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夏の5頁め

 萌映がいつまでも磁石みたいについてくるので、さすがに忍耐の限界に達した。

 自分の家に帰るよう、言おう言おうと思っていたが、とうとう言おうと思う。

 が、その時、

「おなかすいたなー」

 と萌映が言った。

 そしてちょうど二人は石窯パン屋の前を通過するところだった。クリーム色の塗り壁と、波打つ茶色や焦茶色のレンガ屋根。ポコッと立った煙突は飾りなのか知らないが、うまそうなパン生地のにおいが、一帯に漂っている。

「なにか食べるー?」

 萌映は押し付けがましい疑問文を唱えた。言い方もいかにも厚かましく、「寄るんでしょ?」としか聞こえない。紳が迷っているそばから、「ああ、おなかすいたわー」と繰り返す。

 なにが「おなか」だ。下剤とか除草剤でも腹に突っ込んでいやがれ。

「じゃあ、おれがなんかパン買ってくっから」

 紳は萌映と一緒に店に行きたくなかった。詳しいシフトは知らないが、中には櫟棗が居る可能性がある。小山や大川は仕方ないとしても、ほかの知り合いからはあらぬ誤解を受けたくない。

「あたしも行くー。この、苺とホイップクリームをシューサンドしたやつ食べたいし」

 萌映は言った。店の前に掲示してある手書きの「できたてのパン一覧」を見て、興味を引かれた模様だ。好みがかぶっているのが判明し、紳はショックを受ける。

 さらにショックだったのは、櫟棗が働いている日だったことだ。店に入った途端ばっちり見られた。

「やあ、笠井。きょうは戸沢も一緒なんだね。珍しいことだ。ゆっくり見て行ってね」

 櫟棗は売り場と調理場を往復し、出来上がったパンを並べる作業をしていた。通りすがりつつ、二人にニコリと営業スマイルを置いていった。麻製のゆったりした三角巾とチェック柄のエプロンがかわいい。完璧にチャーミングだ。

 紳は櫟棗に感心した。おれはまだ見れる顔だからいいとして、隣のブスにもよく平等に営業スマイルができるものだ。さすがだ生徒会長。強靭な精神力。

 紳は、萌映と特別な関係でないことを説明したかったが、訊かれてもいないのに喋るのは不自然だ。早いところ買って店を出たい。貼り付くようにパンを物色する萌映から離れ、自分もパンを選ぶ。

 と、棚の角のほうで一個だけ残っているパンがあった。ピンク色というか、桜色というか、目を引く色のパンだ。ラグビーボールのような楕円形をしているが、全体がドリアンのようにトゲトゲで覆われている。なんだあれは?

 一個だけあると、とりあえずトレーに載せたい誘惑にかられる。あとで戻してもいい。紳は何気なくトングを伸ばす。 

 カチン。トングがぶつかった。

 紳の背後、ちょうど死角からトングを伸ばした客がいた。

 振り返った。だが、客の姿は見えなかった。

 しかし、あいかわらずトングはパンにくっついている。小さい手をたどっていき、腰をひねるように振り向く。

 紳の胸元に、少女の顔があった。

「んむぅ」

 大きいメガネをかけた少女だった。見たところ小学生か、せいぜい中学生になったばかりだろう。あどけない瞳が、真面目に紳を見上げている。

 だが、なにより目を引くのは、もふもふとしたゴージャスなロングヘアだった。クロワッサンのようなふわふわの巻き毛はプラチナ色をしていて、光の加減で銀色にも変わった。

 ほっぺたや首筋の肌は恐ろしいほど綺麗な真っ白をしていた。紳は思わずホクロを探したほどだった。そして、パッと見ではホクロは無かった。

「ぐぅぅぅぅぅぅ~~……」

 少女は真剣な顔をし、紳を押し退けるようにトングを伸ばした。だが、少女にとっては、紳はトーテムポールのような邪魔者だろう。少女のトングはこつこつとパンの表面をつつくが、しっかりと掴むには至らない。

 一方、紳のトングは、さっきからパンをほぼ掴んでいる。

 二人がパンを触ったのはほとんど同時だった。少女は眉根を寄せ、必死な目で紳を見上げていた。溶けたカラメルのような色の瞳には、だんだんと涙がにじんだ。力を入れているようだが、紙一枚くらい、パンに届かない。

 紳はハッとして、トングから手を離し、その場をどけてやった。このパンを独占したいわけでは全然ない。少女はすぐさまトングを投げ出し、飛びつくようにパンを両手で掴んだ。レジを済ませてないのに、いいのだろうか。

「ありがとうっ」

 少女は愛でるようにパンを頬に押し付けた。笑顔で紳に首を傾けた。目も口も見事な半円状となり、メロンパンのような円満さを感じさせた。紳もつられてニヤリとした。子どもの笑顔というのは、相手を巻き込んでしまう自然な魅力があるのだろうか。

 ついでに、少女はとても愛くるしい顔立ちでもあった。あと三年もすれば、驚くような美人になるだろう。

 とはいえ、服のセンスは頂けない。奇抜すぎる。赤ピーマンと青ピーマンの着ぐるみのような、ビビッドなドレスを着ていた。袖や裾がブワリと膨らみ、どこかの民族衣装のようでもある。なかなかお目にかかれないファッションセンスだと思う。

「よかったわねえ、リエちゃん」

 バイトの女の子が来て、少女に言った。彼女はパンを譲った感謝からか、紳にお辞儀した。こちらは、今まさに紳のストライクゾーンに入っている可愛い女の子である。

 今度合コンがある時は、この子も来るだろうか。楽しみすぎる。紳は胸が高鳴る。

「リエちゃんは、いつも『初恋はレモンの味メロンクリームパン』だけ買いに来るもんねー?」

「うん、よかった。この優しいおにいちゃんが譲ってくれた。わたしは、うれしい」

 二人の会話が聞こえる。女って、いい歳して堂々と恥ずかしいネーミング言えるよなあ、と思う。

 ていうか、このパンは一体どういう代物なのだろう。生地がレモンの味のメロンクリームパンなのか。それとも、メロンパンの中にレモンクリームなのか。意表をついて純粋なメロンクリームパンで、初恋とかレモン味とかは単なる枕詞か。そんな意味不明なパンを取ろうとしたおれもおれだが。しかし、このパンは次回買おうと紳は思った。得体の知れないものは確かめてみたい。女のスカートの中と同じである。

 ところで幼……いや、少女に「おにいちゃん」と発音されるのは「まずい」と感じた。

 初めて聴いたが、予想外に心地よい! おそらく、無力な存在が頼ってくるかのような響きが、男の自負心を刺激するのだろう! だが、こんなにしょうもない分析もなかろう。

 ゴージャスな髪のメガネ少女は、レジで会計を済ませ、店内をあとにする。

「リエちゃん、またね」

 と櫟棗たちが言った。

 去り際、少女は振り返った。紳は、もう一回「おにいちゃん」と言わないものか、少々期待した。だが、言わなかった。客が頻繁に出入りし、入り口のドアに付けられた鈴は、ひっきりなしに鳴っている。その鈴の音にまぎれ、少女は立ち去った。

 そういえば、「リエちゃん」と呼ばれていたが、少女は日本人だろうか。もふもふとした白金色の髪は、異国人の気配を感じさせなくもなかった。

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