置き忘れたもの
辛い時に辛いと言えない人へ。
(割と年嵩行ってる感じ)
「辛い時に、辛いと言えない方が辛いよ」
一体誰の言葉だったのだろう。そんな事を考えながら、車窓からゆらゆらと夜の移ろいを眺めていた。
白、黄色、赤、青。
黒く塗りつぶされた世界の中で、四角い光たちが過ぎ去っていく。
何処か遠くへ行かれるのが一番良いのだけどね、と、帰りがけに寄ったバーのマスターが微苦笑を浮かべる。
でもこの世の中でそんな自由を得られる人間なんてきっと、一握りに違いない。
俺はそうですね、と返してグラスの中の残り少ない琥珀色の酒に目を落とした。
世の不条理なんて今までいくつも体験してきたし、ある程度人間というものが形成されれば、社会の歯車として生きていくのは当然のことであって、例えば上司からキツいのを貰ったりだとか、部下からやいのやいのと言われたところでなんとも思わなくなる。
そんな事をただつらつらと宙に浮かせるように話していたら、マスターが言った。
「泣きたい時は、泣いて良いんだよ」
自分に偽りのない人生を送ってきたつもりだった。でもそれは、いつの間にか自分の枷になっていたのかもしれない。
ホームに降りると、電車はため息のような開閉音を吐き出し、やれやれと重たい体を引きずって、いったい何にくたびれたのかすらわからない俺のような人々を運んでいく。
あと数時間したらまた、あの銀色の車体は軍隊蟻のような俺達を鮨詰めにして目的地へと連れて行く。
平日のアルコールは気休め程度にしか入れられないし、深酒をしたところでいい思い出はないから、酒へと逃げるのは間違っているのだろう。いっときの安らぎの為に酒を煽るなんてのは、本当に馬鹿げている。
そこまで考えて、自身も酒に逃げているなと自嘲気味に口元を歪めながら、乱暴に二度、三度と首元をかいた。
ふと顔を上げると、駅近くのコンビニエンスストアの内部を、LEDの冷たい灯りが煌々と照らしていた。
立ち読みをしている人の横をすり抜けて、飲料コーナーへと進む。
今日は自炊する気にもなれず、ビールを一本手に取った所で、やめた。
ぐるりと回って冷蔵コーナーへと行くと、電子レンジ用のたこ焼きが一パックだけ、ポツンと残っていた。
「あたためますか」
「お願いします」
無表情な店員が俺に言葉を発するのは、「あたためますか」と「何番ですか」。
記号化された言葉の羅列になんの興味も湧いていないんだろうな、と我ながら感情が希薄になっていくのを感じる。
人は。何かを得る為に、何かを失っていくのだろうか。
決して現状から逃げたいわけじゃないけれど、たまにわからなくなる。
マンションについてから、ラップの内側にたくさんの汗をかいたたこ焼きを袋から出してから、長い長いため息をひとつ、吐き出した。
芯だけ熱くなったたこ焼きを割り箸でつついて、ぼんやりとした頭の隅で考える。
この経験も、思いも、気持ちも。
きっと、孤独というものに縛られているのだろうし。
それに関しては、自分は強くなりすぎてしまって何もかもわからない。
マスターの言葉が過ぎる。
「泣きたい時は、泣いて良いんだよ」
ただ現状を悲観して泣くことではなくて、明日の自分のために泣くことは、許されるのだろうか?
──でも、俺は。
もう、涙すら出ないんだ。