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夏の1頁め

 T池の入り口にはバラ線が付いたフェンスが設けられている。さらに「立入禁止」系の看板が三つほど取り付けられている。

 フェンスの下部には大人が這って通れるくらいの穴があいていた。フェンスの針金をニッパーのようなもので破断したような穴だ。こういう穴は誰があけるのか謎だが、池に用がある人間には都合がいい。

 笠井紳かさいしんはフェンスの前に自転車を止めた。

 一回り小さい新しい自転車がすでに停まっていた。

「今日は来てんのか」

 紳は呟き、針金にリュックを擦らないよう気をつけ、フェンスの穴をくぐった。

 堰堤えんていに立ち、池を見渡す。

 水面には涼しげなさざ波が立っていて、鮒か鯉の小さいやつが遠くでポシャリと跳ねた。早朝の空気はひんやりと爽やかで、徹夜明けの肺にも優しい。

 けさは趣味のブラックバス釣りに来た。中学の頃から五年も続けている。

 バス釣りはテレビやPTAからよく叩かれる。バス釣りが趣味だと大人に言うだけで犯罪者扱いされることもあるほどだ。

 だが紳は別に気にしていなかった。このT池で、今まで文句を言われたことはなかった。というか、今の時代、立入禁止や釣り禁止でない池はほぼ無い。だから、釣りをする場合、ある意味で開き直るしかない。池のフェンスをくぐると、いつも無言の説教をされているような感じがしたが、それを敢えて無視し釣りするおれカッコイイよな、みたいな優越感もあった。

 結局、残念ながら、面白いものは面白いわけだ。

 好きな時間に一人で行けるのもいい。

  

 パシャ。

 やや硬質な水音がした。遠くの水面に疑似餌ルアーが着水した。

 白地に赤い模様の、土管型のルアーだ。ルアーの尻には銀色の金属板ブレードが付いている。

「おっ、『バド』だな」と、紳はルアーの名前を言う。釣り人以外にはどうでもいい情報だ。

 ルアーに結ばれているラインは、戯れるような線を水面に描き、向こうの茂みへと隠れている。釣り人の姿は見えないが、たぶんりょうであろう。あの自転車は椋のだし、最近「バド」を小遣いで買ったと言っていた。

 ツツツ、糸が巻き取られ、ルアーが水面上を動く。「トップウォーター」というタイプの、水に浮くルアーだ。丸い目が描かれたルアーは、チャーミングともグロテスクとも言える顔をしている。

 ルアーは波を立て、首を振りながら動く。尾部のブレードが本体とぶつかり金属音を出す。カカカカカ。

 ゴボ!

 食った。魚だ。なめらかなプラチナ色の腹部が、にゅるりとルアーを巻き込む。ずいぶん調子よく出るものだって? いや、逆だ。ルアーを食う魚はイキがいい。だから早いタイミングで食ってくるものなのだ。

 それより、見た感じ、いいサイズの魚だ。白いルアーと黒い魚体が連結され、派手に波しぶきを立てる。糸はピンと貼られ、弦のようにビンビンと震えている。椋は茂みの向こうで懸命にリールを巻いていることだろう。心拍数も上昇中だな。

 がんばれ、バラすな、取り込め。紳も拳を握る。

 が、ゴポッと魚がローリングした後、水を打ったように静まった。

 水面には、白い「バド」がプカリと浮いた。

 あーあ。バラしたな。

  

 堰堤の奥は茂みになっており、そこから池を囲むように林道が続いている。

 紳は泥っぽい道に滑りそうになりながら、急いで駆けつける。釣り人の馬鹿な習性だ。急いでも魚はハリから外れているのに。

「……紳くん」

 椋はハッと紳を見た。驚いた顔、というか、どう表情を作ればいいか分からない様子である。

 見たところ三十五センチぐらいのブラックバスだったが、椋には初めて見る大物だったろう。椋は釣りを始めて三ヶ月、二十センチ前後の小バスを二匹しか釣ったことがない。ちなみに、小バス二匹という記録は、紳が釣りを始めてから二年間の記録と同じである。

「惜しかったな」

「うわ~、大きかったあ~」

 めずらしく椋は叫んだ。すると悔しさと興奮が湧いたらしく、心底から残念そうにまた「うわ~」と言って、泣き付くような顔をした。

 椋は中学一年だ。中性的なあどけなさが、まだある。

 椋は魚の重さを思い出すように、竿を上げたり下げたりした。

 

 紳が椋と会ったのは春のことだ。

 椋は中学の男友達数人でT池に来ていた。紳が目の前でさりげなく小バスを釣り上げると、グループは横目で興味を示した。金髪をワックスで立てている紳の風貌にビビり、正面から見ることは無かった。

 結局、その日、椋だけがグループの中でブラックバスを釣った。椋は初めての釣りで魚を釣り上げたのだ。じつは椋が釣れたのは偶然ではなかった。紳が「これを使ってみな」と言い、「スピナー」というルアーを渡していたのだ。まあ、椋だけに渡したのは、椋が偶然に紳の近くで釣っていたからだったが。

