170 危機との遭遇5
腹立たし気な様子でソファから立ち上がり、今にも帰ろうとしているセルリアンとドリーを前に、私は心底困っていた。
なぜなら話を聞きかじっただけでも2人の怒りはもっともで、その気持ちを尊重すべきだと思ったからだ。
けれど、それ以上に、ベッドに臥せている伯爵の娘をこのままにしていくことはできないと思う。
そのため、心を落ち着かせるためにも2人には伯爵邸から帰ってもらい、私だけがこの場に残るのはどうかしら……と考えながらちらりと2人を見やる。
……いや、無理そうね。
2人は怒り心頭に発しているから、このままでは私も一緒に連れて帰られそうだわ。
セルリアンとドリーの表情からそう判断した私は、助けを求めてカーティス団長に視線をやる。
少々荒っぽくはあるけれど、カーティス団長の腕力に訴えてもらい、2人から私を引き離してもらおうと考えたのだ。
すると、カーティス団長は私の真意を確認しようとでもいうかのように、じっと見つめてきた。
そのため、私は私のことを誰よりもよく分かっているであろう元護衛騎士に頷いてみせる。
ええ、カーティス、あなたの推測通りよ! これはもう、話し合いで解決するのは無理だわ!
けれど、伯爵の娘をこのままにはできないから、私からセルリアンとドリーを力づくで引き離してちょうだい!
カーティス団長は理解したとばかりに頷くと、一歩前に進み出た……けれど、予想に反して、セルリアンとドリーに向かって腕を伸ばすことなく、伯爵に向かって口を開いた。はて。
「ペイズ伯爵、あなたの望みはここで、道化師相手に喧嘩をすることか? そうであれば、私たちを呼んだこと自体が間違いだったな。何か手助けできることがあればと考えてご尊宅に伺ったが、直ぐにお暇しよう」
カーティス団長の声は穏やかだったけれど、いきなりの最後通牒であることは誰の目にも明らかだった。
そのため、えっ、私は帰りたくないのだけど、と驚いてカーティス団長を見上げると、同じようにペイズ伯爵が顔を上げ、焦った声を出した。
「い、いや、それは困ります!」
そんな風に伯爵は咄嗟に否定したのだけれど、それ以上言葉を続けることができない様子で、そのまま口をつぐんだ。
カーティス団長の言葉で、娘を助けたいという本来の目的は思い出したけれど、現状を把握できていないため、下手に言葉を発せられないようだ。
けれど、それも仕方がないことだろう。
伯爵側の話は聞いていないため、正確なところは分からないけれど、セルリアン、ドリー、伯爵の反応から推測するに、10年前、オルコット公爵とペイズ伯爵の間に大きな確執が生じたことは、間違いないように思われたからだ。
目の前の相手がまさか公爵本人だとは気付いていないだろうけれど、公爵家相手の案件であれば、慎重に対応しなければならないことは理解しているはずだ。
そんな伯爵にとって、10年前の出来事を知る2人は、身構える存在に違いない。
なぜなら当時、現場にいたのはローレンス国王とオルコット公爵だろうから、セルリアンとドリーが当時のことを知っているのは、第三者から話を聞いたからだと伯爵は推測しているはずだ。
そして、一体誰が話を漏らして、この2人は何者なのだと、ペイズ伯爵は怪しんでいるはずだ。
不明な点が多過ぎるので、伯爵は慎重にならざるを得ないだろう、と考える私の目の前で、カーティス団長はさらに言葉を続けた。
「私は騎士団長の職位にある。そして、本日の護衛対象はこの2人の道化師たちだ。彼らは宮廷道化師であり、護衛が必要な者だと私の上司が判断したからだ」
カーティス団長の言葉を聞いたペイズ伯爵は、ぎくりと体を強張らせた。
「えっ、騎士団長の上司の方ですか!?」
王国の騎士団長の上司にあたる者は限られている。
伯爵が誰を想像したにせよ、それは王国の超上位者のはずで、そのため、彼は表情を引き締めた。
それから、伯爵は無言のまま何かを考えている様子だったけれど、数瞬の後、セルリアンとドリーと対立するのは得策ではない、と考えを改めたようだ。
そのため、伯爵は自分を律するようにぐっと奥歯を噛み締めると、セルリアンとドリーに対して頭を下げたけれど、その礼は、私が見ても分かるほどに丁寧なものだった。
「道化師様方、大変失礼しました。娘が長い間臥せておりましたので、気が立っていたようです。無礼な態度を取りましたこと、どうかご容赦ください」
そんな伯爵の態度を見て、すごいわねと感心する。
というのも、伯爵と道化師を比較した場合、身分的には伯爵の方が何倍も上で、道化師自体が人々から笑われる存在なのだけれど、騎士団長が護衛に付く宮廷道化師となれば話が違ってくるからだ。
なぜならそれは、道化師が王のお気に入りであるというはっきりした印であり、道化師がぺちゃくちゃとしゃべる話を、王が耳にする機会が多々あるだろうことを推測できるからだ。
