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短編小説 北の空

作者: たけじん

 昭和30年代日本はまだ貧しい国であったが、このころ北海道で少年期を過ごした私の友情の物語である。

 いわばもう一つのスタンド・バイ・ミーである。 

序章

 昭和35年の夏 、私は家族とともに南九州から北海道中部の地方都市に移り住んだ。その時、私は小学1年生であった。ここの住まいは一軒に五戸が連なる長屋形式で、私の家は右から二番目であった。

 冬になると軒先のつららは数本が合体し、大きく太くなり地上まで届いた。このような寒い冬でも夕刻には近くの銭湯に行くが、その際には耳まですっぽりと覆われる毛糸の帽子を被りアノラックを着込み、ムートンの手袋と長靴を履く。   その寒さは尋常でなく帰る途中で湿ったタオルを固く絞るとそのままこん棒になる。そのこん棒でチャンバラごっこをした。

 また、朝方吹雪になっている時でも、三十分ほどかかる小学校に通う。いつものとおりゴム長靴にスキーの革のバントをはめ、竹のストックを両手に持って歩いて行く。このスキーは歩くたびに交互に踵が上がり非常に歩きやすい。

 このような冬装備をして、猛吹雪の中を突き進むのだが、前が見えない、寒い。寒いのを通り越して痛い。指先がかじかむ。ようやく学校に辿り着いた。教室に入ると、石炭ストーブがポンポン焚かれており暖かかった。

 ストーブの周りには、同級生が数人たむろしていた。私も、かじかんだ手を温めようとストーブにかざした。暖めていると次第次第に指全体が痛くなってきて、たまらず泣き出してしまった。近くにいた女の子が慰めてくれた。

 南九州から来た私の初めての北海道の冬であった。


第一章 校庭の池での釣り

 私は小学三年生になった。

 毎日、放課後は宿題もろくにせず、同じ宿舎の同級生や六年生の先輩らとともに鬼ごっこや缶蹴り、パッチ、釣りなどして遊び惚けていた。

 近くの中学校の前庭にはひょうたん型をした池があった。そのひょうたん池にはふなやコイがたくさんおり、これを釣ろうということになった。

 学校が終わった後、私は同級生の2人とともに釣り竿を肩に担ぎ、宿舎から歩いて20分ほどの中学校に赴いた。

 まあ君が「いっぱいいそうだ」と言い、私も「大物を釣ろう」と意気込んだ。ひろ君はもくもくと釣りの準備をしていた。

 皆か釣り糸を垂れた。20分が過ぎても浮きはびくりともしない。まあ君は、少しいらいらした様子で、釣り糸を何度も引き上げ餌の確認をし、「まだあるな」と再び糸を垂らした。ひろ君は、ただじっと浮きを見つめている。私は、浮きはそっちのけで浮きの向こうに咲いている蓮の花を見ていた。両手を合わせた形のピンク色の花を見ていると極楽浄土にいるような面持ちでぼんやりとしていた。その時、ひろ君が「ひいてるぞ」と小声で叫び、竿を持ち上げた。釣り糸の先には、20センチはある白地に黒と赤の模様の錦鯉が尾っぽを激しく揺らしていた。三人は「やった。やった」と大声を出し、興奮した。

 数メートル離れた校舎の一階の窓がガラガラと開いた。「こらー、お前ら何をしているのか」と怒鳴る声がした。中学校の先生のようで、血相を変えて我々のいる方へ駆け出してきた。まあ君が「やばい。逃げようぜ」と言い駆け出した。錦鯉を釣り上げたひろ君は、竿こと放り出し、一目散に駆け出していた。一方、私は買ってもらったばかりの竿をぶん投げる訳にはいかず、竿をしまうのに手こずっていた。そこに先生が到着して私の腕を捉えた。

 私は腕を取られた瞬間に、ぶん殴られるのではないかと体を固くした。

 先生は「お前ら、何を考えているんだ。ここは釣り堀じゃないんだよ」と諭すように言った。

 私は「すいません」と泣きじゃくりながら、(こうべ)を垂れた。駆け出していたまあ君、ひろ君は私が捕まったのを見て駆けるのを止めて立ちすくんだ。先生は、二人を池の方へ来るように手招きした。二人ともそれに従い、私の傍へ来て首を垂れた。

