107 ガザード辺境伯領4
今になって思えば、前世を思い出した際に行った決心は、おまじないレベルのものだった。
「魔王の右腕」と呼ばれる魔人の手にかかって命を終えた私。
そのことを思い出し、再び魔人と対峙するかもしれないと考えた際、必要な力を蓄えるまではひっそりと暮らそうと心に決めた。
曰く。
『私一人では「魔王の右腕」に敵わないから、前世の兄さんレベルの剣士が3人くらい仲間になるまで、聖女であることを隠しておこう』……と。
改めて見つめ直してみると、なぜこんなに実効性のないことを考えたのだろうと、首を捻らずにはいられないような決心だ。
なぜなら、精霊との契約が失われている今世の私は、前世の1割程度の回復魔法しか使えないため、格段に回復役としての能力が劣っているからだ。
そんな私が前世の兄さんレベルの剣士と組んだとして、『魔王の右腕』と渡り合えるはずもないのだけれど、あの時の私は適切な決心をしているのだと思い込んでいた。
これほど『魔王の右腕』に恐怖を覚えているというのに、対魔王戦時と同程度の戦力と1割の回復力で、『魔王の右腕』と渡り合えると考えていたのだ。
「魔王の右腕は魔王よりはるかに弱い」と考えていたとしか思えない発想だ。
あの時の私は、魔人の力量を正しく思い出せていなかったか、あるいは、実現可能な未来を……前世の兄さんクラスの剣士ならば集めることが出来ると、そうすれば私は助かるのだと、未来に希望を抱きたかったかのどちらかだ。
そうでなければ、あんな結論には達しないだろう。
どちらにしても、強い剣士を揃えれば救われると、以前と同じように信じることは今の私には難しかった。
そのことに思い至ると、本格的に目が覚めてしまったようで、私はゆっくりとベッドから半身を起こした。
ちらりと隣を見ると、姉さんが心地よさそうに眠っている。
私は姉さんに視線を向けたまま、起こさないよう注意深くベッドから降りると、足音をたてないようにして窓辺まで歩いて行った。
窓越しに外を仰ぎ見ると、闇夜を照らす月が目に入る。
……ああ、月の光は300年経っても変わらないのね。
そう考えると、不変のものを目にしたことで、少しずつ心が落ち着いてくるのを感じた。
夜の静寂の中、光輝く月を眺めたまま、思考は先ほどの続きに戻る。
……私は、何てものを見逃していたのだろう。
前世の記憶が蘇った際だって、300年前の私が魔王の息の根を止める代わりに、『封じた』こと自体ははっきりと覚えていた。
けれど、そのことがもたらす影響については考えていなかった。
―――通常であれば、魔王を封じた「箱」は大聖堂の奥深くに収められ、魔王が再び解放されることは二度とない。
けれど、恐らく、兄さんたちが魔王城を出る前に、魔王の右腕は魔王の箱を取り戻したはずだ。
敬愛する王をみすみす魔王城から攫われてしまうような、そんな迂闊なタイプには決して思えなかったから。
だから、きっと、あの魔人は魔王の箱を兄さんたちから取り返していて……
そして、この300年の間に、封印を解いているはずだ。
なぜなら、魔王の右腕は決して、王として君臨するタイプではないから。
仕える王を自ら選定し、玉座に座らせるタイプに思われるのだから。
だから、再び彼らと対峙した際、私が目にするのは300年前の再現だ。
私はまず、魔王と戦うことになるだろう。
そして、全てを出し切ってぼろぼろになりながら魔王を倒した後に―――再び、魔王の右腕が現れるのだろう。
私を殺した魔人は、そういう相手だ。
間違いなく、―――あの狡猾で抜け目のない魔人は、この世界のどこかに存在している。
―――存在しない理由がないのだから。
私はぶるぶると目に見えて震え始めた両手を、ぎゅっと握りしめた。
頭の中ではぐるぐると、1つの疑問が浮かび上がっては消えていく。
もしも……
もしも、私が前世通り、精霊付きの大聖女の力を使うことが出来たとして。
そうして、前世の兄さんたちと同程度の攻撃職が、3人仲間になったとしたならば。
そうしたら、私は魔王とその右腕を2人とも倒せるだろうか?
……それはあくまで仮定の問いで、不確定要素も多いため、明確な答えなど分かるはずもないと言うのに、私の全てが即座に「無理だ!」と主張してきた。
前世の酷い体験から、いたずらに恐怖に囚われての結論という訳ではなく、冷静に判断した結果として、そう主張してくるのだ。
いつの間にか、私の体は再び、尋常ではないほどの緊張状態に包まれていた。
心臓は経験したことのない速度で早鐘を打ち鳴らし、立っていられないほど足ががくがくと震え始める。
……ああ、あの魔人が存在している限り、私を襲う不安は消えないのだろう。
そして、不安の原因は、あの魔人を倒す算段が全く見いだせないことにあるのだろう。
何でもいい、誰でもいい、あの魔人を………
そこまで考えた瞬間、私は突然、がくりと意識が落ちていくような感覚を味わった。
凄い速さで目の前の視界が狭窄していき、これはまずいと思った私は、慌ててベッドまで歩を進め、ブランケットの上に倒れ込む。
―――多分、一種の防衛反応なのだろう。
極度の緊張状態にさらされた体が、これ以上は止めておけと、弛緩状態に……眠りの世界に誘ってくれたのだ。
私は自分の感覚に逆らうことなく、まるで芯を失ったかのように、くたりと体の全てをベッドに預けた。
そして、そのまま暗い闇の中に、一直線に意識が落ちて行く。
それはたゆたう夢の世界に包み込まれることで、……その時既に、自分の意志で何かを出来る状態ではなかったのだけれど、―――どういうわけか、1つの名前がぽろりと私の口から零れ落ちた。
「……リウス」
まるで、その名前が私の助けになるとでもいうかのように。
もうほとんど意識がない、夢うつつの状態だったからだろうか。
私の口から呟かれたのは、既にここには存在しない者の名前で……
それは、―――前世で私の近衛騎士団長であった、最強の騎士の名前だった。