173 危機との遭遇8
それからすぐに、私たちは伯爵邸をお暇した。
エステルが完全に誤解していることは明らかだったけれど、ちょっとやそっとでは訂正できそうになかったし、私のことを誰にも言わないと約束してくれたので、まあ、いいかなと思ったからだ。
加えて、伯爵も誰にも言わないと約束してくれたので、取り敢えずの目的は果たされたはずだ。
心で思うことは自由だから、伯爵とエステルが「私はタネと仕掛けがある聖女だと理解し、そのことを黙っている」と約束してくれた以上、心で何を思っていたとしてもどうしようもないのだ。
エステルの場合は、「これは私の独り言ですけど」との前置きの下、心の裡を声に出されたような気もするが、聞かなかったことにしよう。
そう考えながら、米つきバッタのようにペコペコと頭を下げる伯爵と、大事な使命を受けたような表情を浮かべたエステルに別れを告げると、私はセルリアン、ドリー、カーティス団長とともに伯爵家の馬車に乗り込んだ。
あれほど「食事に行こう」と言い続けていたセルリアンとドリーだったのに、帰る頃になると「疲れ過ぎて食事に行けない」と言い出したため、まっすぐお城に戻ることにしたのだ。
まあ、体力が無尽蔵なザカリー団長やデズモンド団長を見習ってほしいわね!
と、おなかがぺこぺこの私は思ったけれど、疲労困憊な様子でぐったりしている2人を見ると心配になる。
『傷病者恐怖症』という聞いたこともない病気の症状も出ていたし、ものすごく疲れているのかもしれないと思われたからだ。
そのため、馬車の背もたれに背中を預け、目を瞑っている2人に恐る恐る声を掛ける。
「2人とも大丈夫? 途中で倒れるといけないから、部屋まで付いていきましょうか?」
すると、2人は目を開き、視線を交わし合った後、何事かを申し合わせたような表情で返事をした。
「そうしてもらえるとありがたい。思っているよりも弱っているようだから、君の言う通り、途中で倒れるかもしれないからね」
珍しく弱みを見せるセルリアンを前に、これは本当に弱っているようねと心配が募ってくる。
けれど、それからしばらくすると、2人とも馬車の背もたれ部分から体を離し、きちんと目を開けて何事かを考えている様子を見せたので、少しはよくなってきたようだわと安心した。
そんな風に2人とも、珍しく静かにしていたことに加えて、カーティス団長は必要がなければ話をしないタイプなので、馬車の中は静寂に包まれていた。
静かだわねーと考えていると、いつの間にか眠ってしまったようで、目覚めた時は王城に着いていた。
当然の顔をして付いてくるカーティス団長とともに、約束通り、セルリアンとドリーを部屋まで送り届けようとすると、普段は立ち入らない区画に誘導された。
どうやら王城内には道化師専用の私室があって、そこに向かっているらしい。
まあ、さすが宮廷道化師だけあって専用の部屋が与えられているのね、と感心していると、ド派手な壁紙が張られた部屋に案内された。
普段は目にしないような意匠の部屋だったため、興味深く見回していると、よく分からない小道具が飾られた棚が横にスライドし、その後ろから隠し扉が現れた。
「えっ?」
この扉は何かしらと驚いていると、ドリーが躊躇なく扉を開いたので付いていく。
すると、その先は真っ暗闇だった。
「ん?」
この暗い空間は何かしらと思っていると、もう一度扉が開く音がして、その先には広い部屋が広がっていた。
「オルコット公爵の私室よ。一応、王城で要職に就いているから、執務室とは別に寝泊まり用に部屋を賜っているの」
「まあ、そうなのね」
道化師の部屋と公爵の部屋が隠し扉でつながっているなんて面白い仕組みだわ、と考えながら自分たちが出てきた扉を振り返ってみると、そこはクローゼットになっていた。
「なるほど、道化師の部屋にある隠し扉は、公爵の部屋のクローゼットにつながっているのね。だから、あんなに真っ暗だったのだわ」
通常であれば、道化師の私室と公爵の私室が隣同士なんてあり得ないけれど、王が道化師を気に入っているため、彼ら用に「とてもいい部屋」を用意したら、たまたま隣に公爵がいたという設定なのかしらね。
そんな風におかしく思っていると、ドリーからソファに座るよう促された。
「フィーア、あたしたちは道化師の衣装を脱いでくるけど、あんたも着替える? セルリアンがあんたくらいの背丈の頃に着ていた服があるわよ」
