【SIDE】黒竜ザビリア 下
そういえば、ずっと昔、―――まだ僕が群れの一員だった頃、仲間の竜は言っていた。
『どの種類の竜だとしても、千年生きれば黒竜になれる』
おとぎ話のたぐいだと思っていたけれど、真実だったのだな……とぼんやりと思う。
たった今、青竜だった僕から名前と記憶、力を引き継いだ僕は、ぼんやりとしたままだった。
記憶もふわふわとしていて、夢の中のような気持にさせられる。
けれど、ぼんやりとしながらも、体の中を物凄い力が駆け巡っているのが分かる。
ふふ、すごいなぁ。黒竜のエネルギーは、こんなにも大きいのか。
古代種で、いにしえの力を受け継ぐ天災級の魔物。それが黒竜だ。
同じ竜種の中でも一線を画す、もはや別の種とでも言えるような圧倒的な差異を持った竜。
その竜に、僕はなったのだ……
それから、一年が過ぎた。
僕は成竜になった。
幼生体の時に感じた強さは何だったのかと思う程、成体は強かった。
尻尾を一振りしただけで、ほとんどの魔物を蹴散らすことができる。
圧倒的で絶対的な強さ。だから、僕は他の誰も必要としなかった。
一頭で困ることはないし、一頭で完結できる。僕は、僕以外の誰も必要ではないのだ。
だから、僕は霊峰黒嶽の最奥の洞窟にねぐらを構えると、ほとんどの時間をそこで過ごした。
洞窟の中では雨を感じることもないし、黒竜の棲み家にわざわざ近づいてくる命知らずもいない。
千年もの間、誰とも話すことなく、誰とも交わることもしなかった。
僕は、僕が創り上げた一頭きりの王国で快適に過ごしたのだ。
そして、またもや死期が訪れ……僕は、小さくひ弱な黒竜に、再び生まれ変わった。
低まった視線を上げると、巨大な黒竜の骸が横たわっているのが見えた。
それは、さながら苔むした大木のようだった。
また、新たな、変わらない千年が始まる……
生まれ初めは、記憶と力が定着していない。しばらくは、まどろみながら過ごすのだろう。
僕は、洞窟の奥深くで体を丸めて、夢のしじまを彷徨った。
それから幾週間が経ったろうか。僕は、突然の敵意に目が覚めた。
―――ああ、なんということだろう。囲まれている。
真っ暗な洞窟の中で、幾つもの黄色の目が爛々と輝いている。その中の一対は赤だ。
まずいな……
僕は、そろりと体を起こした。
不測の事態に備えて、この洞窟には複数の出口がある。けれど、その出口に繋がる穴を全部ふさがれている。
僕は本当にフェンリルとは相性が悪い……
心の底からため息が漏れる。
いつの頃からか、この大陸は3頭の魔物を中心に、他の魔物の分布図が決まるようになった。
その3頭のうちの一頭が黒竜である僕。そして、もう一頭がフェンリルの上位種である黒フェンリルだ。
僕を囲んでいるこのフェンリルの群れ。その中にいる赤の瞳の一頭は、間違いなく黒フェンリルだろう。一頭だけ、持っているエネルギーが全然違う。
……まいったな。
千年に一度の弱体化する時期を狙われた……
僕はフェンリルたちが飛び掛かってくる前に行動した。
「グオオオオオオオオ!」
咆哮して、フェンリルたちが一瞬すくんだ隙に、囲みを抜け出す。方向は黒フェンリルの90度西だ。黒フェンリルに向かうのは最悪の手だし、彼の対角線上にも罠がはってあるだろう。
正確に言うと、全方向に罠が張り巡らされているのだろうが、少しでも手薄と思われる場所を抜けて行く。