そのため、たとえ相手が普段見下しているような道化師であっても、それなりの対応をするのが正解なのだけれど……振り切って、ここまで下手に出るのは、貴族の対応として驚くべきものがあるわ、と目を見張る。
多分、10年前の事案がよく分からない形で横たわっているので、下手に出ることにしたのだろうけれど、それにしても伯爵の態度は潔すぎる。
私はそうびっくりしたのだけれど、ドリーは全く異なる印象を受けたようで、白けた表情を浮かべた。
「はあんっ、見苦しいまでの手の平返しね! ほんっとに貴族って、こういうところがあるのよね~。自分より大きな権力の影に気付いた途端、急にぺこぺこし出すの。喧嘩をするなら最後までやればいいのに、権力にすり寄って床に這いつくばるなんて、みっともないことこの上ないわね!!」
そんなドリーに対して、銀のスプーンを咥えて生まれてきた生粋の王様が、さらに火に油を注ぐ発言をする。
「ドリー、そのこと自体は見逃してやれ。それが貴族の恥ずべき生き方だ。彼らはそんな風に物乞いもどきの言動をすることで、現在まで生き残ってきたのだから、それ以外の生き方を知らないのさ」
振り上げた拳を収めた伯爵に対して、執拗に馬鹿にし続ける2人は、10年もの間、収まらない怒りを抱え続けてきたのだろうな、と何とも言えない気持ちになる。
ドリーは妹を亡くしたオルコット公爵本人だし、セルリアンは側近である公爵を大事に思っているため、同じように許せない怒りを抱いているのだろう。
多分、この2人がその気になれば、伯爵家自体を揺さぶることも簡単だろうに、口喧嘩の範囲で応戦していること自体が、ものすごく自制心を働かせているに違いない。
一方、ペイズ伯爵は色々と損得を考えて行動しているにしても、彼が言動を改めた一因に、床に臥せた娘の存在があることは間違いないだろう。
きっと、本気で娘のことを想っているのだ。
いずれにしても、せっかく伯爵が大人の対応をしてくれたのだからチャンスだわ、と私はここで話に割り込むことにする。
「ええと、日も暮れてきたわね。初めてのお宅で長居をするわけにもいかないので、そろそろお暇しようかと思うのだけれど、その前に、伯爵家の聖女様にご挨拶することはできるかしら?」
すると、ペイズ伯爵は話が進んだことにほっとした様子を見せ、すぐに娘の私室に案内すると言って立ち上がった。
「娘は寝台から起き出すことも叶わないため、お手数をお掛けしますが、私室までご一緒いただけるでしょうか」
先ほどの話では、伯爵の娘は先週から突然、体調が悪くなったとのことだった。
今はどんな状態かしらと心配になりながら、伯爵の娘の私室に向かう。
セルリアンとドリーはどうするのかしら、と黙って様子を見ていると、少し考えた後、2人は私たちに付いてきた。
何だかんだで人が好い2人だから、このまま放ってはおけないのだろうな、と考えながら案内された部屋に入る。
聖女の部屋は日当たりのいい場所にあり、侍女が1人控えていたことからも、伯爵が娘を大事にしていることが見て取れた。
扉口近くで立ち止まっていると、伯爵は躊躇いなくベッドの枕元に近付いていき、横になっている娘に声を掛ける。
「起きていたか。今日はお客様を連れてきたよ」
促されて枕元に近付くと、20歳前後の茶色い髪の女性が青白い顔で横たわっていた。
彼女は私を見ると目を見張り、力なく微笑んだ。
「まあ、赤い髪の聖女様ね。はじめまして、ペイズ伯爵の娘のエステルです」
発された声も弱々しく、エステルが弱っていることは説明されなくとも理解できた。
「こんにちは、フィーアです。今日は道化師の2人と騎士団長と一緒に来たのよ」
少しでも楽しい気分になってもらいたいと、道化師一座の一員らしく明るい声を出すと、エステルは興味深そうに部屋の中を見回した。
それから、セルリアンとドリー、カーティス団長に気付くと目を見張る。
「まあ、色鮮やかで見ているだけで楽しくなる衣装ね。それから、騎士団長様の白い騎士服はご立派だわ」
そう言って小さく微笑む彼女を見て、気遣いのできる方だわと思う。
私とともに彼女の部屋を訪れた3人に興味があったことは確かだろうけれど、私が3人を紹介したため、わざわざ彼らについてコメントしたのだろう。
そして、3人ともに枕元に近付きもしないし、挨拶もしないという酷い対応にもかかわらず、不愉快さを表すことなく、むしろ彼らの無礼さが際立たないようにと、敢えて彼女自身も自己紹介をしなかったのだ。
うーん、いい人じゃないの。
そう思いながら、ちらりとセルリアンとドリーに視線をやると、彼らは今にも倒れ込みそうなほど真っ青な顔をしていた。
 









