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夏の2頁め

   *


 紳はただちに池を離れた。椋にも「何も見なかったことにしろよ」と口止めし、家に帰した。責任はおれが持つから、と言っておいた。もちろん出まかせだ。

 事件のニオイがした。めんどうは嫌だった。

 いや、殺人事件でもなければ、傷害事件でもない。少女は見たところ無傷で歩き去った。

 とはいえ、池に人が沈んでいたわけだ。少女が何か事件に巻き込まれている可能性は大いにある。警察に事情を聴かれたりするのはめんどうだ。あらぬ疑いをかけられても困る。

 それにしても、少女という言葉で呼ぶのが憚られるような不細工な女だった。濡れたブラウスから透けていた肌色のブラジャーが頭から離れない。スーパーで売ってるオバサンの下着かよ。

 朝から冷や汗をかいたが、学校に着く頃には太陽がギンギンに照り付け、ふつうに汗がダラダラと流れる。灼熱の針金が皮膚に刺さるかのようだ。梅雨は完全に明けたらしい。

  

 下駄箱の前で靴を履き替えていると、ちょうど登校してきた櫟棗いちいなつめに会った。

「やあ、おはよう」

 櫟棗は紳に声を掛け、自分も上靴を履く。かがんだ胸元から奥が見えないかと紳は期待するが、首もとのリボンのせいで見えなかった。つやつやしたミドルの黒髪を二つに結っている。ツインテールと言うほど長くはない。

「おはよう会長」

「うん」 

 櫟棗は紳を一瞥し、水が流れるように階段へと消えた。動作がスマートだ。折り目正しい靴下と、ほっそりしたふくらはぎが目に涼しかった。

 櫟棗は隣の班の美人で、生徒会長もしている。紳の悪友の小山とは幼馴染みらしい。小山が言うには、「あいつは見たとおりの奴だよ」らしいが、とすると二人の接点がどこにあったのか謎すぎる。小山はスケベでギャンブル好きの優男であるが、櫟棗は全く文句のつけどころも無い人物だ。美人だとは思うが、付き合いたいなどは想像したこともない。てか、付き合うとか、紳自身失笑するレベルだ。住んでいる世界が違う。

 ちなみに、櫟棗は、紳の宅地から降りた所にある石窯パン屋でアルバイトをしている。先日の夕方、腹が減ったのでパン屋に入ったら、トングを持った櫟棗に「お、いらっしゃい」と言われた。紳は苺とホイップクリームのパンを食いたかったが、食えもしないサバランをレジに持って行った。櫟棗は、学校と同じ乾いた空気のような態度でレジを打った。紳は名札の「いちい」という文字を見ながら、この割合バランスの悪い字を書いたのは誰だろうとか、どうでもいいことを考えた。

 櫟棗を筆頭に、このパン屋のバイトの子は全体的にレベルが高かった。別の日に友人の大川と一緒に覗いたところ、大川も紳の見立てに同意した。現在、櫟棗の仲介でバイトの子たちと合コンできないか、小山に頼んでいるところだ。小山・大川・紳の三人は、合コン等の活動を中心として日頃からつるんでいる仲だ。

 今まで紳は彼女が居たことがない。

 中学三年の、ちょうど今頃、なにかの委員会の活動を通して仲良くなった女子に告白し、付き合ったことはある。しかし何をやったらいいか分からず、いや、最終的にエロ的方面に行こうとは思ったが、そこに至る手順が下手すぎて十日で別れた。というか、向こうから「もうつまんないからやめよう」とダメ出しされた。たしかに、毎日一緒に帰ったり電話したりメールしたりしたが、決まりきった話題ばかりで面白くなかった。さすがに十日で別れた相手を彼女とは言わないと思う。

 そんなわけで、今年こそは彼女を作りたい。もうすぐ夏休みだから、できればそれまでに作りたい。返す返すも、今思えば、二年前の「十日間の彼女」の時に無理して襲っていればよかった。今度彼女ができたらそうしようと思う。

 ていうか、女なんて外見と肉体以外に価値あるのか? 紳が合コンで出会った女子といえば、これ食べたい、あれ買いたい、私の話聞いてよ、みたいな奴ばかりだった。女運が悪いのかもしれないが、紳達三人組の総意としては、女はビャービャーうるさい欲望の塊であった。櫟棗みたいなできた女はあくまでも例外だ。欲望には欲望で迎え撃つしかないのだ。溜まりに溜まった欲望を今年の夏こそは開放してみせる。 

 

 紳の席は教室の末尾だ。窓際の一番後方であった。しかも、五人の班の五個目の席なので、隣は誰も居ない。

 今日は机の並びがいつもと違った。

 なぜか紳の隣に机があった。

 班の座席が六個になっていたのだ。

 掃除当番が机を並べる時に間違えたと思われた。おそらく前の班の机を持って来たのだろう。たぶん、前の班の席数が五つになっているはずだ。そう思い、前の班を見ると、机は普通に六個あった。

 ?