親切な申し出だとは思ったものの、晩御飯を食べていないので、この後、すぐに騎士団用の食堂に行こうと考えていた私はお断りを入れる。
「いえ、特に汚れていないから、着替えなくても大丈夫よ。2人を部屋まで送ってきただけだから、すぐに帰るし。あっ、というか、この聖女の衣装は今すぐ返した方がいいのかしら?」
そう言えば、今着ている衣装はドリーから借りたものだから、急いで返した方がいいのかもしれない、と思って尋ねると、彼はゆるりと首を横に振った。
「いいえ、その衣装はもうあんたのものだから好きにしていいわ。それよりも、食事を食べ損ねてしまったから、軽食を食べていかない? 今から、この部屋に運ばせるから。それから、よかったら1つ話を聞いてほしいの」
「分かったわ!」
何か食べさせてもらえるのならばありがたいわ、と思ってカーティス団長とともにソファに座ると、セルリアンとドリーは着替えのためにドレッサールームに入っていった。
手持ち無沙汰になったため、きょろきょろと部屋の中を見回していると、煌びやかな内装や家具が目に入る。
先ほど見た、訳の分からないおもちゃや小道具でいっぱいだった道化師の部屋とは異なり、この部屋には小難しい本がたくさん並べられた本棚や執務机が設置してあった。
そのため、どちらも同じ住人の部屋だと考えると面白いわよね、と笑みを浮かべていると、隣に座ったカーティス団長から名前を呼ばれた。
「フィー様、出過ぎた真似なのは承知していますが、1つだけ言葉を差し挟ませていただいてもよろしいでしょうか?」
「もちろんだわ」
カーティス団長がこんな風に話しかけてくるのは珍しい、と思いながら彼に顔を向ける。
すると、真剣な眼差しと視線が合った。
そのため、一体何事かしら、とどきりとしながらカーティス団長の言葉を待っていると、彼は重々しい様子で口を開いた。
「セルリアンとドリーにはこれ以上深入りなさいませんよう、ご忠告いたします。彼らが抱えているのは暗くて重いものです。生半可なことでは、到底彼らの望みを叶えることはできません。ですが……、あなた様であれば、どうとでもできる事柄でしょう」
「えっ?」
突然、思ってもみない話をされたため、びっくりして目を見開いていると、カーティス団長は真剣な表情で言葉を続けた。
「もしも彼らに同情して力を貸したならば……代償として、あなた様がひた隠している秘密が、白日の下に晒されることになります」
「ええっ!?」
核心を突いた話に驚いていると、カーティス団長は座っていたソファから身をずらして、床の上に片膝を突く形で私と向かい合った。
それから、至近距離で私を見つめてくる。
「フィー様、どうか一番大事なものを、お忘れにならないでください! そして、心が痛もうが、救いたい気持ちが湧き上がろうが、大事なものを優先してください! むしろ、心が痛む前に、彼らから手を引くべきです!!」
以前、サザランドでも同じようなお願いをされたため、カーティス団長の言いたいことにピンとくる。
きっと、カーティス団長が仄めかしている『一番大事なもの』は、『私の命』なのだろう。
どこまでも忠実な元護衛騎士は、いつだって私のことを心配してくれているのだ。
「カーティス、あなたはいつだって私のことばかり心配するのね。でも、大丈夫よ。私だってむやみやたらに危険に身を晒したりはしないのだから」
彼を安心させたくて、心からの言葉を発したというのに、カーティス団長は大きく首を横に振った。
「それは、あなた様がセルリアンとドリーが抱えているものを知らないからこそ、発することができる言葉です。このまま彼らに深入りしていけば、あなた様はいずれ精霊を呼ぶことになるでしょう。必ずです!」
はっきりとそう言い切ったカーティス団長の激しさに、二の句が継げずに黙り込む。
そして、普段の彼らしからぬ姿を目にしたことで、カーティス団長は私の知らない何かを知っているのだわと確信した。
どくりどくりと心臓が波打ち出し、嫌な予感に襲われていると、返事をしない私に焦れたのか、カーティス団長がさらに言葉を重ねてきた。
「さらに言わせていただくならば、サヴィス総長とシリルも同様です! あの2人も暗く重いものを抱えています! どうかこれ以上深入りなさいませんよう、心からお願い申し上げます」
そう言い切ったカーティス団長の表情は怖いくらい真剣で、けれど、素直に「はい」と答えることもできなくて、……私は無言のまま、彼を見つめることしかできなかった。









