154 公爵邸訪問5
「あっ、失礼」
デズモンド団長は慌てた様子で落としたカップを掴んだけれど、慌てすぎたようで手のひらに割れたカップが食い込んでいた。
案外、団長は不器用なようだ。
そのため、すぐに手のひらからぼたぼたと血が滴り始める。
デズモンド団長は急いでポケットからハンカチを取り出すと、傷口に無造作に巻きつけた。
「えっ、そんなぐちゃぐちゃにハンカチを巻かなくても、聖女様に治癒してもらったらどうですか」
デズモンド団長は忘れているようだけど、この部屋には聖女が2人もいるのだ。
正確には3人だけど、これくらいの怪我なら、私がこっそり力を使うまでもないだろう……と考えながら、騎士の顔をしてプリシラとシャーロットを交互に見やる。
すると、シャーロットはおずおずとした様子でプリシラに視線をやった。
……ああ、そうよね。この家の聖女であるプリシラの役割を取るわけにいかないわよね。
それに、シャーロットは他の聖女たちを前にすると、未だに自信がなくなるようなのだ。
というのも、シャーロットは3歳の時に教会に連れていかれて以降、ずっと大人の聖女たちに囲まれて暮らしてきた。
大人の聖女はシャーロットよりも経験が多い分、回復魔法の使用に優れていたようで、彼女の魔法をあまり評価してこなかったらしい。
そんなシャーロットにとって、出会ったばかりの聖女の前で、自分の魔法を披露することは難しいに違いない。
だとしたら、プリシラにお願いするのが一番ね、と考えて彼女に視線をやったけれど、彼女はそ知らぬふりをして紅茶を飲み続けていた。
あれ、プリシラも魔法を使いたくないのかしら? と、首を傾げていると、私の疑問を読み取ったオルコット公爵が口を開いた。
「フィーア、市井にはほとんど知られていないことだが、実は聖女様たちには暗黙の了解があってね。定められた業務以外ではあまり回復魔法を使用しないように、と定められているんだ。魔法を使用し過ぎると、魔力が回復するまで何日もかかるから、いざという時に使えなくなると困るからね」
「そうなんですね」
私の場合、魔力が空っぽになっても1日で元に戻るけど、その分、もの凄く食べるのよね。
なるほど、1度にたくさん食べられないタイプの聖女は、魔力回復に時間がかかるのかもしれないわ。
「ただし、本人の総魔力量から考えて、翌日に影響が出ないほどの魔法であれば使用可能となっているから、結局、抜け穴はあるんだよね。数日間、業務が入っていない聖女様の場合は、使い放題ってわけだよ」
「そうなんですね」
そう言えば、シャーロットは魔力の制限なく、私と魔法の練習をしていたわよね。
つまり、本人次第ってことね。
そう納得していると、オルコット公爵がプリシラに顔を向けた。
「プリシラ、君が魔力を温存したがるタイプなのは分かっているが、聖女の力を貸してもらえないかな。デズモンドは我が公爵家の客人だから、君がいる家から、怪我人をそのまま帰すのも外聞が悪いだろう?」
けれど、プリシラは賛成しかねるといった表情で公爵を見返した。
「そのような前例を作ってしまうと、公爵家の客人が怪我をする度に、私が治癒しなければならなくなりますわ。賢明な考えとは思えません」
それから、プリシラはデズモンド団長をちらりと見る。
「それに、騎士が『このプリシラから怪我を治してもらえなかった』などと、吹聴するはずもないでしょう」
プリシラの言葉は、『将来的に王城で力を持つ可能性がある聖女を貶める言葉を、騎士が口にするはずもない』との牽制だった。
そのような発言をするということは、プリシラは筆頭聖女になる可能性がある、能力が高い聖女なのだろう。
でも、だとしたら……
「能力が高くて、回復魔法の使用に問題がないのであれば、怪我人を治したいと思わないんですか?」
純粋に疑問に思って口にすると、プリシラは片方の眉を上げた。
「本当に無知な方が交じっているのね。聖女の力は奇跡の御力だから、使用は限定されるべきだというのに。『怪我を治したいから、回復魔法を使用する』だなんて、思ったままに行動する子どもの発想だわ」
オルコット公爵は申し訳なさそうな表情で、私に視線を向けた。
「プリシラは大聖堂で成長した、選ばれた聖女なんだよ。そのため、その力は『奇跡』ともてはやされて、むやみやたらに使用されることが、これまではなかったようでね。つい彼女は、魔力を温存したがるんだよ」
なるほど、プリシラは回復魔法の自由使用にいい顔をされない環境で育ってきたらしい。
小さな頃からそのような教育を受けてきたのであれば、その考え方が身に付いているのだろう。
そして、プリシラはこれまで、怪我を治癒した時の喜びを、真に味わったことがないに違いない。
だとしたら、プリシラの言動も理解できるわねと考えていると、デズモンド団長がハンカチを巻いた手をひらひらと動かした。
「オレのことはお構いなく。かすり傷だからな、急いで治癒する必要などない」
「すまないね」
オルコット公爵がそう返事をし、話が終結しそうになったその時、―――シャーロットが何度か深呼吸をした後、おずおずと口を開いた。
「あの……私で良ければ、治しましょうか?」
そんな彼女の姿を見て、私はびっくりして目を見開いた。
まあ、シャーロットが他の聖女の前で、自分から回復魔法の使用を提案したわよ!