 ということは、前の班は六人で、こっちの班も六人。妙である。いつもは六人+五人で十一人だ。だが、ふと前方を見た瞬間、疑問は氷解した。

 前の班の一番前の席に、見たこともない女が座っていた。

 見たこともない、それは学校での話だ。さっき紳はその女を見た。というか、あの透けていた薄気味悪いブラジャーを忘れるわけがない! 今はブラウスは乾いており、公害は比較的抑えられていた。紳は目を細めて女を見る。威風堂々たる座高。無味乾燥にゴムで縛っただけの、ボリュームのあるくすんだロン毛。骨ばった顔面とお岩さんのような目元。

 やはり、T池に沈んでいたあの女だ。

 それは間違いなかったが、新しい疑問が生まれた。

 なんであいつがうちの教室に居るんだ? 転校生か? 今日転入して来たのか? だとしても、T池から学校に直行するものか? 色々とおかしい。

 しかも、クラスの生徒達が違和感を持っていないのが更におかしかった。何食わぬ顔で小山は宿題を写しているし、今入ってきた大川は確かに女を見たが普通に自分の椅子に座った。

 どうやら、知らない間にクラスの人数は一人増えているらしい。しかも誰も増えたことに気づいていなかった。または最初からこの人数だと思っている様子だった。

「……何だ、こりゃ」

 紳は間抜けに呟いた。内心では肌寒かった。サーッと汗が引いた。ただ、女の席が増えたために、前の班だった櫟棗が押し出され、こちらの班に加わる形となった。それは嬉しかった。

 櫟棗の背中は綺麗だといつもどおり思った。


 授業の直前、紳は小山の肩を叩いた。

「なんだよ」

 小山は虎の巻を写す手を止め、振り向く。

「おい、変なこと訊くけど、あいつって元々ウチのクラスに居たか?」

 紳は女に向けて顎をしゃくった。

「は? 何を言ってるんだ?」

 小山は目をぱちくりさせた。いつも飄々としている男にしては、わりあい驚いたと見える。やがて、優男の爽やかな微笑を浮かべた。

「ははあ、分かった。紳、萌映もえちゃんが気になっているんだな」

 萌映ちゃん。その発音がじつに軽快である。

「はあ? ちげえよ」

 本当に違う。いや、気になっているが、小山が言ったような意味ではない。ていうか、女の名前は萌映というのか。ひでえ名前だな。全然萌えねえよ。

「瞬時に否定するあたりが怪しいね」

「お前が見掛けに反して意外とダークなユーモアを秘めているのは否定しないが、おれは言葉通り、あの女がウチのクラスに居たかどうかを訊いているだけだぞ」

「居たか居ないかで言うと、居たと思うな。このクラスが集団催眠に掛かっていて、クラス全員が幻影を見ているんじゃないなら」

 小山はつまらなそうに答えた。

 つまり、小山は「つまらない質問」だと思っている。

 集団催眠。まさにそれだ。いや、催眠で片付けるには生ぬるい。洗脳と言えるほどの現実が目の前にある。小山は思ってもいないだろうが、まさにクラス全員が幻覚に囚われているのだ。

 紳はキョロキョロと周囲を見回した。誰かがチラ見していないだろうか。クラス全員で自分をハメていないだろうか。だが、残念ながら、そんな様子は無い。

 小山、大川、櫟棗、みんな、集団催眠に掛かっていることにも気付いていない。なんていうことだ。これならおれ一人の頭が狂ったことにした方が気が楽だ。紳はそう思った。だが自分の判断力は健全だと思えて仕方がない。どうすればいいのか。

 小山が訝しげに紳を見た。前方の席の櫟棗も、なにげなく二人を眺める。

 紳は自分の主張をブチ撒けたい衝動に駆られた。おかしいよ。萌映なんていう女、ウチに居なかったじゃん。ほぼ言いかけたほどだが、唸り声とともにノドに閉じ込めた。

 考え直したのだ。

 ブスが元々クラスに存在しないことを釈明して、何の得があるのか。ブスな女子なんて、居るとしても居ないほうがいいのだ。男のおれにとってはそうだ。むきになって釈明するほど、変な誤解をされかねない。ブス専という噂を立てられる日も遠くはなくなってしまう。

 ところで、ブス専ですら敬遠するような風貌の女を形容する言葉ってあるのか?

 というわけで、紳は萌映という女の闖入というか混入については気にしないことにした。曖昧に頷き、黙って座り直した。

 どうも妙なことになったが、無理に周りと衝突することもない。ブスというのは、居ても居ないように扱いたくなるものだ。クラスにブスが居ると認めるだけで不快指数が1%上がる、ブスとはそのような存在だ。萌映とやらのことをいちいち気にかけるだけで生活の損失と言える。

 なんなら自分の中の事実を改変してもいいくらいだ。ブスから受ける不快感を消すため、無意識に萌映とやらを居ないように扱ってきたのだと。そんなふうに考えをまとめ、紳は疑問にひとまずの折り合いをつけた。

「ああ、つまらない、毎日つまんない。最近の生活には刺激が足りないよ」

 シャープペンをクルクル回しながら、小山は呟いた。

 いつも退屈しているのが、この男の悩みだった。

 紳は毎日の生活を楽しいとも思わないが、そこまで退屈だと思ったこともない。

「紳、嘘でもいいから、萌映ちゃんにこくらないか? そしたら少しは楽しいんだけどな」

 小山は思いついたように言った。

「なにを言ってる。冗談はよせ」

「だから、嘘でいいって言ってるじゃないか」

「おれはお前を楽しませるボランティアじゃねえぞ」

 だが、小山は話を聞いている様子はない。

「なるほど、どうして今まで気付かなかったのかね。借金という概念があるように、女も美人だけが使いでがあるわけじゃない。いいふだがあったじゃないか」

 と、一人呟いた。

 実に爽やかな笑顔であった。

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