 「いずれ皆この中学校の生徒になるんだろう。そうなら、なおさら学校の施設を大事にする必要があるんだよ。特にここの池の錦鯉は、先輩が大事に育ててきたものなんだよ」と諭した。我々三人は皆「すいません。二度としません。許してください」と深く首を垂れ、泣きじゃくった。先生は「三人とも反省しているようなので、今回は大目に見てやろう。ただし、釣り針が刺さったままの錦鯉をちゃんと解放することが条件だよ」と三人に言い含めた。

 ひろ君は、頷きながら鯉の口に刺さっている針をはずし、池に戻した。その鯉は池に戻したときはじっとしていたが、次第に尾っぽを振り、深みの方へ潜っていった。

 我々は各々竿をしまい、先生に会釈をして逃げるように校庭を離れた。先生は三人の後ろ姿を見ながら「4年後待ってるぞ」と大声でどなった。


第二章 アイヌ犬エス

 ある日の放課後、いつものとおり三人で家路に向かっていた。途中、砂利道の端の草むらにダンボール箱が置かれているのを見つけた。

「箱が動いてるぞ」とひろ君、「なんか泣いているみたい」と私、「開けてみよう」とまあ君。

 ダンボール箱を開けると、そこには、30センチにも満たない白と茶色のブチの子犬一匹がクンクンと悲しげに泣いていた。

 「どうしよう」とまあ君、「このまま見捨てる訳にはいかないし・・・」と私、ひろ君は「誰かが拾ってくれるんでは・・・」、まあ君は「母は犬が嫌いなので、自分の家では飼えない」

 私は、悲しげな声で泣いている子犬をこのままにはしておけないと思い、「取りあえず、自分が持っていく」、ダンボールごと抱え、家路を急いだ。

 「子犬が道端においてあった。飼いたいんだけど・・」と子犬をなでながら母に哀願した。母は「なんで拾ってきたの。だめだと思うけど、お父さんに聞いてみなさい」との返事。父が帰ってくるまでの数時間、私は妹と一緒にその子犬と戯れていた。父かなんと言おうと私はこの犬を飼おう。名前は、何となく「エス」にしようと決めた。妹も賛成してくれた。

 夕方、父が帰ってきた。私は、エスを抱きながら「この犬を飼いたい。いいでしょ」、父は「ここは宿舎なので、生き物は飼えないんだ」と切ない返事であった。私は、何としてもエスを飼いたかっので、「なんでも世話をするから、飼いたい」と駄々をこねた。エスも私の心を察したのか、しきりと父に尻尾を振り、ペロペロと父の顔をなめた。

 父も、私とエスの執拗な態度にほだされたのか、「家の中では飼えないが、外でなら何とかできるかもしれない」と言った。

 私は「ばんざい」と叫んだ。エスは、部屋の中を駆け回り、ついでにうんちをし、さらに部屋の中をグルグル駆け回り、家族皆でエスを捕まえるのに四苦八苦した。

 こうして、アイヌ犬エスは、私の家族の一員となった。

 早速、父が犬小屋を作ってくれ、石炭小屋の横に置き、エスはそこの住人となった。

 最初のころは私が腰を屈めてエスを抱いていたが、半年も経つと私の肩ぐらいまで大きくなり、毛もふさふさとし、まさにアイヌ犬となった。

 結局、エスの世話はほとんど母任せであったが、私は、吹雪であろうが、雨が降ろうが、残飯の食事を小屋まで運ぷのが日課になっていた。食事を持っていくとエスは尻尾を振り、私の顔を嘗め回すのであった。

 飼い始めて一年を過ぎたころ、私は遊びに忙しく、エスに構うことが少くなってきた。ちょうどそのころからエスの遠吠えが激しくなり、隣近所からの苦情が頻繁になってきた。隣近所の人達は、私の家だけ犬を飼っていることにやっかみがあったのかもしれない。

