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楔荘シリーズ

「IF」1~アキラおじさんがあぐりちゃんを引き取ってたら~

作者: 作者 字

 彼女が死んだ。東京の大学に通うために上京する少し前だった。地元の新聞の端っ子の方に、小さく彼女の正面の写真が載っていた。いつものように少し焦点をずらし、前髪で隠れた顔。けどなぜか、白黒のそれが鮮明に見えた。死因は家族による無理心中とされていた。

 けど僕は別段、悲しんだり憐れんだりなんて微塵も思わなかった。だって、あの時見たから。彼女の家に転がっている死体と、傷一つない彼女の姿を。

 それから少しして、大学生活になじみ始めた頃だった。食堂で昼食をとっていると、置かれているテレビから聞き慣れない単語が聞こえてきた。「アークィヴンシャラ国」、新しい国。第二の地球と呼ばれる惑星であるその国に移り住む「矛盾」たち。長いテーブルに身を正して座る老若男女の中に、一つの花があった。あぁ、そう言う事か。ならつじつまが合う。画面に映る彼女は、今までよりも少し柔らかく見えて、小さくうつむいて怯えているようなところは一切なく、むしろ、どこか飄々としても見えた。もうこれで彼女は苦しまないんだな。良かった。国民は20名ほどで、半分は女性。彼女より年上の若い女性から、子供も老人もいる。彼女は楽園に行けたんだ。生きて天国へ行けた。他人の事だというのに、自分の事のように酷く安堵が心に降りてきた。だがそれと同時に、これで見納めと言う虚しさが心に小さく穴を開けた。

 いや、忘れるんだ。彼女が変わったように、僕も変わらなければいけない。

 それから、特に今までと変わらないような、いや今までに比べたら静かで、大人しい時間が流れていった。よくいる少し真面目な大学生のように生活し、高校の友人と少し飲みに出かけたりするくらいで、今までに、彼女と出会ってからに比べて随分色のない時間だった。

 大学を卒業し、父に勧められた会社に就職した。世の中は親に敷かれたレールを外れ、自由に生きる事をモットーのようにしているが、実際僕なんかにやりたい事など無く、何も迷ったり苦しんだりせずに生きて行けるのは非常に楽だ。生に苦しみを見出してしまった僕にとっては、これが一番苦しまずに死を待つ方法でもある。

 人使いも悪く自己中心的な上司に頭を下げてばかりの日々。さて、今日はどんな言いがかりをつけられるのか……そう思い、重い体を起こして、スーツに着替える。3時間睡眠の身体には痛い日光が窓から差し込む。目の奥がジンと痛む。目頭を押さえて、壁を伝いながら玄関に立って靴を履き、外に出る。が、目の前に見知らぬ顔が立っていた。それはしばらく口を開けて僕を見ていたが、急いで数歩下がると、

「大事なお話がございまして、少しお時間よろしいですか?」

 よろしくない。決してよろしくない。何、宗教の勧誘か? すると、アパートの通路の奥から子供が走ってきた。

「まどか、まだー?」

 子供は僕の目の前に立っている人の足に抱き着いた。

「あっ、こら! 車でケンケンと待っててって言ったでしょ……!」

「ケンケンつまんない! あくびばっかする」

 だが、何故だろう。その子供に見覚えがあった。今を逃したら、僕は本当に生き地獄に落ちてしまう気がした。もはや無意識だった。何を言ったか覚えていないが、気づけば上司の罵声がスマホから飛び出していた。あぁ、うるせぇハゲだな。黙れ! と言うように電話を切った。急いで子供と女性を中に入れた。そこでやっと我に返った。待て、小汚い男の部屋に女生と子供!? それも、女性の年は30前後……。いそいで床に置いてあるものを拾い上げて押入れに押し込んだ。

 いやいやいや、何を考えているんだ僕は!と、とにかく話を聞こう……。リュックを背負ったまま正座して女性の顔を見る。

「宮崎アキラさんで間違いありませんね?」

「ハイ」

「小鳥遊真尋さんは御存じですか?」

「ハイ」

 水分懐かしい名前だった。しばらく忘れていた、けど毎日覚えていた花の名前だ。

「申し遅れました。私、御代財閥の職員を務めます、田中円香と申します」

 田中さんは名刺を渡して来た。丁寧にそれを取り上げると、柔らかい香水の匂いが漂った。事務のあの娘と同じ匂いだ……。いや、そうじゃなくて。何故今頃彼女の名前が?

「時間が無いので単刀直入に申し上げます。この子の養父になってください」

「へ?」

 余りの事に情けない声が出た。ヨウフ?

「いや、あの、僕、まだ未婚ですけど……」

「それも踏まえて、真尋様よりお手紙が渡されています」

 田中さんが取り出し、渡そうとした手紙を奪い取る。震える手で紙をぐちゃぐちゃにしながら封筒を開いて手紙を取り出し、文字を必死に目で見る。

『私の宝物を君に預けます。責任取って、大事に育ててください』

 それだけだった。それ以上は何もなく、封筒にもなにも無かった。悪戯じゃないよな……。

「証拠が一切ないと言いたそうな顔ですね。5年前に彼女から直接、あなたに娘を渡すよう言われており、先月この手紙が届きました」

「あの、あ、預かるって……」

「父親としてこの子を育ててください」

「まっあ、ぼ、僕に子育て経験はありませんし、そこまで収入も良くありませんし……!」

「つべこべ言わず引き受ける!」

 田中さんが突然怒鳴り出した。

「ハイィ!」

 思わず返事をしてしまった。田中さんは立ち上がり、

「知ってるからな……お前の中身。真尋ちゃんの事好きなんだろ? なぁ? だったらここは大人しく引き受けるのが男だろ……」

「断るのが男では……?」

「いいからサイン書いてください!!」

 机に契約書が叩きつけられる。確かにここで拒否したらもう二度と救いの手は無いだろう。だが彼女の命ほど大事な宝物を僕が預かって育てるなど、責任が大きすぎるし、もし殺してしまうようなことが起きたら……。