肩に足に翼に。次々とフェンリルが喰らいついてくるが、跳ね飛ばす時間もない。
一瞬でも立ち止まったら、引き倒されて、絶命するまで離してもらえないだろう。
僕は真っ暗な洞窟を、何頭ものフェンリルを引きずりながら走って、走って、走った。
途中、幾頭ものフェンリルが、僕の体の一部を力任せに噛みちぎり、その反動で転がり落ちて離脱していく。
そうして、やっと洞窟の出口に辿り着いた時、僕の体は全身血まみれだった。
それでも、最後の力を振り絞って羽ばたく。
南西へ。
なぜそう思ったかは分からない。
ただ、何処へ向かうべきかと考えた時、暗闇の中に一条の光が差すように、はっきりと僕が進むべき方向が見えた。
僕は残る力を振り絞って羽ばたき続ける。遠くへ。出来るだけ遠くへ。フェンリルたちが僕を見つけられないくらい遠い南西へ。
翼の片方は酷く引きちぎられており、まっすぐに飛翔することは困難だった。
フェンリルを引きずりながら走り続けた両足は、もはや感覚がなくなっており、尻尾は根元から千切れている。
血を流しすぎたようで、意識が朦朧としてきた。
実際に何度も意識を失いかけ、飛翔高度が落ち、木の枝にぶつかる痛みで意識が戻るということを繰り返す。
そして、とうとう、力尽きた僕は一直線に森の中に落ちていった。
“……ああ、もう少しで到着したのに”
朦朧とした意識のまま、夢うつつに何かを思う。
落ちていきながら、体が小さくなっていくのが分かる。幼体化だ。
もう、自分の体すら保っていられなくなったようだ。
体をばらばらにされるような痛みとともに、どさりと地面の上に投げ出される。
体の上に、生温かい雨が降り注ぐ。
ほら、今夜も雨だ。悪いことが起こる日は、いつだって雨だ。最期の時さえも―――……
魔物としての本能が生き延びたいと最善を尽くす。
幼体化することで活動を最小限に落とし、回復に専念するけれど、流れ出ていく生命エネルギーの方が多い。
これは、無理だな……
僕は、薄れゆく意識の中で後悔する。
傷を負いすぎてしまった。
……くやしいな。黒竜ともあろう僕が、敵にやられて最期を迎えるなんて。
魔物として、最も屈辱的で恥ずべき死に方だ。
黒竜になれたけれど、青竜だった時と同じだった。
結局は、一頭きりで死んでいくのだ―――……
そこで、僕は意識を失った。意識を保つ力も残っていなかったのだろう。
次に目を開けた時、一人の人間が僕を覗き込んでいた。
深紅の髪に金の瞳の少女。
ぼんやりと見つめていると、少女は「大丈夫だよ」となだめるように言いながら、僕に何かを飲ませてきた。
……何を飲まされた?
まとまらない頭で考える。液体が体中を回る。
すると、突然、激痛が全身を襲った。
―――毒だ。毒を飲まされたのだ!
明確な攻撃に、最期の力を振り絞って元の大きさに戻る。
黒竜ともあろう者が、毒液などと卑怯な手段で殺されてたまるものか!
僕は咆哮とともに、少女の肩に喰らいついた。それから、脇腹に。
少女は抵抗もせずに、僕に体中を喰われていった。
何て簡単な。捨て身で僕を殺しに来たのか……?
疑問を感じた瞬間、突然少女は笑い出した。
おかしくてたまらないといったように。
そうして、次の瞬間、少女が軽く手を動かすと光が溢れ―――僕の体は、怪我一つない状態に戻っていた。
“……え?”
