109 ガザード辺境伯領5
「あら、フィーア、酷い顔ね。あまり眠れなかった? フィーアはどこででもぐっすり眠れると思っていたんだけれど」
目覚めると、姉さんから心配そうに顔を覗き込まれた。
「いや、眠れはしたのだけれど、……懐かしい昔の夢を見て……」
ぼんやりとしたままそう答えると、姉さんはふっと小さく微笑んだ。
「昨日の夜、フィーアの小さいころの話をしながら眠ったからかしらね。いい夢だった?」
「え?」
いい夢だったかと聞かれ、思わず考え込む。
……いい夢、なのだろう。シリウスのことで悪い思い出なんて、一つもないのだから。
けれど、声を出すと何かが溢れてしまいそうな気持ちになり、無言のまま小さく頷く。
私の表情を確認した姉さんは、ぽんと私の頭を一つ叩くと、部屋から出て行った。
扉がぱたりと閉まるのと同時に、はあっと息を吐き出す。
……少しだけ、心が弱くなっているのかもしれない。
もうここにはいない前世の人物を、救い主のように思い出すなんて。
今まで一度も、シリウスのことを思い出さずに済んでいたのにな……
私はベッドの上で半身を起こすと、立てた膝の上にこてりと頭を乗せた。
それから、夢の続きとばかりに前世に思いを馳せる。
もし……
もしも、前世で魔王城に同行した相手が兄さんたちではなく、シリウスとカノープスと白騎士だったらどうなっていたのだろう?
けれどすぐに、どのみち答えが分からないのだから、考えても無駄ねと思い直す。
私は気持ちを切り替えるかのようにぷるぷると頭を振ると、ベッドから勢いよく飛び降りた。
すたすたと部屋の隅に置かれた荷物に歩み寄り、着替えを取り出す。
……ああ、でも、そういうことかもしれないな。
シリウスレベルの騎士がいて、精霊の力を借りることが出来て、そこで初めて『魔王の右腕と相対出来る』という心情になれるのかもしれない。
シリウスレベルの騎士……今世と前世を比較すると、前世の騎士のレベルの方が高いと思われる上、シリウスはその中でも突出していたから、あれほど強い騎士にお目にかかるのは、ほとんど不可能に思われるけれど。
私はふうとため息を吐くと、300年前の前世を――サザランドから王都に戻ってきた時のことを思い返す。
そもそも前世でサザランドを訪れた際の私は、元々の行事であったバルビゼ公領での魔物討伐をすっぽかした形になっていた。
もちろん私抜きでも魔物討伐がつつがなく行われるよう、フォローは行っていたつもりだったけれど、指示が不十分だったようで、同行騎士のほとんどがサザランドに付いてきてしまい、現場の戦力が不足していたと後から聞いた。
その戦力不足を、たった1人でカバーしたのがシリウスだった。
私の出奔を聞きつけるとすぐにバルビゼ公領に駆け付け、主力になって5メートル級の青竜4頭を僅かな時間で倒したのだから。
……ザビリア並みの強さだわね。
あんな化け物級の騎士なんて、なかなか自然には現れないはずだから。
だから、今いる騎士たちを鍛えるという方法もあるけれど、魔獣並みの騎士の育成方法なんて私には分からないから。
だから、基本に立ち返ろうと思う。
どういう訳か、魔王の右腕は姿を現すでもなく、魔王とともに身を潜めているようだから。
だから、しばらくは精霊の力を借りずに、聖女とばれない様に過ごすことにしよう。
けれど、あの魔人はいなくなった訳ではないだろうから、……いつかは現れるはずだから、その時のことも考えておかなければいけない。
私の―――フィーア・ルードとしての生活を壊されないために。
オリア姉さんだとか、カーティスだとか、その他騎士団で仲良くなったたくさんの、私の大事な騎士たちを守るために。
そのためには、一体私に何が出来るのだろう?
それは、とても今すぐに答えが出るような問いではなかったけれど、私はこの問題を考え続けようと思った。逃げることなく。
そして、出来ることはやっていこうと。
突然、魔王の右腕と遭遇した前世とは異なり、今の私は敵が誰だか分かっているのだから。
よし、やるわよ!