「時間までに書かないと、この子はこのまま施設行きです。最悪の場合矛盾の子孫としてどこかに拉致監禁されるなんてことも起こりうるでしょう」

 ラチ、カンキン。

 その言葉に、もう無意識にサインしていた。全ての同意のチェック欄にチェックがされている。

「では、よろしくお願いしますね!」

 田中さんは笑顔でそう言うと、子供に手を振って部屋を出た。8畳一間の古いアパートの部屋に、子供と、そのいくつかの荷物と、人生に疲れた社畜が佇んでいた。

 すると、子供は僕のジャケットの裾を引っ張り、

「といれ」

 そう言ってこちらを見上げた。え、トイレ? 子供の背中を押しながらトイレに案内した。

 とりあえず、この子が本当に彼女の子供なのかが知りたい。荷物を漁ると、いくつかの書類が出てきた。民間人が普段目にするようなものでも、人生のうちに手にするようなものではない書類が一枚あった。アルファベットだらけだ……。いくつものサインと見た事無い紋章がいくつかあった。その中に、数個日本語で「斑真尋」「五月雨禊」「斑あぐり」と書かれていた。あぐり……僕が提案した名前だ。そうか、僕はこの子の名付け親なのか……。

 あぐりちゃんは机に顔を乗せると、口をとがらせて部屋を見回す。そして何やらブツブツ喃語を唱えると、僕と目が合い、

「おじさんだれ?」

 おじ……まぁ、髭のせいだろう。

「お兄さんは、えっと……君の保護者だよ」

「ほぎょ?」

「お父さんとか、お母さんとか……でも血は繋がってないし、実質、お父さんと呼べるかどうか」

「おとしゃん!」

 あぐりちゃんは目を輝かせると、僕の元へ駆け寄り、正座する膝の上に座って来た。慣れない子供相手に、下手に動いてケガさせてしまってはいけないと思い、なかなか触れられなかった。

「おとしゃん、おしごと?」

 あぁ、スーツのままだったな。せめて部屋着に着替えよう。あぐりちゃんに降りてもらい、リュックを降ろして押入れを開ける。待て、ちょっと待て自分。

「……あぐりちゃん、僕がいいよって言うまで後ろ向いててくれる?」

「うん」

 あぐりちゃんは指をしゃぶりながら大人しく後ろを向いてじっと立っていた。その間に急いで着替える。

「いいよ~」

 あぐりちゃんはこちらを見ると、駆け寄って来て足に抱き着いて来た。

「だっこ!」

 服を引っ張ってせがんでくる。

 どう抱き上げればいいかわからなかったが、とりあえず腕のしたから胴に手を回して抱えた。あぐりちゃんは嬉しそうに首に抱き着いた。だが、パッと顔を上げると、無垢な表情で、

「くしゃい」

 そうだった……。ま、まぁ、仕方ないよ。子供がやって来る事なんて想定できるわけがない……。机の上の煙草の箱に冷たい視線を向ける。いや、お前は悪くない……。

 タバコのパッケージを拾い上げ、ゴミ箱に向かう。今しばらくの辛抱だ。グッと目を瞑ってゴミ箱に落とした。


 さて、子供と言うのは本当に謎めいた生物だ。あれは人間なんて生易しいものじゃない、生物だ。

「や~だ~!」

「あぐりちゃん、食べないと大きくならないよ」

「やだ~!!」

 リクエスト通りに食事を作っても嫌がられ、服を着てと泣いて頼んでも着てくれない。昼寝から起きれば、趣味で作ってるドライフラワーの花弁を一枚一枚綺麗にちぎられ、部屋中に並べられていた。

「託児所使えば?」

 田中さんの元へ相談しに訪ねると、僕を見るなり最初にそう言った。

「え……たく、じ、じょ」

「保育園と似たようなもの。でも君の場合は使えないだろうから、託児所がいいと思うよ。御代家が管理してる孤児院と一体の託児所があるから、紹介するね」

「あ、ありがとうございます……」

 深々と頭を下げると、田中さんは眉をひそめて顔を覗き込んできた。

「あ、あの、何か……」

「だぼったいなぁ……」

 服の事を言ってるのかと思い、着ている紺色のミリタリーウェアを見つめる。田中さんはパソコンに顔を向けたまま、

「背筋、伸ばしな。そのままだとあぐりちゃんが悪く言われるよ。その子を悪く言われたくないなら、まずあんたはんが変わらんと」

「すみません……」

 その晩、薄暗い部屋の中、テレビの音をかなり小さくして意味も無くドラマを垂れ流し、缶ビールをズルダラとすすっていた。もう結構炭酸が抜けているし、ぬるい。

「おとしゃん……」

 その声に急いでリモコンを取る。するとあぐりちゃんはリモコンを奪い取り、布団の方に放り投げると、僕の胡坐をかく股の上に頭を置いた。

「あぐりちゃん、ここはお布団じゃないよ」

「おとしゃんがいい……」

 そう言って、僕の左手を握って寝息を立て始めた。そうか、やっぱりまだ親が恋しい子供だ。本当の父親ではなくとも、父親と言う存在が唯一なんだ。

 けど、ふと気づいた。気づいてしまった。忘れていればいいのに、なんでこう思い出してしまうのか。そしてまた、思い出すとともに、心の小さな隙間から、ドロドロと白濁した醜い欲望が流れてくる。

