69 黄紋病1
カノープスからもらったハンカチーフは、私の涙でぐちゃぐちゃになってしまった。
けれど、カノープスはそんな無残な惨状のハンカチーフには一切構うことなく、ただおろおろと私の頬に向けて手を伸ばしたり、引っ込めたりしていた。
そんなカノープスを見て、『ああ、カノープスだわ』と心が落ち着いてきたのだけれど、その彼の後ろにひれ伏したままのエリアルたちが目に入り、現実に立ち戻った。
「エ、エリアル! ごめんなさい、忘れていたわ!」
慌てて立ち上がろうとすると、カノープスが片手を差し出してきて私が立つのを介助してくれた。
……本当に紳士だわ。私の護衛騎士は立派な騎士ね。
そう誇らしく思っていると、カノープスはその整った唇を開いて言葉を紡いだ。
「大聖女様のご温情による祈りの時間は終了したようだな。では、あの世へ旅立つ時間だ!」
言いながら、何のためらいもなく腰の剣を抜く。
「ま、待ちなさい!」
とんだ紳士だわ! 立派な騎士だと思ったけど、訂正するわよ。全然、許す心がないじゃないの!
私は驚いてカノープスの腕に触れると、慌てて言い募った。
「駄目よ! エリアルたちは私を傷付けてもいないんだから! それに、大聖女だったのは昔の話で、今の私は騎士なのよ」
「あなた様が何ですって? もちろん、今だって大聖女でしょう?」
カノープスはわざとらしく、ほとんど塞がった自分の傷跡に視線を向けた。
「うぐぅ……」
私は咄嗟に言葉に詰まると、口を開いた。
「そ、の話は、後でしましょう。……ええと、とにかく、エリアルたちを傷付けるのは駄目よ。分かった?」
私は真剣な表情でカノープスにお願いした。
カノープスは賛成しかねるという表情をしたけれど、目を伏せると音を立てて剣を鞘にしまった。
「……承知いたしました。あなた様の命であれば、私が従わないはずがありません」
既にその声は平坦で、カノープスが自分の感情を抑え込んでいるのが分かった。
あんなに派手な音を立てて剣をしまうなんて、不本意極まりなかっただろうに、もう平静に戻っているなんて、相変わらず見事な感情制御ねと思いながら、カノープスの腕をぽんぽんと叩く。
「私を守ろうとしてくれたのに、我慢をさせてごめんなさい。いつもありがとう」
「……私の感情など、気にせずに捨て置いてください。あなた様がわずかでも、私のことにお心を使われると思うだけで、申し訳ない気持ちになります」
「……その話も後でしましょう」
私はため息をつくと、エリアルたちに向き直った。
「ええと、それで、よかったら立ち上がってもらえますか? そうして、病人の所に案内してもらうと助かるんですけど」
私の言葉を聞いたエリアルたちは、弾かれたように立ち上がった。
そして、もう一度深々と頭を下げると、口を開いた。
「……本当に申し訳ありませんでした。あの……、オレたちが大聖女様に対して、許されざる暴挙に出たことは承知しております。この場が解決した暁には、騎士様のお手を煩わせることなく、自分たちで正しく身の処遇を行いますので、ご安心ください」
「ま、待ちなさい! どういう訳か、あなた方が思うところの『正しい身の処遇』とやらが、私には正しくないように思われるのだけれど。ええと、待って、落ち着いて! もしも、自分たちを傷付けることを考えているなら、私は許しませんからね!」
慌てて言葉を紡ぐと、どういうわけかエリアルたちは涙ぐんだ。
「ああ、大聖女様……。狼藉を働いたオレたちにまで、何と慈悲深い……」
そのエリアルたちに対して、カノープスが自慢するように言葉を重ねる。
「その通りだ! 誰よりも何よりもお美しく、慈悲深い大聖女様であられるぞ! お前たちの理解度は、しょせん100万分の1以下だがな!!」
私はげんなりとしてカノープスを仰ぎ見たけれど、エリアルたちはそんなカノープスに対して、大仰に頷いてみせた。