「今日も一日、頑張るから!!」
そう声を上げたところで、姉さんが戻ってきた。
姉さんは元気になった私を見ると、にこりと微笑んだ。
「ふふふ、フィーアが元気だと、私も元気になれるわね」
そう言いながら、水が入ったグラスを渡してくれる。
両手で受け取り、ごくりと飲むと、うっすらと柑橘系の味がした。
私の好みを熟知した姉さんが、ひとかけら混ぜてくれた季節のフルーツの味だった。
……ほらね、姉さんはこうやって当たり前のように私のことを考えてくれるのだわ。
だから、私も姉さんのために何だって出来るはずよ。
そう考えると、私は連れ立って姉さんの部屋を後にした。
食堂で他の騎士たちに交じって朝食を取った後、面談室に入ると、そこには既に昨日の顔ぶれが揃っていた。
誰もが久しぶりにベッドで眠ったためか、血色のいい顔色になっているというのに、中心に座っているガイ団長だけはげっそりと青ざめていた。
「まあ、ガイ団長、酷い顔色ですね! カーティス団長に寝かせてもらえなかったんですか?」
驚いたようなオリア姉さんの声に、ガイ団長は覇気のない声を上げた。
「オリアぁぁ、誤解を招くような言い方は止めてくれいぃぃ。事実としてはその通りなのだからぁ、ますます沈黙することを推奨するぞぉぉ」
「……何ですか、団長。その可笑しな話し方は」
姉さんが顔をしかめてガイ団長を見つめる。
対する団長は疲れ切った顔を上げると、同じ口調で話を続けた。
「オレがどれだけぇカーティスからダメージを与えられたかをぉぉ、表現してみることにしたあぁぁ。見ろ見ろぉ、一晩カーティスに責められたせいでえぇぇ、オレの優秀な脳みそは崩壊寸前だぁぁ!!」
「……あと一言でも同じ口調で話をしたら、異動希望を出しますよ」
姉さんはガイ団長がふざけていると判断を下したらしく、普段よりも低い声で団長に警告した。
その瞬間、ガイ団長はびしりと背筋を伸ばすと、しゃきっとした声を出す。
「なんてな! オレの優秀な脳みそはカーティスごときではどうにもできないさ! さあ、オリア、今日も一日一緒に仕事をしような」
「やっぱり脳にまだ不調があるようですね。まるで私が普段から、団長と一緒に仕事をするような話しぶりになっていますが、私が団長に対して毎日行うことは挨拶のみです」
「だ、だよな……。いや、分かっていた! オレだって、分かっていたさ! ただ、何だかよく分からないが、さすが『魅惑の赤魔女』の同行者だけあって、お前の妹が連れてきたのは、全員嫌になるくらいの男前ばかりじゃないか! いねぇよ! こんな顔立ち、一人だってこの砦にいねぇよ!! というレベルばかりを王都から集められたら、それは、オレだって少しは見栄をはりたくなるよな!?」
長々と言い訳をするガイ団長に対して、姉さんは短く慰めの言葉を呟いた。
「団長、男性の価値は顔だけではありませんよ」
「ぐはあっ! 今、オリアがオレの不細工を肯定した!!」
そう言って机に突っ伏したガイ団長を見て、あ、これは案外ありかもしれないわと思う。
ガイ団長が私の優しくて、賢くて、強い美人な姉さんに懸想していることは間違いないようだけれど、姉さん自身は興味がなさそうだなと思っていた。
そして実際、興味がないことは間違いないようだけれど、それとは別に、姉さんはとっても面倒見がいいから、実は姉さんの相手には手のかかる男性が合っているのではないかと常々思っていたのだ。
そう言う意味では、ガイ団長は物凄く手が掛かりそうだから、案外、姉のお眼鏡に適うのじゃあないだろうか。
まあ、ガイ団長は手が掛かり過ぎて、面倒くさいの部類に入るのかもしれないけれど。
そう思いながら、姉さんと一緒に皆が着いているテーブルの椅子に座ろうとする。
すると、カーティス団長が立ち上がり、かいがいしい様子で私の身幅分だけ、椅子を後ろに引いてくれた。
お礼を言いながら椅子に座ると、狙ったようなタイミングで、ブルーがいい香りのするグラスを目の前に置いてくれる。
もちろんブルーは姉さんの前にもグラスを置いたのだけれど、ブルーからの距離が遠い私から先にサーブしたことに、ガイ団長と姉さんは気付いたはずだ。
「…………」
誰もが無言を貫いていたけれど、ガイ団長と姉さんからの物問いたげな視線を感じる。
それでも、気付かないふりをして俯いていたところ、私の触れてほしくない気持ちを一切読み取らなかったガイ団長が、感心したような声を上げた。
「マジで『魅惑の赤魔女』は半端ねぇな! 男前たちを自ら傅かせているぞ!!」
ガイ団長の言葉に、黙って成り行きを見守っていたカーティス団長が、ぴしりと額に青筋を浮かべた。