 彼女に似ている。

 ダメだ、落ち着け……何を考えてるんだ。いや、確かにこの子は彼女の子だ。だが彼女じゃない。髪色はずいぶん違うし、性格も真反対の明るい元気な子だ。この前も男の子を泣かしてた。

 けど……どうしてか、その健康そうな肌に、艶めかしい傷がうっすらと見える。あの花が微かに見える。そう見てはいけない。見ちゃいけない。見ちゃダメだ。

 ふと、腹に鈍痛が乗っかった。驚いて飛び起きると、眩しい朝日が顔を叩いた。起き上がろうにも、重い何かが身体を押さえつけている。顔を上げて腹部を見ると、あぐりちゃんが笑顔で僕の上に乗っかっていた。そして大きく息を吸い込むと、

「おはよお!!!!」

 大声で、しかも耳元で叫ばれた。子供の甲高い声は脳を思いっきりぶん殴って来た。

「お、おはよ……」

「おとしゃん、にっちょび! にっちょびだよ!」

「あぁ、日曜日か……」

 あぐりちゃんは鼻息を荒くさせて体を揺する。

「ねー、お出かけしないの?」

「う~ん……」

 どうしような……そろそろ休まないと、仕事への支障が大きくなって……、

「お出かけするの! ねぇ! おとしゃん!」

 小さいこぶしがポコポコと体を打つ。

「わ~わかったわかった、お出かけしようね!」

「やったー!」

 小さい手を握ってショッピングセンターに出かけた。あちこちにランドセルの広告が貼られていて、買え買えと脅迫されているような気分だった。

「あぐりはまだ?」

「えぇ? まぁ、そろそろ買わないと……」

「あーちゃんはばぁばに買ってもらったって」

「まぁ、みんなそうだろうな」

 近くのランドセルを並べた商品棚に近寄る。ざっと値札を見たが、どれも顔の青くなる値段ばかりだった。

「あぐり、この色がいい!」

 よりにもよって一番高いのを持ってきやがった。

「無理だよ……そんなにお金持ってないよ」

「これがいい!」

「ダメ、せめてこっちの……」

「可愛くない!」

 すると、あぐりちゃんは持ってきたランドセルを背負って逃走した。

「なに!?」

 急いで追いかける。

「こら、売り物盛ってっちゃダメだろ!」

「やだー! これがいい!」

「あぐり!」

「だれかー! たすけてー!」

「そんなこと言うな!」

 そうこうしているうちに、通りがかる人々が足を止めてこちらを見る。

「あの、どうかされましたか」

 警備員が近寄って来る。違う、僕は保護者で……。

「あぐりこれがいいの!」

 あぐりちゃんは涙目でそう言い、床に座り込んだ。周りの人々の声が耳に入って来る。どうしよう。どうすればいい。逃げたら万引きだし、不審者扱いだ。いや、僕は保護者だ。この子の父親だ。不審者なんかじゃ――。

「ごめんなさい、うちの娘が」

 その声と共に、肩に手が置かれた。顔を上げると、眩しいほどの美女が立っていた。

「あぐりちゃん、今は買えないの。でも、必ず買ってあげるから、今は我慢してくれる? お願い」

 女性は甘えるような声でそう言って、ハンカチであぐりの涙を拭ってやった。あぐりは小さく頷いて、ランドセルを降ろした。呆気に取られて声が出ずにいると、

「御代家だ。さ、こっちに」

 手を掴まれ、流れるようにその場を去っていく。訳が分からずそのまま連れていかれる。

 やっと我に返った時には、見知らぬ喫茶店に入ってた。

「すまないな、急に連れてきてしまって。私の事はマーリンと呼んでくれ。御代家とは財閥同士で縁があるんだ。何、そう忌まわしい仲じゃないよ。互いに恩があるのさ」

 目の前の美女はそう言ってカップに口をつけるが、今一何を言ってるか理解できなかった。

「ねぇおばさん、ケーキたのんでいい?」

「いいけど、二度とおばさんだなんて言うんじゃないよ。次言ったらお前を買い取ってメイドにしてやるからね」

「めいどってなに?」

「死ぬまで働くんだよ」

「やだー、おとしゃんみたいに?」

「まぁ、そうだね」

 おい、ちょっと待て。


「み、や、ざ、き、さん♡」

 コロコロした声が上から転がって来た。疲れ切った目を向けると、コロコロと笑い、

「またそんな顔して。はい、お茶です」

「……あの、コーヒーって言ったんですが……」

「あれ、そうでした?」

 またコロコロと嬉しそうな声がデスクに転がって来る。

「そうだ、娘さんがいたんですってね! 名前聞いてもいいですか?」

「……あぐり」

「あぐりちゃんって言うんですね! うちのおばあちゃんの友達と同じ名前で、ずいぶん……レトロでいいですね!」

「どうも……」

 甘ったるい香水の匂いが漂って来る。あー、だから嫌いなんだよ。早く寿退社してくれないかな……。こういうタイプの女は苦手だ。何かにつけて見下したような言い方しかしない。