千切れかけていた翼は元に戻り、尻尾は再生し、体中にあった怪我が全て消えている。
何が起こったか分からない僕の前で、少女は自分の体を使って説明を始めた。
つまり……、ゆっくりと少女は自分の怪我を治していったのだ。
肩と脇腹が再生し、少女の傷が体中から消えていく。
……ああ、彼女は聖女だったのか。そうして、僕を助けてくれた。
すごいなと思った。
僕は正に死んでいく寸前で、あとほんの少しで全てを失っていたのに。
未来も、感情も、二千年間の知識と技術も。
本当にすごい。この少女は、誰にでも平等に訪れる、そして、訪れたら逃れられない“死”を覆せるのだ……
それは、体が震えるほどの衝撃だった。
その力がほしいと心から思った。
彼女に隷属したい。
彼女の側にいたい。
彼女の力の恩恵にあやかりたい。
―――そうしたら、僕は“絶対的な死”から解放されるのだ。
僕は、はっきりと気付いた。フェンリルに襲われ、死を目前に控えた僕が、なぜ南西を目指したのかを。
死ぬ直前だった僕は、全身全霊で生き残る術を探したのだ。
そうして、唯一の救命方法が彼女だったのだ。
僕は、結局のところ黒竜だ。自分より強い者にしか隷属しようと思わない。
なのに、その僕が一瞬で、心の底から隷属したいと思うなんて……この少女の聖女の力は、何て強大なんだろう。
そんな僕の思惑になど全く気付かない様子で、少女は簡単に隷属の契約を行うことを許した。
能力は強大だけれど、何て迂闊な少女だろう。隷属を許すことで、彼女と僕は繋がってしまうのに。
僕が何者かをよく確認もしないで行うには、リスクが高すぎないだろうか?
その晩は、ひっきりなしに魔物が現れた。
少女の……フィーアの血の匂いにつられてふらふらと単体で彷徨い出てきた魔物だ。僕の敵になりえるはずもない。
だけど、30頭を越したころから、少し呆れた気持ちになってきた。
……フィーアはちょっと、魔物にもてすぎじゃあないかな?
最後に倒したのは、Aランクの魔物だった。
深淵にしかいないはずなのに、どれだけフィーアの匂いは遠くまで届いたというのだろう……
それなのに、他の誰も持ちえない強大な力を持つ聖女は、心配そうに尋ねてくる。
「私が聖女ってこと、黙っていてもらえる?」
フィーアが聖女であると公言したら、世界が彼女の力に跪くのに、なぜ隠したいと思うのだろう……?
不思議に思う僕を尻目に、フィーアはがたがたと震えだす。
「……私、聖女だったから、前世で殺されたみたいで。結構ひどい殺され方で。……聖女って公言すると、また殺されそうで怖い」
フィーアと繋がった僕には、彼女の感情とともに、思い浮かべているらしき情景が浮かんでくる。
それはとても陰惨で、年若い少女が耐えられるとは思えない光景だった。
……これは、ひどいな。
僕は真摯に答える。
「もちろん、フィーアが聖女だってことは、黙っているよ。フィーアがやりたいことを助けるのが、僕の役目だからね。でも、覚えておいて。僕は、フィーアを全力で守るから」
それを聞いたフィーアは、照れたように赤くなると目を逸らした。
僕はずっと一頭で暮らしてきたし、決して立ち回りが上手い方ではない。
そんな僕ですら心配になる。
……何だ、この聖女は。全く処世術が身についていない。こんなの世間に放ったら、利用されるだけじゃないのか?
その後、フィーアを遠くから見守ったり、隣で一緒に行動したりしたけれど、フィーアの言動はいつだって、僕の最悪の予想の遥か上をいくものだった。
呆れるとともに、よく聖女だと気付かれないものだなーと心から感心する。
これはフィーアの能力が卓越しすぎているから成り立つのだ。
能力が凄すぎて、皆の想定の範囲をぶっちぎって超えていくので、誰も答えに辿り着けない。
そのような選択肢があることすら、誰一人想像もできないのだ。
魔物の生活は、人間のそれとはほとんど関わりがないけれど、時には噂話が聞こえてくる。
―――僕が知っている限り、「大聖女」と呼ばれた存在は、この二千年間で一人だけだ。
二千年もの間、たった一人にしか使われなかった尊称。
……その意味を、フィーアは理解するべきだと思う。
この間も、池の水を全て回復薬に変えていたけれど、本人にしたら水たまりで遊んでいるような感覚なのだろう。
