2日目 うっかりと日差しと宿屋と(法子)
昨夜の9時に床について瞬きをしたら朝だった。
上の文は起こった出来事を客観的に表現したものだが、体感としてはベッドの中で瞬きをしたら薄暗かった部屋の明かりが隅々まで明るさを増しているのだから全く不可解で何がどうなっているのか分からず、スマホの時計で今が翌朝だという信じがたい事実を示されテレビをつけてそれが事実なのだと話からされたのだった。
私の眠りはいつも浅く目覚めてもダルさがついて回っていたのに、体は疲れが無い以上のこれから起こるハードな動きに準備万端なのが自分でもわかる。
この驚きの現象をかっちゃんに話したいけど、お寺が納経を受け付け始める7時までには宿を出るつもりだから、話すのは歩いてる時にしよう。
今は6時半の朝食までに洗濯物を取り込んで荷物をまとめたりと私もかっちゃんもかなり忙しい。
「のりちゃん、足の具合はどうなの?」
私が足の指にできた豆の状態を見ていると、かっちゃんが心配して聞いてきた。
豆自体は昨日のうちに縫い針で木綿の糸を通してから絆創膏を貼ったおかげか、だいぶ体液は抜けているけれど新たな染み出しは止まっていないようで、これから増えるだろう豆の分も考えると流石にうんざりする。
私の足の豆の出来やすさや筋肉のつりやすさは昔からで、私とアウトドア派のかっちゃんとの仲の良さにも関わらず私がインドア派になった原因でもあるのだった。
「液が抜けて固くなってくれるまでは辛抱だね。ああ、これは織り込み済みなんだからそんな顔をしないの」
かっちゃんは私よりも痛がっている表情で私の足を見ていた。
宿の朝食は驚くほど上品だった。
お盆の中央の横長の白いお皿にお漬物が3品色鮮やかに盛り付けられ、それが焼き魚お吸い物納豆の普通の朝食をクラスアップしている。
「正直500円の内容じゃないよ、これ」
「でも地方の物価は安いって聞くし、四国じゃ当たり前なのかもよ。ほら、お櫃のごはんもいっぱいあって全部私たちが食べちゃっていいんだよ、食べきれないけど」
民宿に泊まるのは初めてで、今まで泊まったことのあるホテルや旅館との違いが興味深いものだ。
昨日のお風呂は自分の家のものよりも新しい共用設備に交代で入り、その間脱衣室にある洗濯機で今日着た服を洗濯し、洗濯終了の合図で風呂から上がって部屋に洗濯物を干した。
この旅で用意した着替えは半分で足りてたかな、と思いながらお客でありながら働く不思議な宿だなと思った。
玄関で靴紐を結んでいるとお見送りしてくれる女将さんが、
「靴紐はちょうちょ結びした後、もう一回縛ると紐が解けなくなるそうよ。外国の方のお遍路さんが教えてくれんですよ」
昨日も私たちの前にいたお遍路さんは外人だったし、この宿にも泊っていたみたいだし外人のお遍路さんって多いんだなあ。
私はかっちゃんとそんな話をしながら宿から目と鼻の先にある5番目のお寺・地蔵寺に入っていった。
ただ残念なことに敷地内の地面は凸凹した石畳が道を作っていて、足に豆ができている私には歩くのが厳しかった。
6番目のお寺に向かう途中、昨日拾ったお遍路ルートが描かれたホテルのパンフレットを見ながらかっちゃんが、
「のりちゃん、途中郵便局に寄ってお金下ろしたいけどいいかな?」
と聞いてきた。
昨日のリュックは予想外の出費だから、かっちゃんのお財布の余裕がなくなっちゃったみたい。
「もちろんいいよ、私たちはいつでも貸し合えるけどそんな事態にならずに済むならその方がいいもんね」
お金が人間関係を簡単に壊すのは知ってるんだから、壊される隙は作らないに限るのだ。