 いずれにしても、このまま放っておくわけにはいかない。家族会議が開かれた。父は「これ以上エスをここに置いておくことはできない。ざんぱん屋さんに引き取ってもらうことにした」

 この宿舎には、家畜の餌にするため週2〜3回くらい馬車で残飯を集めに来るおじさんがいた。父母は、このおじさんにエスを引き取ってもらうようお願いしたみたいである。

 私や妹は「何でここで飼ってはいけないの。エスがかわいそうだよ」と反論したが、父は「保健所に連れて行くより、エスにとってはよっぽど幸せだよ」と諭した。

 私は、保健所に行くことの意味が分からなかったが、父の説明で殺処分されることを理解し、ざんぱん屋さんに引き取ってもらうことに同意した。

 翌日、いつものとおり犬小屋の前にお座りしているエスに「おはよう」と声をかけ小学校に向かった。放課後、自宅に帰ると、エスは犬小屋ともども消え失せていた。

 エスがいなくなることは昨夜の家族会議で理解していたものの、翌日にいなくなるとは思ってもみなかった。最近遊んでいなかったので、今日はエスと遊ぼうと思っていたのにがっかりした。しかし、友達が来て「パッチやろう」と誘われると、先ほどの思いはどこへやら遊びに夢中になっていた。


 ざんぱん屋のおじさんは、いつものとおり毎週2〜3度荷馬車に乗って「どぅ、どぅ」と馬の手綱を操り、残飯が置かれている何か所かの置場で残飯を収集していた。最近では、この荷馬車の横に茶色のブチで毛のふさふさしたアイヌ犬エスが同道していた。

 エスは、私の宿舎近くまで来ると、必ず荷馬車を離れ私の家の前の石炭小屋の横にあった犬小屋付近にお座りの姿勢で座り、元のご主人様を待つのであった。エスは、ご主人様(私)を見つけると尻尾を振って迎えるのであった。

 後で聞いた話だが、私たち家族がこの宿舎を離れた後も、エスは残飯集めに来る日は、必ず石炭小屋の横に座っていたそうである。

  

第三章 駐屯地

 この町は自衛隊の駐屯地があり、演習がある都度ゴウゴウと腹の底に響く轟音を立てる戦車や隊員を乗せた幌付きトラックが砂ほこりを巻き上げて、宿舎近くの幅の広い砂利道を突き抜けていく。

 宿舎の子供たちは砂利道の傍らから、その様子を見て興奮している。


 我々三人は、六年生の先輩たかし君と一緒に戦車が滞留する駐屯地内に入った。皆、父親が隊員であることから簡単な手続きで中に入ることができた。戦車が数台並んでいるところへ行った。隊員が清掃をしていた。その隊員は、「たかし君だね。久しぶりだね」と声を掛けてきた。「この戦車は米軍からの払い下げだけだよ。見た目は小さいけれど頑丈だよ。乗ってみるかい」と誘ってきたので、皆「乗ってみたい」と口を揃えた。

 皆、ゴーグル付きのヘルメットを思い思いに被り、戦車に這いつくばりよじ登った。まあ君は砲手の席へ、ひろ君は左側の操縦席へ、私は右側の機関銃席へ、たかし君は砲台から顔を出し、それぞれガチャガチャと操作の真似をし、顔を赤らめ興奮していた。最後に、写真を撮ってもらった。

 我々は、その隊員にお礼を言い、駐屯地内を出た。皆「今日は戦車に乗れて最高だったよ。楽しかったね」と語り合い、家路に急いだ。


第四章 忍者ごっこ

 そのころ男の子の間では忍者ごっこが流行っていた。当時の子供たちは日曜午後7時のテレビで放映されていた大瀬康一や牧冬吉の「隠密剣士」に釘つけになり、四六時中忍者の真似をして遊んでいた。

 風呂敷を上手い具合に頭巾にして頭に被り、竹の棒を刀にしてバントの左側に挟んだ。そのほかに小道具として巻きびし、手裏剣、小刀などがあるが、子供たちはそれらの小道具をいとも簡単に調達した。