遊び感覚で、現存しない古の良質な回復薬を復元させて、半永久的に使用できる仕組みを作り上げている。
あの赤髪金瞳の少女は、きっと、世界で一番価値がある。
問題なのは、誰も、本人ですら、そのことに気付いていないことだ。
「ザビリア専用の変身グッズで―――す!!」
至高の価値がある聖女は、そう言いながら僕のために時間を使う。
「ザビリア、あなたは本当に可愛いわね!」
にこにこと笑いながら、僕の頭を撫でてくれる。
フィーアが許してくれるから、僕はいつだってフィーアにくっついて眠る。
フィーアは温かいから、くっつくとよく眠れる。
そうして、時々昔の夢を見る。一頭きりで過ごした二千年のあれこれを。
「ふふ、ザビリアったら。昔の夢を見たって……、0歳の昔っていつよ?」
フィーアがおかしそうに笑う。僕を見つめてくすくすと楽しそうに笑い続けるのだ。
……僕は、突然理解した。
ああ、守るべきものを間違えていた。
僕は、青竜の仲間など大事ではなかったのだ。
だから、裏切られてもさほど傷つくことはなかったし、簡単に青竜たちを捨てられた。
フィーアに出会ったから気付けた。この感情は、全く違う。
命なんて、簡単に懸けられる。
何があっても、フィーアは捨てられない。
だって、フィーアは僕を丸ごと受け入れてくれる。
僕のために怒ってくれるし、戦ってくれるし、一緒に笑ってくれる。
フィーアといると、いつだって楽しくて、温かくて、安心できる。
だから僕は、あまりに違い過ぎた過去を……僕が一頭だけで過ごした長い時間を思い出し、それがいかに価値がないものだったのかを、再認識させられてしまう。
そうして、逆説的に、フィーアとの時間の大切さを思い知らせてくれる。かけがえのない時間だということを。
だから、―――2頭の青竜がフィーア目掛けて急降下してきた時は、体中の血が沸騰するかと思うほどの怒りに襲われた。
◇◇◇
僕は咄嗟にフィーアの前に立ちはだかると、黒竜へと姿を変えた。
爆風とともに、土埃が舞い上がる。
僕は迫りくる青竜に向けて咆哮した。
すると、青竜たちは降下を止めて、上空に舞い上がった。
けれど、その場から離脱することなく、上空をぐるぐると旋回する。
僕を見たら、その力の差は明らかだろうに、未練がましくその場を離れることができないでいる。
―――フィーア、またあなたか。
僕は次々と、嫌になるくらい魔物を魅了するフィーアを思ってため息をつく。
思い返すと、確かにフィーアは、朝から従魔たちに回復魔法をかけていた。
フィーアは痛みに強いから気付いていないのだろうけど、どこか怪我でもしているのだろう。
そして、そこから聖女の甘い血の香りをまき散らしているのだろう。
そうでなければ、この魔物の出現率の異常さは説明できない。
誰もが、黒竜が現れたから森の魔物の生息範囲が狂ったと思っているようだけど、それだけで、こんな森の入り口付近で凶悪な魔物たちが次々に出現するわけがない。
原因は、間違いなくフィーアがまき散らしている聖女の血の香りだ。
その証拠に、青竜たちはフィーアだけに狙いを定めて襲ってきた。
僕との実力差がこれほど離れていると分かっているのに、この場から離れることができないでいる。
なのに、フィーアは手を伸ばして僕に触れると、ぽんぽんとその体を叩いてきた。
「庇ってくれてありがとう。そして、威嚇してくれてありがとう。後は、私と騎士たちに任せてちょうだい」
僕が青竜と戦いたくないなんて言った我儘を真正面から受け止めて、何とかしようと考えている。
僕はおかしくて、思わずふふふと笑ってしまった。
何ておかしくて、愚かで、可愛らしい聖女だろう。
……フィーアの本質は、いつだって聖女だ。
聖女であることを隠したいと言いながらも、騎士たちの命が掛かると迷いもせずに力を使う。
騎士の命を守ることに専心し、自分の保身を忘れ去ってしまう。
世界で一番価値のあるフィーアは、いくらでも替えの利く騎士のために簡単に命を懸けてしまう。
それなのに、彼女は恐ろしいほど弱くてもろいのだから、話にもならない。
―――だから、僕は竜王になろう。
彼女の守護者となるために。
彼女を全てから守るために。
 