「騎士様のおっしゃる通りでございます。そうして、騎士様、大聖女様を守ろうとしたこととはいえ、先ほどは本当に申し訳ありませんでした。あの、応急処置ではありますが、まずは傷を……」
「必要ない。全て、ただのかすり傷だ」
エリアルの言葉を遮るように、カノープスが口を開いた。
実際にカノープスに剣を突き立てた住民たちは、真っ赤に染まった白い騎士服を着用したカノープスを心配そうに見つめていたけれど、カノープスはしっかりとした足取りで歩を進めると、私の少し後ろで立ち止まり、控えるように背筋を伸ばした。
その立ち居振る舞いは堂々としており、大きな怪我をしているようにも、体調が悪いようにも見えなかった。
そのため、エリアルたちは心配そうにしながらも、それ以上何も言うことができないようで、気詰まりな沈黙が落ちた。
これ以上疑問に思われるのはあまり好ましくないので、私はエリアルに向き直ると、途切れていた話の続きを促す。
「ええと、それで、あちらに横たわっている方々が病人だと思って、いいのでしょうか?」
私の質問に対して、エリアルははっとしたように振り返ると、頭を下げ、恭しい態度で答えた。
「おっしゃる通りでございます。病人はあの奥に寝ている52名になります。病状が軽い者は高熱にうなされている状態で、病状が重い者は意識が混濁しております」
「……分かりました」
私は特に症状が重いとされる3名の住民を診て回った。
その際、診察する振りをして、3名の病気の進行を停止させる。
彼らの体に触れながら、体の中を流れていく回復魔法を感じていたところ、あれ? と思い首を傾げた。
……確かに黄紋病ではあるけれど、これは………
「この地には、大聖女様から処方いただいた特効薬があります」
突然掛けられた声に振り返ると、年配の女性が病人の足元にしゃがみこんでいた。
白いローブを着用していることから、聖女ではないかと思う。
その女性は私を見つめたまま緩慢な動作で立ち上がると、深々と頭を下げた。
「聖女サリエラと申します。この度は、この地に大聖女様をお迎えすることができましたこと、心より感謝申し上げます」
「初めまして、フィーア・ルードです」
私も自己紹介とともにぺこりと頭を下げたのだけれど、私が頭を上げてもまだ、サリエラが頭を下げたままでいるので困ってしまう。
「え、ええと、頭を上げてもらえませんか? 私は大聖女の魂の蘇り『かもしれない』者で、現在は騎士ですから」
私の声を聞いたサリエラは、やっと頭を上げて私を見た。
そして、両手で自分の胸元を押さえると、真剣な表情で口を開いた。
「あなた様は大聖女様ではないのですか? そのように見事な暁色の髪をされていて、この時期にお戻りくださったので、私はてっきり……」
それ以上言葉が続かないのか、サリエラは言いさしたまま、強張った表情で私を凝視してきた。
サリエラの真剣な様子に気圧され、私は思わず口を開く。
「え、ええと、そうですね。そういえば、大聖女かもしれないですね」
私の言葉を聞くと、サリエラはうっすらと涙ぐんだ。
「ああ、やはり、アデラの花が咲くこの季節に、大聖女様にお戻りいただけたのですね。……大聖女様、厚かましいお願いではございますが、どうか、どうかもう一度、私たちをお助けいただけないでしょうか。どうかお願いします」
言いながら、もう一度深く頭を下げてくる。
サリエラの必死な様子に、私はこくこくと頷いた。
「わ、私にできることでしたら。ええと、この方たちは黄紋病ですね。でしたら……」
言いかけた私を遮るように、サリエラが首を横に振る。
「黄紋病……では、ないかもしれません。なぜなら、大聖女様の特効薬が効かないのです」
サリエラはどうしてよいか分からないといった困り切った表情で、力なくつぶやいた。