 巻きびしはビー玉を代用し、手裏剣は近くの鉄工場のごみ捨て場に無造作に積み重ねている無数に丸形にくりぬかれている長方形の鉄板がちょうど手裏剣の型になっていて、それを切り取り削ったものを手裏剣とした。また、小刀は五寸釘を加工したものである。


 この時代の北海道の鉄道は蒸気機関車が主流であった。

時おり我々三人とたかし君は単線の線路わきで遊んでいた。まあ君が線路に耳を当て「もうすぐ機関車が来るよ」と叫んだ。二〜三分たったころ、蒸気機関車が林の奥から煙を巻き散らし、汽笛をピッピーと鳴らし、ドッドッドッと腹に響く轟音をあげながら迫ってきた。

 皆は線路わきに佇み、そこから逃げ出したくなるような圧倒的な轟音を立てながら走りさって行く蒸気機関車を見送った。

 また、時には全員が肝試しと称して、鉄橋の下の桟橋に身を屈めて、機関車が通り過ぎるのを待つということもやった。機関車が通り過ぎた後も延々と連なる貨物列車が通り過ぎるのを待つのであるが、その間、両手に汗を握りしめ、鼓動は早鐘のように打ち、脚はガタガタと震えた。鼓膜が破れるような音に耐え忍び、列車が通り過ぎるのを待った。

 終わった時、お互いに「良くやった。皆すごいぞ」と褒め讃えた。皆は、その時から少し大人になったような気分になった。

  

 さて、小刀のことに戻るが、小刀を作るには、この蒸気機関車が必要不可欠である。

 小刀を作るため、我々は線路に駆け登り、五寸釘を線路の上に置き、機関車が来るのを待った。貨物列車を運ぶ蒸気機関車が、釘を置いた線路の上を通り過ぎた。皆、線路に駆け寄り、自分が置いた五寸釘を確認した。皆は、口々に「やったー。ぺったらこくなってる」と平べったくなつた釘を手に持ち満足気であった。この釘を磨いて、忍者ごっこの小道具にするのである。

  

 これら小道具を持ち頭巾を被り、竹の棒を腰にさし、皆で忍者ごっこをした。

  手裏剣や小刀など小道具類は、決して人には向けないというルールであったが、佳境に入ってくると、皆、興奮して手裏剣を相手めがけて投げつけることがあった。

  まあ君、ひろ君、私の三人で遊んでいるときも、私が投げた手裏剣がひろ君に当たった。鉄製の手裏剣なので子供には重くて遠くには投げられないが、それでもひろ君の脛に当たった。私も皆もびっくりして、「ごめん。大丈夫かい」と私、「少し血が出ているようだが・・・」とまあ君、ひろ君は「大丈夫だよ。かすり傷だよ」と言い、唾で傷のところを拭った。

 このころから忍者遊びでけがをする子供たちが続出しだしたため、PTAから、忍者ごっこは禁止との通達が出、その後忍者遊びは下火となった。


第五章 ボヤ騒ぎ

 その日は夏も終わり初秋の晴れた日、線路わきの草は我々の背丈以上にぼうぼうと伸び枯れ始めていた。その伸びた草を足で折り曲げ道を作り線路まで辿り着いた。この日の遊び相手は線路ではなく、線路わきの草であった。

 六年生のたかし君が「この草邪魔だから野焼きをしよう」と言った。まあ君は「どうやるの」、たかし君は「マッチを持って来たので、草に火をつけよう」と、ズボンの右側のポケットからマッチ箱を取り出し、箱の中から一本を取り出しマッチを擦り、枯れ草に火をつけた。

 枯草についた火は瞬く間に燃え広がった。当初、皆は草が燃えるのをやんややんやとはやし立てていたが、みるみるうちに燃え広がるのを見て、お互いに目を見合わせ「これはやばぃぞ。逃げよう」と叫び、皆一目散に線路わきを離れた。しばらくすると蒸気機関車が通り過ぎたが、かなり長い時間汽笛を鳴らしていた。