「みすずちゃんっ」

 また別の声が降ってきた。同じコロコロした声だけど、こっちは鬱陶しくない、若竹みたいな声。

「なんですか……八尋さん」

 女は急に低い声でそう言った。うわ、怖い。

「そんな顔しないでよ~、折角可愛いのに」

「八尋さんに褒められてもうれしくありません、さっさと持ち場に戻ってください」

「そうだ、ついでにこの書類を福田さんの所に持って行ってくれないか。女性の方の福田さんね」

「えー、あの人しつこいから嫌です~。絶対レズですよ」

「こら、そう言う事言っちゃダメだぞ」

 女は大きくため息をつくと、八尋から封筒を奪い取って大きな足音を立てて去って行った。

「……ありがとう、八尋さん」

「呼び捨てで構わないっていつも言ってるだろ」

「いや……あくまでそちらは上司ですし……」

「年はそう変わらないんだから、な?」

 八尋はにっこり笑うと、僕の頭をそっと撫でた。名前といい、童顔の顔といい、彼女に似ていて気に入っていた。

「そーいえば、子供を引き取ったんだっけ?」

「あぁ、そうです。来年から小学校に入るので……」

「あ、もうそんなに大きかったのか。ランドセル買った?」

「いえ、それが……」

「じゃ、妹のお下がりあげようか?」

「いいんですか?」

「少し前のデザインだけど、刺繍が入ってる可愛いものだよ」

「ありがとうございます……!」

「家に送っておくよ」

 八尋はそう言って手を振って去って行った。小さいその背中にそっと頭を下げた。

 後日、確かに家にランドセルが届いた。

「可愛い!」

 あぐりちゃんのその言葉に酷く安堵のため息が出た。やっと納得してくれた……。


 会社のトイレに行った時だった。

「あら、宮崎さん!」

 掃除の女性が声をかけてきた。

「えっと……」

「あーちゃんの母です」

「あぁ、あぐりちゃんの友達の」

 40代のその女性は笑みを浮かべて頭を下げた。そして僕の肩を軽く叩くと、

「今日は授業参観だってのに、お互い大変ね」

「え、授業参観?」

「プリント渡されなかった? 仕事があるから行けないって言ったら、うちの子、拗ねちゃってね。代わりにケーキでも買って行こうかと思うんだけど、おすすめのお店とかある?」