それは間違いなく、シャーロットのはじめの一歩だった。
シャーロットがぎゅっと手を握りしめ、いかにもどきどきしながら返事を待っていると、デズモンド団長は「いや、それは悪いだろう」と、早々に断りの姿勢を見せた。
そのため、『何てことを!』と詰め寄りたい気持ちになる。
というか詰め寄った。
「デズモンド団長、余計なことを言わないでください! そうやって好意を受け取らない人がいるから、聖女様はますます自由に能力を行使し難くなるんです! 『怪我をして痛いから、早く治したい』という気持ちのままに、治してもらえばいいんですよ」
すると、シリル団長がふっと微笑んだ。
「だそうですよ、デズモンド。フィーアの手にかかると、物事は何だってシンプルになりますね」
「あ、ああ……」
上ずった声でそう言うと、デズモンド団長は巻いていたハンカチを手のひらから外し、消極的な様子で手を差し出した。
その手のひらからはどくどくと新たな血が流れており、団長が言ったようなかすり傷では決してなかった。
以前、デズモンド団長は聞こえなくなっていた片耳を、シャーロットに治してもらったことがある。
そのため、彼女の能力を疑っているわけではなく、純粋に遠慮したのだろうけれど、ここは遠慮する場面ではないのだ。
人々を治癒することで得る喜びが、聖女を成長させるのだから。
シャーロットは緊張した様子でデズモンド団長に歩み寄ると、彼の手の上に両手をかざした。
それから、ごくりと唾を飲み込むと、ゆっくりと呪文を唱える。
「慈愛深き天の光よ、我が魔力を癒しの力に変えたまえ―――『回復』」
すると、シャーロットの手から回復魔法が出力され、デズモンド団長の片手を包んだ。
……5、6、7秒。
時間の経過とともに、デズモンド団長の手のひらに付いた傷は、見て分かるほどに少しずつ薄くなっていき、やがて完全に消えてなくなった。
よしよし、他の聖女の前で、緊張しながら呪文を唱えたにしては悪くないわ。
そう考えてシャーロットに視線をやると、彼女はほっとしたように大きく息を吐いた。
その隣では、デズモンド団長が濡れたタオルを手に取り、傷痕を確認するため表面の血を拭っている。
タオルの下から現れた手のひらからは、傷痕がきれいさっぱり消えてなくなっていた。
デズモンド団長は生真面目な表情で何度か手を握ったり開いたりした後、感心したように首を振った。
それから、シャーロットにお礼を言う。
「すごいな、傷痕はきれいに消えてなくなったし、動作も問題ない。本当に君は優秀な聖女様なんだな。ありがとう」
すると、シャーロットは嬉しそうに頬を染めた。
「い、いえ、お役に立てたのならよかったです」
少し離れた場所から眺めていたオルコット公爵は、興味深げにソファから立ち上がると、デズモンド団長に近付いてきた。
「デズモンド、傷があった場所を見せてもらえるか?」
それから、オルコット公爵はデズモンド団長の手をじっくり眺めた後、感服した様子でシャーロットを見つめた。
「……元々の傷痕がどれほどのものかが正確には分からないが、跡形もなく消えるとは大したものだね。なるほど、シャーロット聖女は有能だ」
「いえ、そんな」
両手を前に突き出して、とんでもないとばかりに否定するシャーロットを見て、私は嬉しくなる。
……ええ、シャーロットは有能よ。間違いなく、いい聖女になるわ。
そんなシャーロットを労おうと、私はテーブルの上のタルトの皿を差し出した。
まだ1つしか食べていないので、あと2つもタルトが残っていたからだ。
「シャーロット、魔法を使ったからお腹が空いたでしょう? 特別に私のタルトを分けてあげるわね!」
私は聖女仲間としてとても有益な提案をしたというのに……なぜだかデズモンド団長は顔をしかめた。
「フィーア、お前は価値が分かっていないようだが、シャーロット聖女は凄い魔法を示したんだぞ。その対価が、お前の食いかけのタルトじゃあ割に合わないだろう!」
「え?」
まあ、デズモンド団長は私の提案の有効性が分かっていないわね!
それに、よく見てください。
お皿の上に残っているタルトのどちらにも、私はまだ手を付けていないんですから。
食べかけというのは、完全に言いがかりですよ。
そう声を大にして言いたかったけれど、デズモンド団長以外にも発言したかった者がいたようで、シリル団長、ファビアン、オルコット公爵が言葉を重ねてくる。
「フィーア、誰もがあなたのように、常に食欲があるわけではありません。ご友人を労おうという気持ちは尊いですが、食の思考から離れるべきです」
「シャーロット聖女は優秀な聖女様だったんだ。そんな聖女様を名前呼びして、親しくしているフィーアは本当にすごいよね。フィーアの知り合いって、どうしてこう誰もが重要人物なんだろうね」
「ファビアンの言う通り、フィーアの知り合いって誰もが只者じゃないね。ふふ、僕もできれば重要人物になりたいから、その早道として、フィーアの友人にしてもらわないといけないな」
まあ、皆さん、好き勝手なことばかり言っちゃって。
そして、シャーロットのことを思いやっている私の気持ちを、誰一人理解していないわね!
私は諦めのため息をついた。
……いつの日か、私の真意が伝わると信じたい。
〇Twitterはじめました
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出版社や書店さんの企画・キャンペーンなど、これまでお知らせできていなかったものがありましたので、今後はその辺りをお知らせしていければと思います。
よければ、ゆるりとお付き合いください。