 この線路わきの周辺は建物などは一切なく草が広がっているばかりであった。近くには小川が流れそこには鉄橋が架かっていた。さらにその遠くには林が林立するいわば北海道の原野の風景であった。

 このような環境から野焼きをしても自然と消滅したものと思われたが、我々三人は後悔の念にさいなまれ、しばらくは眠られない日々が続いた。

 これ以後我々は線路わきには行かなくなった。また、それ以後我々三人はたかし君とは距離を置き、遊ばなくなってしまった。

  

第六章 田んぼの白鷺

 一か月が過ぎ、いよいよ秋も深まってきた。

 その日、いつもの三人は線路わきとは正反対の東側の田んぼの中にいた。

 すでに稲刈りは終わって、広大な田んぼには稲藁を縦に積み重ねて天井に藁の屋根を拭いたモンゴルのパオに似たものがあちらこちらに林立していた。

 我々三人は鬼ごっこをしていたが飽きてきて、パオを背にして話をした。

 「あの後、線路わきに行ったかい」と私、まあ君は「怖くて行けないよ」と答えた。「母は俺がふさいでいるのに気付いて『どうしたんだい』と聞いてくるので、仕方なくボヤ騒ぎのことを話してしまった。皆、問い詰められなかったかい」とひろ君は聞いた。

 まあ君と私は「問い詰められたので、ひろ君と同じように話してしまったよ」とそれぞれ答えた。

 三人の母親たちは、これまで何度となくトラブルを起こし、宿舎の中で問題児扱いされていた年長のたかし君が元凶であるとの結論に達したようで、それぞれの母親は我々に対して、二度とたかし君とは遊ばないよう言明した。皆、やむを得ずそれに従った。

  

 そんな話をしていたとき、四〜五メートル先のパオの藁屋根に真っ白い鳥が羽を休めていた。それを見つけた私は「白鷺だよ。きれいだな」と言った。まあ君は「追っかけて捕まえよう」と言い出した。二人とも「やろう」と同調し、皆腰を屈めて白鷺のいるパオを目指した。

 白鷺はこそこそと忍び寄ってくる三人を見つけ、羽を広げ隣のパオに飛び移った。三人は、またも忍び足で近づいて行った。「お前ら馬鹿か」と言わんげに白鷺は再び羽を広げ、隣のパオに飛び移った。これを数回繰り返しても埒が明かなかった。そこで今度は、まあ君が左手側、ひろ君と私が右手側に別れて、白鷺が右手側に注意を逸らすようにして、時間差で左手側のまあ君が白鷺を捉えようとする計画にした。

 白鷺は、計画どおりひろ君と私の方に神経を集中させており、まあ君が反対側から腰を屈めてパオに近寄り、手を伸ばして白鷺の足を捉えようとした。

 その瞬間、白鷺はびっくりし足をもがきまあ君の手を振りほどき、羽を広げ「これはやばい」といった風で我々との戯れを止め、東の方へ飛び去って行った。

 仮に白鷺を捉えたとしても、その後どうするかをまったく考えていない三人であったが、「もう少しだったのに」と悔しがった。


第七章 土地っ子五人組

 白鷺が去った後、周りを見回すと我々が住む宿舎は遥か彼方にあり、我々三人は白鷺の追っかけこに夢中となり相当遠くまで来たようである。

 東の方角には数軒の農家があり、その近くに林が見え、木々を縫うようにして一段下がったところに小川が流れていた。

 三人はその林へ向かい、ちょろちょろと流れる小川まで降り水と戯れた。「水は冷たいけど気持ちいいね」と皆。ひろ君が「沢蟹がいるよ。捕まえよう」と言ったのをきっかけに沢蟹取りが始まった。