 ふと、今朝の会話を思い出す。

『授業参観来る!?』

『多分』

『絶対来てよ!』

『うん、行けたら』

 ……忘れてた。

「あの、すみません」

 急いで頭を下げて、デスクに戻る。書類をカバンに詰め込み、ダッシュで八尋の元に向かう。すると八尋は予測していたのか、嬉しそうに肩眉を上げて笑みを向けた。

「いってらっしゃい、お父さん」

「ほんと、すんません……!」

「一分一秒を争うぞ~」

「失礼しますっ」

 死に物狂いで走って向かう。廊下を走り抜け、教室の前まで来る。急いで髪とネクタイを軽く整え、そっとドアを開けて中に入った。その時、拍手が起こって、

「はい、あぐりさん、よくできました~」

 先生が拍手をし、次の子供の名前を呼んだ。間に合わなかったか……。

 あぐりが恐る恐る振り返る。視線がぶつかり、笑顔でそっと手を振り返すと、あぐりは「バーカ」と小さい声で言って前を向いた。

 授業が終わり、休み時間に入る。保護者達はぞろぞろと帰っていく。あぐりちゃんに何か一言言っておこうと探していると、あぐりちゃんの友達を見つけ、声をかけた。

「多分トイレ。でも出てこないよ」

「え、どうして?」

「なんかね、怒ってた」

「そっか……ありがとう」

 その場を離れようとすると、数名の女の子に囲まれ、

「あぐりちゃんのお父さんですか!?」

「え、えぇ、そうですが……」

「すごーい、うちのパパより若い!」

「かっこいー!」

「お仕事は何ですか?」

「さ、サラリーマンです……!」

 カバンを抱きしめ、そっと子供の隙間を通って逃げる。

 そのまま職場に戻り、仕事を黙々と片付けている間に、帰る時刻を回っていた。

「み~や~ざ~きっ」

 若い声がして顔を上げると、帰る支度のできた八尋が笑顔でこっちを見ていた。

「あぁ、もう帰る時間か。すいません、いつも知らせてくれて」

「いやいや、ついでだから気にしないで」

 二人で会社を出る。

「今日の夕飯は何にするつもり? 俺は焼うどん!」

「うちは……」

 冷蔵庫にあったものを思い出す。肉は……無い。野菜は大根が半分、ニンジン一本。米はある。

「冷蔵庫の中、空でしょ」

 八尋はまた自慢げにそういう。頷くと、八尋は手を叩き、僕の手を取ると、

「そこにスーパーがあるから、寄ってこ!」

「お、お手数おかけします……!」

「そんなに恐縮しないで。米も買いたかったところだし」

 二人でスーパーに入る。夕飯時だから、少し人が多かった。

「お、今日はブロッコリーが安いのか!」

 八尋はブロッコリーを袋に詰めていく。

「宮崎! じゃがいもが安いぞ!」

 今度はじゃがいもを袋に詰める。

「豆腐が値引きされてる! 宮崎、買っとけ。育ち盛りの子供に豆腐は大事だぞ」

 と、米を買うつもりが、買い物かご二ついっぱいになるまで買ってしまった八尋。

「あちゃー、またやってしまった」

 そう言い、八尋は舌を出す。何と言うか、僕の認知する限りで非の打ちどころがなく、容姿もそこそこいい八尋が、こんなにも家庭的な奴だったって事を始めて知り、

「……フフッ」

「え、なぁに。宮崎って笑うんだな」

「え?」

 コイツも人間なんだなぁって。

「いや、八尋さんもそういう所あるんだなって思いまして」

「俺は別に、庶民的だよ。兄弟が4人で、その長男で、両親は共働き、三世代で住んでる。そう珍しいものじゃないだろ?」

「まぁ、そうですね」

 八尋は両手に買い物袋を提げて、米の袋を抱える。

「いやー、これ明日は筋肉痛だな」

「持ちますよ」

「いいの?」

 あぐりちゃんに比べたら軽い。

「じゃあさ、お礼にうちでご飯食べないか?」

「いや、ご家族にお邪魔でしょうし……」

「と思うじゃん? 運良く、父は単身赴任で関西だし、母と祖母は旅行、祖父は老人ホーム、弟と妹らは修学旅行なんだ」

「……すごい偶然ですね」

「母と祖母は狙って行ったんだけどね。これでどうだ?」

「わかりました、お言葉に甘えます」

 とりあえずお互い自宅に戻り、

「あぐりちゃん、これからお父さんの上司のお家でご飯食べるけど、行く?」

「いく! あでも、ねぎ出てこない?」

「どうだろう……」

「ねぎ使わないでってお願いする!」

「うん、まぁ、言ってごらん」

 二人で手を繋いで家を出る。電車で数駅行き、メールで言われた場所で待ち合わせる。

 10分くらいはしているが、それらしい姿が見当たらない。間違えたかと思いメールを確認していると、あぐりの目の前に小さなブーケを突きつけられる。何かと思いスマホから視線を外すと、

「こんばんは、お嬢さん」

 八尋がしゃがみ込んでブーケを渡していた。

「お兄さん誰?」

「あぐりちゃん、この人がお父さんの上司だよ。こんばんは、八尋さん」

「こんばんは。さっきぶりだけどね。さ、行こうか」

 夜の田舎町を少し歩き、少し奥まったところに入る。鬱蒼とした先に小さな明かりが見えた。

「ごめんね、不気味な所で」

「い、いえ。自然豊かでいいところだと思いますよ」

「それホントに言ってる? 真っ暗で何も見えないのに」

「あ……」

「ごめん、意地が悪いね」

 灰色の家が見えてくる。八尋に招かれて入ると、オレンジ色の明かりが出迎えた。

「あ、上がって~。洗面所はそこだから、ちゃんと手洗いうがいしてね」

 あぐりちゃんは真っ先に洗面所に立つ。自分も手を洗いうがいを済ませ、台所に向かう。

「あの、何か手伝いますよ」

「じゃ、お米を洗ってくれる?」

 さっき買ってた米は米びつに移されていたようだった。いつも通り米を洗っていく。その隣で八尋さんは野菜を並べ、

「今日は何にしよっかな~」

「ねぎ入れないで!」

 リビングからあぐりの声が飛んできた。

「お、ネギが嫌いなのか~! 俺と一緒だな」

「お兄さんも嫌いなの?」

「昔はね、今は結構好きだよ。あでも、青いところは嫌いかな」

「意外ですね」

「匂いの強い野菜は嫌やざ」

「やざ……?」

「じゃ、回鍋肉にでもしようか。あとね、シュウマイもあるでしょ。海老もあるし……」

 八尋さんは手際よく海老の下処理をして行く。

「上手ですね……」

「コツがあってね。頭から二つ目の節からワタを取って、そこから割って……腹の横からちぎって、そのままクルン、と。尻尾のとがった部分を潰してから引っ張ると上手くいくよ」