こうして遍路道から外れたことが、迷子というこれから何度も経験する事になるトラブルの初回の原因となってしまったのだ。
……こうして書き出してみると自分が莫迦だとわかるな、迷子なんて状況は当然遍路道から外れているに決まってるよ。
おかしい……。
既に遍路道に復帰しているはずなのにお遍路シールを見ない。
今まで100メートルおきには電柱やガードレールに貼られた赤い奴らを見かけない。
それどころか大きな交差点では看板が立っていたのに、目の前のまっすぐ伸びる道にそのようなものが存在する気配も無い。
「取り敢えず角にお寺があったところまで戻ってみようよ、あそこまでは6番寺の表示があったんだからさ。戻っても分からなかったらスマホ菩薩に助けてもらおう」
「そうだね。ありがとうかっちゃん」
「じゃあ戻る間のりちゃんがどうしてスマホに頼りたくないのか教えてくれる?」
「別に大した理由じゃないよ、スマホの便利さに染められてお遍路中スマホとにらめっこするのは嫌なだけよ」
私の答えにかっちゃんは大きく頷いてくれた。
私たちが今いる場所は日本の田舎ならよくある光景なのだろうと思う。
2階建ての民家が道沿いに点在し、それを田畑が取り囲み、そんな人の住む平地を山々が取り囲む風景。
そんな風景がもたらす開放感に私は心の整理がつかずにいる。
彼方の山まで視線を遮るものがない。
その場で360度回ってみてもそれは変わらない。
そして上を見上げると空がある。
人工物が邪魔することのない全くの空なのだ。
私はこの感覚をどう受け止めればいいのか分からずにいた。
6番目の安楽寺でお参りをした後、納経所でそれは発覚した。
「5番さん、お参りしてないんですか?」
「「えっ!?」」
「ほら、御朱印もろてませんよ」
「完全に忘れてた……」「やっちゃった……」
どうしよう……、どうしちゃったんだろう……。
かっちゃんと二人の時は私が頭脳担当なのにさっきからひどいな、私。
「私は戻りたくないなあ」
「かっちゃん!?」
「さっき道を戻ったばかりなのに、往復10キロなんて私はやり直したくないよ」
「私も賛成、あの道を戻ってる時の徒労感をもう一度食らわされるのは勘弁してほしい。でもやっぱり勿体無いし縛りがない状態で歩き回るのは良くないから、リベンジする方法をじっくり考えようね」
私の言葉を聞いたかっちゃんは少し驚いた表情を見せた瞬間、花がほころぶような笑顔になって頷いてくれた。
「うん! 一緒に考えようね」
交差点では常にお遍路シールを探すようにしたらかなりの確率で貼られていて、さらに四国の道という看板が前後にあるお寺の名称とともに矢印を描いている事に気付いた。
すると自分たちが何処にいるのかと言う不安が減り、足取りは軽くなり、手持ちのペットボトルの消費が進む進む。
「この暑さはヤバすぎる……」
「ペットボトル3キロ持たないね」
かっちゃんが言ってるのは、500ミリリットルのペットボトルが距離3キロメートルを歩く間に飲みきってしまうと言う事だ。
この夏の日差しの中歩くだけで体温上昇が起こり、発汗からの水分補給が必要なのだった。
「昨日おばちゃんが塩飴くれるはずだわ、汗がガンガン出て行く」
「のりちゃん、手首から先を見て。長袖の白衣だから油断してたけど日焼けで真っ赤っか」
白衣には長袖と袖なしが売ってて、私とかっちゃんが買ったのは長袖なのはナイス!
砂漠で肌を出さない服装の必然性が学べたよ。
でも袖で隠れた肌の色とは異なる赤い肌の痛々しさよ。
いや、袖で覆われてる腕も色変わってきてない!?
