
今日に限ってなぜか母が家に居る。ショッピングセンターのパートはどうした。
「いや、ここでいいから。いま麦茶持って来るから」
紳は萌映と母の間で挙動不審になる。
「いえ彼女じゃありません。紳君が一方的にあたしに迫ってきているだけで、あたしは紳君を認めたつもりはありませんから」
萌映は淡々と答えた。
本人からすれば、そういうことらしい。
思ったままを言っているのかもしれないが、もっと言いようがあるだろうと思う。体面というものをを考えてほしい。心までブスなやつだと思う。
ともかく、紳は萌映を玄関に待たせ、母を台所に帰らせた。
「ちょっと」
と、太った母は言った。
「おまえ、女の子を連れて来たと思ったら、なんで、よりによって、あんな……」
「ちがうんだ。話すと長くなるけど、あとでちゃんと話すからとりあえず待て。落ち着け。おれは何も落ち度は無く、恥じることもしていない」
「だってあんた」
太った母は、しゃもじにくっついた酢飯をベロリと舐めた。やはり五目寿司だ。桶が無いのでボウルを使っている。「とにかく構うな」と二十回ぐらい繰り返すと、やっと母は納得した。紳は冷蔵庫から麦茶クーラーを出し、玄関に戻った。
「遅かったね。あたしの悪口とか言ってた?」
萌映は首をかしげ、「ふん」と軽蔑の溜め息をついた。
台所の手前のドアは閉めていた。母との話を聞かれているはずはない。
「いちいち勘繰られちゃ堪らねえな」
紳は呟いた。よっぽど「告白ゲーム」のタネを暴露してやろうと思ったが、なんとか自制した。告白が罰ゲームだと宣言したところで、そのゲームに紳が悪ノリで参加したのは事実だ。自身の低劣さを晒すだけでしかない。
萌映は麦茶の入ったグラスを差し出した。
「飲ませて」
「なんでだ。おれは彼氏でも何でもないんだろ?」
紳は皮肉を言った。もちろん彼氏になりたくなどない。萌映の身勝手さに腹が立ったあまりだ。
「飲ませないの? じゃあいいわよ。もう帰る」
萌映は紳を罵り、玄関を開け放し、出て行った。
「おい」
紳は舌打ちし、自分も外へ出た。追いかけるつもりはなかったのに、どうして出たのかは分からない。
萌映は既に階段のだいぶ先を駆け下りていた。白い小さな影がひょこひょこ揺れていた。
……なんなんだよ!
紳は玄関に座り込んだ。
色々なことがあった一日だ。萌映を釣り上げたことに始まり、おぞましいイベントが目白押しであった。滝のような疲れに押し潰された。玄関から入ってくるヒグラシの声が骨にしみた。
これでまだ日曜日もあるんだよな。あるってのか? 最悪だな。