 スピナーはT池のシークレット兵器だ。大きい魚は釣れないが、小物は良く釣れる。初心者が投げて巻くだけでも、わりと釣れる。

 あとは、岸沿いに投げるんだと教えてやった。初心者は池の真ん中にルアーを投げたがるが、魚は岸沿いの物陰に潜むことが多い。

 結果、椋は「自分で魚を釣る」ことができた。

 小物ではあったが、釣りに目覚めるには充分な刺激だったようだ。それから椋はしばしば来るようになった。池の近くにある寮に住んでいるので、ちょっとした時間に来ることができるそうだ。紳の家も池から少し登った所の宅地であり、お互いに意外と近かった。


 朝釣りで会ったのは二度目である。夏の釣りは朝と夕方がいいと、このあいだ椋に教えた。人間と同じで、魚も夏の昼間は暑さで参っている。

 健康的に早起きであろう椋と違い、紳は徹夜明けだ。といっても、べつに何かに打ち込んでいたわけではない。漫然と部屋に居たら夜が明けることはよくある。

 朝に魚を一本出し、そのまま学校に行くつもりだ。だから制服で来た。

 紳はリュックから釣り道具を出した。竿はパックロッドと言い、四つのピースをつなぎ一本にする物だ。リュックに仕舞えるので重宝する。

 椋が水面に浮かぶルアーを使っていたので、紳は水中に潜るルアーを使うことにした。

 紳の隣の場所を借り、とりあえずルアーを投げる。このエリアは池の水の吐き出し口があり、池の角にあたる部分でもある。水の動きがある所や、地形変化がある所は、魚が集まりやすい。さっき椋がバラした魚を釣るのは無理だろうが、似たサイズの魚が釣れる可能性はある。加えて、早朝はブラックバスがエサのザリガニや小魚を追い掛ける時間帯でもある。

 ルアーを投げ、巻いていると、水中の障害物に引っ掛かった。

 障害物が多いのは、ポイントが多いことを意味するので、いいことだ。けれど引っ掛かるのは御免だ。糸が切れると、またルアーに結ばなくてはならない。意外と面倒な作業だ。

 紳は舌打ちした。何とか回収できないか。

 竿をゆっくりと引くと、障害物もくっついてくる手応えがあった。暴れないので魚ではない。水を吸ったビニール袋とか、木の枝のかたまりとか、そういう類だろう。それにしても、重い。

 岸まで寄せて来ると人間だった。

 白いシャツと、チェックの入った紺色のスカート。

 夏服を着た少女が、岸辺の浅場に横たわっていた。


 ルアーの針はシャツの袖に引っ掛かっており、今にも生地が裂けそうだ。

 だが、水深がなく、糸をこれ以上巻くことはできない。

 え、えええ。紳は自問自答し、椋と顔を見合わせ、また少女を見る。なぜか覚える犯罪意識。というか、あの制服は紳が通っている高校のものだ。大柄な肢体がうつぶせになり、腰まである長髪が水面に広がっている。ピクリとも動かない。いや、動いたら動いたで怖いのだが。

 すると、椋がズボンを捲り上げ、バシャバシャと駆けて行った。十五歩ぐらいで少女の所までたどり着き、自分よりも大きな少女を抱え上げ、おぶって岸まで連れて来た。

 紳はポカンと眺めていた。……と、とりあえず、グッジョブ。紳は親指を立てた。コミカルな動作が出る自分に笑える。

 それから、二人で少女を持ち、堰堤の上に寝かせた。

「どうすればいいんだ。人工呼吸か」

 言ってみるが、やりかたが分からない。というか、生きているのか?

「僕がやってみるよ。人工呼吸なら学校で習ったんだ。明日、プール開きだから」

 椋は言った。目は真剣そのものだ。まだ椋は異性を意識するような時期ではないだろう。紳よりは随分しっかりした中学一年生だ。

 そういえば、大慌てで運んだものだから、少女の顔もまともに見ていない。紳は動転していたのである。

 濡れた少女の長髪を掻き分け、顔を見ようとした時、

「ゴ……ホッ! ガハッ!」

 少女は水を吐き、壮絶に咳き込んだ。野獣のような野太い声だった。まあ、当然だろう。窒息しかけた、あるいはしていたのだから。しばらく少女は咳き込んだが、数分ほど経つと落ち着いた。

 少女はムクリと上半身を起こした。

 紳と椋は、思わず体を引いた。

 観察するような目で、少女は周囲を見回した。

 紳は信じられなかった。おそらく少女は二人が釣りに来る前から沈んでいた。よく無事でいたものだ。というか、なぜ水中に居たのか。あるいは誰かに沈められでもしたのか。無事で良かったとは思うが、怖いくらいに謎だらけだ。

 少女は無言で立ち上がった。

 大きく息を吸い、顔をゆがめ、大きな溜め息をついた。

 幽霊のような長い髪から水をしたたらせ、ゆっくり歩いて行った。

 二人に何も言わず、少女は立ち去った。


 紳は堰堤に座り込んでいた。やや放心していた。

 少女の姿が脳裏に焼きついていた。あの少女は、およそ女と言うには似つかわしくない顔を持っていた。

 極めて怪異な容貌。

 この地方に住む河童の末裔だと言われたら信じたろう。思い出したら吐いてしまいそうな面相であった。シャキッとした制服との対照が最高だ。いや最低だ。

 つまり、最高にブスだったのだ。

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