「顔も油断できないよ、菅笠で直接日が当たることはないけどアスファルトの反射が襲ってるはずだから」
「顔は日焼け止めに頑張ってもらうしかないね。でも手の方はそれだけじゃ弱いかもしれない」
「お遍路さんの写真で手の甲を白い布で覆ってた写真を見たことがある気がする。あれ見つけたら買おう」
「……私も見た記憶があるけど、そもそも手袋じゃダメかな?」
「最初に見つけた方を買おう」
「買うといえば目の前のお餅はどうしよう」
私とかっちゃんは今9番法輪寺前のお店に並んだお餅を睨んでいるのだった。
前に寄ったお寺の前にうどん屋があったけど、うどんは昨日食べたのでスルーしてたのだ。
「もっと喉を通りやすそうなのが食べたい。ってかコンビニが全然ないよ」
お遍路道が交通量の少なくコンビニが立つような場所ではないのか、そもそもこの辺りがコンビニが立つ場所ではないのかはわからないけれど、ここまでの道にお店が存在する雰囲気がなかったのだ。
コンビニを含む食料品を売っているお店が無いので、私たちは昼食が取れておらずスタミナ的に無理がきかない現状だ。
やむを得ない、私たちは草餅のパックを1つ買って2人で分けて麦茶で胃に流し込む事にした。
昨日の日差しが強くなる時間はリュックを買い戻しに徳島駅に行っていたので、私たちは今日初めてこの日差しの恐ろしさを知り、コンビニが無く飲食物を気軽に買い求めることができない事前準備不足の恐ろしさを学ぶのだった。
現在午後3時、10番に向かっているが地図によると10番から11番までの距離は10キロ弱だから、5時までに11番に着くことは不可能だ。
だから私たちはその間で今日の宿を見つけるのがベストになる。
今の私たちの当てはどこかのお寺で自由にお取りくださいと置いてあったお遍路地図で紹介されたビジネスホテルだけど、宿泊料が昨日の宿や道なりでポツポツ見る宿の看板に書かれた料金より明らかに高いので、ここは最後の選択肢にしたい。
だけど看板を出している宿の場所が看板のある場所から遠くて困惑する。
徒歩だと1日でたどり着ける距離では明らかにないのだ。
車やバイクでお遍路をする人向けの看板なのだろうか。
それとも今私がしているようにスマホで撮影して近くに来たら電話しろということなのかしら。
道が軽い上りになっていることを感じながら私たちは10番を目指す。
遍路道の上り勾配が徐々に急になり幅員が更に狭くなった。
道の両側に建物が増え、その雰囲気は古いが豊かさを感じさせるもので昔は門前町として賑わったんだろうなと感じるのだが……。
「宿やってないみたいだね」
「うん」
先行するかっちゃんが言っているのは左手に見える宿の看板を掲げた建物だ。
玄関に本日休業の札がかかっているけれど、休みが今日だけに見えない雰囲気がある。
街並み全体に右肩下がりの雰囲気が……。
「よかったらお参りする間リュック預かるよ」
右手のお店からお兄さんが出てきて掛け軸のパンフレットを渡しながら魅力的な提案をしてきた。
お寺までの道はその勾配をさらに急に傾けていたのだ。
私とかっちゃんは顔を見合わせ、
「どうする?」
「どうしよう?」
「私の頭陀袋は納経書とかリュックに入れて飲み物メインにしちゃってるのよ。人前で荷物の入れ替えはしたくないな」
下着とかポロリしちゃったら嫌だもんね。
「私はカメラとか出さないと駄目だな。……うん、私もリュック背負っていく」
かっちゃんの答えを聞いた私はお店のお兄さんに断りの返事をした。
「ってことなので御免なさい。でも声をかけてくれてありがとう」
高速道路の高架橋の下を抜け、山門を抜けると
「さんびゃくさんじゅうさんだん……」
お寺まで階段が333段あるとの看板が私たちを歓迎した。
「のりちゃん、足は大丈夫?」
絶句する私にかっちゃんの心配する声がかけられた。
「休憩を入れながらゆっくりと上がろうね」
私とかっちゃんの気のおけない仲はこの程度の困難では揺らいだりしない。