「いつもこれが苦手で、結構身が残っちゃうんですよ」

「あー、勿体ない。まぁ、そう言うのは出汁に使えばいいよ」

「そんな方法もあるんですね……」

「今日はこの殻でスープも作るか。宮崎、これ皮剥いといて」

 ニンジンを渡される。ピーラーで出来る限り薄く剥くつもりだが、どうしても分厚く剥けてしまう。

「フフ、宮崎は力任せだなぁ」

「す、すみません……」

「まぁ、そこは仕方ないよ。脇に避けて置いて、ペットの餌になるから」

 すると奥からあぐりちゃんの声が飛んできて、

「ハムスターいたー!」

 いかん、ペットショップでやらかしたみたいに、ゲージ開けてしまう。

「あぐりちゃん、ゲージから出したりしちゃダメだよ!」

「うん! 見るだけ!」

「いい子だね」

「いえ、もうすでにペットショップでやらかしまして……。動物がかわいそうだって言って」

「いい子じゃん!」

 そうやって会話を時折混ぜつつ、2人で料理を進めていく。

 ふと、人の気配が近づいてくる。あぐりちゃんかな。お腹の辺りに抱き着かれるのかと思っていたら、それは意外にも高かった。

「いい匂いする……洗剤いつ変えた?」

 聞き慣れない声だった。男? 振り返ると、知らない顔と目が合った。

「うわー違う!」

「ごめんなさい!」

 男は急いで離れると、履いていたスリッパを手に持って手を上げた。すると八尋が振り返り、

「祐定、落ち着いて!」

 祐定と呼ばれたそれは八尋の顔を見ると、急いで足の間に入り込んだ。

「だっ誰……どちらさまですか」

 恐る恐る尋ねると、

「ごめん、言うの忘れてた。居候の祐定だよ」

「すごい……古風な名前ですね」

「馬鹿にしてんのかアァン!?」

 うわ、ヤンキーだ。

「こら、祐定。ごめんね、人見知りが激しくってさ。悪い子じゃないんだ」

 祐定は八尋の足の間からこちらをうかがうように見てくる。

「祐定、ハムの方に子供がいると思うから、一緒に遊んできてくれないかな」

「ゲームしていい!?」

「うん、いいよ。あ、新しいステージはやらないでね」

「うん!」

 祐定は足の間から飛び出すと、テレビの横に置かれたゲームのリモコンを持って奥に姿を消した。

 居候、だっけか。何らかの事情があるんだろうな。

「宮崎、ヘタとってくれ」

 プチトマトを渡される。

「あの、あぐりちゃん、プチトマトは半分にしないと食べてくれないので……」

「切りたいんだね、どうぞ。俺、こっち炒めてるから」

 八尋はコンロの方に移動する。トマトのヘタを取っていると、

「そういえば、宮崎って彼女いるの?」

 その言葉になぜ動揺したのか自分でもわからないが、指先の力加減を間違えてトマトをつぶしてしまった。

「えっ何!?」

 八尋は笑顔で、だが驚いた顔で覗き込んでくる。

「す、すみません……」

「何が起きたの」

「いや、僕にもさっぱり……」

「……ま、いいよ。あ、ちょっとこっち向いて」

 言われた通り体ごと向けると、八尋は両手で僕の顔を包んだ。そして布巾で顔を少し拭く。あれ、八尋って童顔だったんだ。たれ目だってことも今頃気付いた。

「よし。顔にトマトの汁が飛んでたよ」

「す、すみません……」

 ……や、イケメンってすごいな……。心臓がバクバク言ってる。

「さ、できた。あぐりちゃーん、祐定ー、ご飯だよー」

 八尋がそう呼びかけると、2人が走って来る。

 4人で席について食事にする。あぐりちゃんは美味しい美味しいと喜んで、いつもより多く食べた。祐定には終始目が合う度に睨まれたが、あの丁寧で上品な食べ方は誰だって目を奪われる。

「祐定、食べ方が綺麗でしょ」

 八尋に言われ、心の中を読まれたのかと思った。

「俺もコイツと最初飯食った時は驚いたよ。チンピラっぽいのに、意外と礼儀正しくて教養もあってね。時々、和歌とか教えてもらうんだ」

 そう言う八尋もまた、綺麗な食べ方をしていた。

 食後は二人でチューハイを開けて、あぐりちゃんと祐定がゲームしているのを眺めていた。だがいつの間にか八尋と話し込んでいて、気づけば祐定もあぐりちゃんもゲームリモコンを手に寝息を立てていた。

「ありゃ、寝ちゃったね」

「すいません……」

「いいよ、丁度明日は休みだし。何なら泊まってって構わないよ」

 八尋は笑顔でそう言い、あぐりちゃんに毛布を掛けた。

「ほんと、何から何まで……」

「こういう経験は大事だよ。無駄な経験は無いよ、君らなら」

 君ら? よくわからないけど、この人はいつも不思議な言い回しをする。

「まだ夜は長いさ」

 そう言って、八尋はチューハイの缶を開けて差し出す。

「いただきます」

 缶に口をつけると、さっぱりした檸檬がはじけて鼻の奥に広がる。その様子を八尋は首をかしげて笑顔で見つめていた。あれ、どこかで見た事がある。ふと、手に温かいものが触れる。八尋の手だ。温かいというより、蒸したタオルみたいに熱かった。けどその熱さは妙に心地よくて……。

「あぁ、可愛いねぇ……」

 熱い手が首に触れる。意識がもうろうとする。何か拒まなければならない気がするんだけど、もう、酒も二缶目だし、もういいや。

 ふと、視界の隅にブーケが見えた。八尋が渡してたやつだ。紫と、赤と、青と、黄色の花のドライフラワーで、白いシンプルなラッピングがされている。

 まるで、彼女みたいな。

「そういうとこだよ、君は――」

 懐かしい声が耳元で囁いた。

 チャンネルを変えたように、ぱっと意識が起き上がった。台所の小窓から朝日が差し込んでいた。別段まだ眠かったり、体のどこかが痛かったりは無かった。ただ、妙に体の芯までスッキリ何かが抜けていて、体の奥に何か残っている感じがした。

 まぁ、多分酒のせいだろう。起き上がると、床で寝ていたあぐりちゃんと祐定が見当たらなかった。

「おはよ。寝床に運んどいたよ」

 八尋はそう言いながら、風呂はあっちだからと言った。

 あぐりちゃんと風呂に入って、八尋に見送られて家に戻った。


「ねぇ、これ卒業アルバム!?」

 あぐりちゃんが何かを引っ張り出して来た。

「あぁ、高校の時のだね」

「え、おとうさん何組!?」

「さぁ、何組だろ……」

「あった! おとうさんいたよ!」

 早い。あぐりちゃんの指の下で、18歳の僕が不愛想な顔でこちらを見ていた。

「わー、おとうさん若い! 可愛いね」

「その頃はよくおばあちゃんに可愛がられてたよ」

「おばあちゃんいるの!?」

「いや、もうこの世にはいないよ」

 あぐりちゃんはそんな話はもうどうでもいいようで、鼻が触れるほど顔を近づけてアルバムを見ていた。すると何かに気が付き、

「ねぇ、この子、私にすごい似てるね。あれかな、自分と瓜二つの人が3人はいるってやつ?」

 いや、違う。その子は君の赤の他人なんかじゃない。

「もしかしてアレかな、実はお母さんだったりして」

 いや、ダメだ。気づいちゃダメなんだ。気づいてしまったら、この生活はきっと終わってしまう……。

「今まで特に気にしてなかったんだけどさ、もちろん今も気にしてないけど。私とおとうさん、苗字違うよね。まぁだからって、本当の親は誰なんだって聞きたいわけじゃないよ。私は今のままで十分満足だし、今更本当の親と、どう顔を合わせたらいいかもわかんないし」