 まあ君が「捕まえたぞ」と小さな沢蟹の甲羅の両端をつまみ高々と掲げ、満足気に言った。ほかの二人も必死になって蟹取りに興じていた。


 その後しばらくして、我々が騒いでいるのを聞きつけた地元の少年たち五人が我々が遊んでいる小川へやって来た。

 その少年たちの年格好は我々三人と同じくらいであった。一人だけ背の高い体格の良い少年がいた。その少年が「お前らどこから来た。ここら辺の者ではないな」と言った。「田んぼの向こうから来たんだけど」と私、「お前ら勝手に俺らの秘密基地で遊ぶな」と恫喝し、「お前らいい靴履いてるな」と物欲しげな顔になった。そう言えば、彼らが履いていた靴はゴム長靴の上の部分を取ったブカブカのゴム製の靴であった。

 その後、彼らが命ずるままに我々は小川から近くの広場まで連行されようとしたが、私は小川から駆け上がると同時に脱兎のごとく林を抜けて一目散に田んぼの方へ駆け出した。

 追っては二人だけだったが、プカプカのゴム靴では追いつくことができず2〜300メートルくらいで諦めたようであった。

 追ってもいなくなったので安心して走る速度を緩めた。しばらくぶりに全速力で走ったので息も絶え絶えとなった。。

 私は逃げおおせたが、「まあ君やひろ君は何をされているんだろう。何とかして助け出したい」と思ったが、いい方法が考えつかなかった。

 しばらく田んぼの中を早足で歩いた。ようやく宿舎の家並みが見えてきた。

 「そうだ。たかし君だったら何とかしてくれるかも知れない」と考えたが、親からは、たかし君とは絶対遊ぶなと言明されていた。しかし、私は「今はそれどころではない。このままでは、まあ君やひろ君がとんでもないことになってしまう」と頭の中で考え、たかし君に助けてもらうことにした。そして、一目散にたかし君の家まで駆けだした。

 たかし君の家に着き玄関の扉をたたき「たかし君いるかい」と大声を出した。たかし君はのっそりと玄関口に現れた。「久しぶりだな。どうしたんだい」と聞いてきた。私は、泣きじゃくりながらこれまでの状況を話し「まあ君とひろ君を助けて」と懇願した。

 たかし君は「分かった。案内しろ」と叫び、竹刀を持って飛び出してきた。私は息を切らしながらも走って、たかし君を現場まで案内した。焦る気持ちからか到着するまでに相当の時間がかかったような気がした。

 広場に着いた。

 まあ君とひろ君は泣きながら五人組に囲まれ、上半身裸にさせられ、相撲の相手をさぜられていた。まあ君とひろ君が履いていた靴は五人組の二人が履いていた。

 たかし君は「お前ら、何をやっているんだ」と竹刀を振りかざして叫んだ。五人組は我々を振り返り、背の高いボスが「何だよ。お前らが勝手に我々の基地に入って来たんではないか。反省させているんだ」と答えた。

 私は「何でまあ君やひろ君の靴をあんたらが履いているんだよ」と指摘した。ボスが「我々が靴を取っ換えようと言ったら、頷いたので取っ換えただけだよ」と反論した。

 「お前ら、五人で二人を取り囲んでいたぶったり、靴を取り上げることは犯罪だよ。親に言い告げるぞ」とたかし君は五人に向かって語気を荒げた。

 五人組は、たかし君の「親に言い告げるぞ」という言葉にビビッたようで、まあ君とひろ君を解放し、靴も二人に戻した。

 +ボスは「今回は許してやろう。今度また来たら容赦しないからな」と捨てこ台詞を吐き、四人を引き連れて立ち去って行った。


終章

 まあ君、ひろ君、私の三人とたかし君は、何も言わす田んぼの中をゆっくりと歩いていた。


 我々三人は、それぞれに今度の事件を振り返った。

 我々の親はたかし君に反感を抱いていたが、たかし君は我々のことをいつも気にしてくれていて、今回の事件でも我々を助けてくれた。我々三人は、たかし君への感謝の気持ちを胸に深く仕舞い込んだ。


 四人の頭上には青空が高く広がり、刷毛で掃いたような筋雲が描かれていた。宿舎が見える西の方は少し茜色に染まっていた。

(完)


 


 北海道の空の下で育まれた悪ガキ三人組と年長のたかし君との友情は五人組との諍いの事件でより一層深まったのである。

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