私は素直に見通しを伝えた。
「いいよ、手すりがないから気をつけてね」
そうなんだよね、階段が不揃いの石で組んでいるから朝よりも悪化した足の豆が辛いのが簡単に想像できる。
まあ、かっちゃんもいるし一段一段丁寧に上がっていこう。
100段ほど上がると階段の傾斜は急になったけど手すりも設けられていてコケる心配がなくなって助かった。
上りきった私は先行したかっちゃんが指し示す方を見て直ぐにそちらに向かい自販機で飲み物を買い、それをニコニコと微笑みながら付いてきたかっちゃんも休憩に付き合ってくれた。
全身が熱い、体の内から熱くなっているのがわかる。
隣のかっちゃんは私みたいに水を欲していないみたい、呼吸も荒くないし体も熱くなっていないみたいで凄い。
私も足が弱くなければかっちゃんと一緒に体を鍛えれたのかな、そんな風にネガティヴなことを考え出した自分に気づいて私は視線を周囲に向けた。
このお寺には山門の横とここ本堂の横に駐車場があるみたいだけど、歩きとは見えない結構な人数のお遍路さんが階段を大変そうなのに嬉しそうに登ってきていて、この333段の石段がこのお寺の売りなのかしらと思った。
ここまで訪ねてきたお寺も立派で素晴らしいのだろうけど、皆同じように素晴らしいのだと記憶に残りにくいのかもしれない。
私が昨日今日参拝したお寺を思い出しても印象深いお寺はここ切幡寺と、ゆとりを持って参拝しなさいと怒r……注意して下さった大日寺なのよね。
車で回るのって楽しいのかしら、それとも信仰心が原動力? と彼らを見て思っていたけど、やっぱり彼ら自身も退屈を感じていたのかしら。
呼吸が落ち着き身体中の熱が抜けた私はかっちゃんに声をかけて礼拝をして階段を降りた。
「ねえのりちゃん、この看板に気づいてた?」
「気づきはしたけど後で考えようってスルーしたわ」
行きの時は身体中が熱を持っている事に気がむいていて、考えるのを後回しにしたのだ。
それで件の看板が何かと言うと宿の看板なのだった。
ここから遠い宿の看板は写真に撮っておくとして、この付近の宿は2件。
「遍路道のパンフレット配ってるホテルのと、それよりお安い宿の2件だね」
かっちゃんがスマホでこれまで撮った宿の看板の写真を確認しながら教えてくれた。
「もちろん安い方でしょう、予約お願いね」
「えっ、うんまかせて」
いつもなら交渉事は私が受け持つせいか自分が電話するのは考えていなかったみたいで、かっちゃんは少し顔をこわばらせて看板に書かれた番号にかけ始めたのだが、
「……出ないよ、のりちゃん」
拍子抜けした表情でのかっちゃんの報告に私は思わず渋い顔をしてしまった。
「ここも廃業かしら、少し時間をおいて掛け直してみましょう。それでも出なければこっちのホテルにしましょうか」
「おっけ、ここまでパンフレットの地図にお世話になったし、同じようにホテルも料金分サービスいいかもよ」
再度の電話にもお安い宿が出ることはなく、結果私たちはお高い方のホテルにお世話になることにした。
お寺からしばらく歩くと見えてきたホテルは、パンフレット通りにレストランに併設されていた2階建ての建物だった。
宿は素泊まりだけどレストランがお隣なら文句はない、夕食が楽しみだ。
チェックインをして部屋に案内された私たちはホッと一息つくはずなのに、かっちゃんがやってくれたのだった。
「のりちゃんは先にお風呂入っちゃって。その間私はコンビニに行って明日の朝食を仕入れてくるから」
そう言ってかっちゃんはキーカードを持って部屋を出て行った。
かっちゃんは私の足を心配して一人で買い出しに行ってくれたのだろう。
もちろん買ってきてくれるお弁当にケチをつけるつもりはないし、そもそもかっちゃんも私の好みは知っている。
幸い冷房が切れることはなかったので私はそそっかしいかっちゃんに感謝をして、所定の位置からカードキーが抜かれて灯りの消えたホテルの部屋の風呂に入るのだった。