 あぐりちゃんは首を傾けてこちらを見る。

「私、おとうさんで良かったよ。なんかへなちょこだけど、私の事すごい大事にしてる」

 だめだ、それ以上何も言うな。それ以上動くな。君は彼女じゃないんだ。彼女と同じ仕草をしないでくれ。

「あ、もしかしてさ……」

 あぐりちゃんはアルバムに視線を落とす。やめろ、だめだ。

「この人、お父さんの初恋の人とか!?」

 ……うん。

「だからさっきから目が泳いでたのか~! へー、こういう地味目な子が好きなんだね。だから私を引き取ったとか?」

 否定できない。

「まぁ、何でもいいけど。あ、血が繋がって無いからって、変な目で見ないでね! 少しでもそういう行動したら通報するから」

「見てないって!」

 だがこれもまた否定できない自分がいた。

「でも、なんかおとうさんの新しい面が知れて、なんか嬉しい。おとうさん、いつもボーっとして多くを語らないからさ。チキンだし」

「ビビりなんじゃない、慎重なんだよ」

「おとうさんの場合はチキンだよ~」

 あぐりちゃんは楽しそうにケタケタ笑いながら、寝そべって膝に頭を乗せた。

「そーだ、おとうさん髭伸ばさないの?」

「何で?」

「昔、伸ばしてたじゃん。無精髭って言うの?」

「いや、あれは忙しくて剃ってる暇が無くて……」

「なぁんだ、そんな理由かよ。折角男前だなぁって思ってたのに」

「今の職場でそれはダメだろうなぁ……」

「えでも、リストラされる可能性あるんでしょ?」

「予測だよ。全然昇進しないから」

「うわ、だっさ」

「ダサいとか言わないで」

「八尋さんは、次は……何だっけ、支社長だっけ?」

「うん」

「すっご! やっば」

「あぐりちゃん、その口調さ……」

「え、なんで。逆に礼儀正しく、~ですわ、とか使わなきゃダメ? キッモ」

「そうじゃないけどさ」

「その時にそういう風にしゃべればいいじゃん。毎日それじゃ疲れるって。それこそ、鬱の原因じゃん!」

 この子のこういう所は見習いたいなぁと、毎度思わされる。

「そうだ、高校決めたよ」

「お、いつの間に」

「さっき決めた」

「やっと決心着いたのか」

「うん、白丸高校にする」

 電卓を目の前に、唸り声をあげる僕を八尋が見下ろしていた。

「……宮崎、隣の久保君がうるさいって言ってたよ」

「黙れ独身が、そんなだから結婚できないんだ……」

 すると久保の席から悔しがる叫びが聞こえた。

「お前にはまだ残ってもらいたいんだから、そう言う事言わないでよ。で、今度は何に悩んでんの?」

「あぐりちゃんが高校に上がるんです……」

「あぁ、もうそんなか。はやいなー、俺ももうおじさんだ」

「はい、コーヒーですよ。どこの高校に行くんですか?」

 美鈴がコーヒーを机に置いて言う。

「あの、砂糖とミルクは?」

「自分で取って来て下さい」

「白丸高校だってよ。確か美鈴ちゃん、あそこだよね」

「やだ~、何で知ってるんですか。きもちわ……」

 美鈴は急いで咳払いをする。

「もしかして、制服代とかで悩んでます?」

「まぁ、そんな所です」

「なら私の差し上げましょうか? ジャージも残ってますから、ついでに名前を変えておきますよっ」

「じゃあ、お願いします」

「宮崎、ですよね。崎は山に大きいで……」

「いえ、斑でお願いします」

「え? 何で?」

「あーっと、じゃあ名前入れは俺がやるよ! 俺、そう言うの得意だから! ねっ」

「何で八尋さんが」

「ほら、定時退社のためにも仕事仕事~!」

 八尋は美鈴を連れて慌てて去って行った。


 背後であぐりちゃんと八尋が楽しそうに会話している。

「70……60……」

「ちょっと、八尋さん、言わないでよ!」

「あぁ、ごめんごめん。にしても、あぐりちゃん細すぎない? 宮崎はちゃんとご飯作ってくれてる?」

「ちゃんと食べてるよー。最近は私が作ってるの。ね、今度食べてよ!」

「おー、是非食べたいね!」

「そうだ、今度料理教えて。昔食べた回鍋肉がすごくおいしかったんだけど」

「いや、アレは市販の調味料入れて炒めただけだから」

「ほんとに?」

「ほんとほんと。はい、手上げて」

「ちょっ! 八尋さん、くすぐったいよ」

「おー? じゃあここは……?」

「やだー! アハハ! セクハラだぞー!」

「あひゃひゃひゃ! あぐりちゃん、くすぐった……!」

「やひろぉぉ!!」

 思わず振り返ってしまった。

「あ、ごめん。あぐりちゃん、次は後ろ向いて」

「おとうさんのえっち!」

 あぐりちゃんが足元のティッシュ箱を投げつけてくる。急いで背を向ける。

 そんなやり取りを数回繰り返し、

「じゃーん」

 あぐりちゃんが自慢げな顔で制服を見せた。

「どうよ!」

「うん、似合ってるね」

「ここらへんでセーラー服の高校って、白丸しか無いからさ」

「いや、でもあぐりちゃ……」

「何、私が着たくて着てるの!」

「はい……」

 肩をすぼめる僕を見て、八尋は悪戯な笑みを向けた。


 彼女からの連絡は何でもないいつもの日曜日の昼間だった。田中さんから連絡を受けて、嬉しさと同時に、絶望が待ち構えていることを感じた。

 けど時間は待ってくれることなど到底なくて、生きるのに必死な僕にはその時が来るのはあまりに早すぎた。

「久しぶり」

 同じように彼女は首をかしげて言った。あぐりちゃんと全く同じ癖。一緒に住まないかと言われたが、あぐりちゃんの学校があるし、何より、僕が耐えられるかわからなかった。何を耐えているかもうわからないが、多分一緒にいたら、何か諦めてはいけない何かを諦めてしまう気がした。怖かった。だから、時々あぐりちゃんに付き添いで行く程度にした。

 そこでは一人の少年が家政婦として雇われていた。健気なものだ。こんな少年に家事労働を押し付けるなど、やはり矛盾は人では……。

「あの、俺、37歳なんですけど……」

 僕より一つ上だった。いや、だが……。

「よくあるんで気にしないでください。一時期矛盾と過ごしていたことがあって、その影響なんです。あ、そうだ名刺……」

 そこには最近よく目にする名前が書かれていた。いや、たまたま同姓同名だってだけで……だが、書かれていた職業がその証拠だった。

「千歳先生!?」

「えぇ、こう見えてそうなんです」

 照れ隠しに眼鏡を持ち上げたその指を見ると、確かに、爪の間に絵の具が少し見えた。

「まぁ、ちょっとした縁ですね。あの時は学生だったもんで、こうなるとは予測してなかったんですけど」

 確かに僕も全く予測できなかっただろう。彼女が母親として僕が今まで面倒見てきた女の子と接してて、アイドルで、アークィヴンシャラとかいう国の国民で……。

 だが、彼女等が来たのが早かったように、去っていくのも早かった。

 やはり、一緒にいるべきだった。後悔するだろうと思ってはいたが、それ以上に気がおかしくなる方が怖くて逃げていたら、結局こうなった。どの道を選んでも苦でしかない。やはり変わらないんだな。


 あぐりちゃんが女優になった。事務所契約をし、まずはCM一本とドラマのわき役を務めた。毎度どの番組に出ると教えてくれるから、全て録画して、映画は必ず観に行った。主役じゃなくても、数秒しか出演しなくても、必ず見た。

 あぐりちゃんが初めて主役に選ばれた。それも朝の連続テレビ小説。国中から注目されるドラマに主演で出る事になったんだ。

「ほんっと、今までに比にならないくらい大変でさ! でもね、こんなにちやほやされたのは初めてだよ。妬まれて嫌がらせとかは今までより増えたけど、でも、それ以上にすっごく楽しくて嬉しい!」

 そっか、そうか。良かったね。

「おとうさん、赤の他人なのに、名付け親ってだけで私を引き取って、ここまで育ててくれてありがとうね。いくらでも親孝行するよ」

 あぁ、そうだっけか。そうか、僕は名付け親だったな。

 だが、あぐりちゃんから吉報が届く度に、どんどん遠くなっていく気がした。そりゃそうだ、僕は川の流れに疲れてしまった魚だ。彼女のようにまだ泳ぎ続ける金魚に比べて、メダカの僕には呼吸する元気すらない。

「ここのシーンがなかなか上手くいかなくてさー、またリテイク食らった。今にも死にそうな悲しみって何?」

 でも最後くらい、最後の最後くらいは、無駄に終わりたくないよ。せめて最後くらい、君に何か残したい。一生消えない贈り物を残したい。




「あぁ、やっぱりな」

 八尋……に似た誰かがそう言って、白い多角形のお面をかぶった。

「諦めろよ、2人とも。いや、3人か? まぁなんだっていいよ、お前ら。何度も言ってるだろう、そういう運命なんだって。多少歯車は変えられるさ、私にはその権限が託されている。だがな、運命は運命なんだ。鶏は飛べるが、アレはあくまで飛躍だ。鶏は飛べない。そう言う事だ。そういうものなのだと受け入れて、今をどう生きるかを考えなさい。人間はどうやって空を飛んだ? どう頑張っても鳥のように羽を持ち合わせることができないから、機械で空を飛んだだろ。生物でさえその環境に適応するために変態するだろう? 人間なんだからそれくらいできるだろ。生物にできる事がなぜ人間にできないんだ、愚か者め。愚者に愚かと言われるなど、つくづく哀れだな。これがどういう事かわかってるか? 人として非常に残念だって事だ。つまり悪い事なんだよ。悪いままでいいわけがない。天罰が来るぞ。生きたいからこんな事してんだろ、なら生きろよ。生きるための事をしろよ。それ相応に、私も責任者として出来る限りのことをする。これだってタダじゃないんだぞ、わかってるのか?」


 陸に上がってトカゲになれと言うのか。ハハ、理不尽だなぁ……。

 でも、陸に苦悩が無いというなら、僕はトカゲになるよ。陸に上がってでも生きるよ。まだやり残したことが少しだけあるからさ。

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