106 ガザード辺境伯領3
『魔人』という単語を聞いて連想した恐れは、すぐに治まった。
カーティス団長がガイ団長を連れ出してくれた後、しばらくは手が震えていたのだけれど、それを見た姉さんが椅子に座り、私を膝の上に抱えてくれたからだ。
姉さんは背が高く、私とは身長差があるので、すっぽりと包み込むように抱きかかえられ、ゆっくりと頭を撫でられる。そうされると物凄く気持ちが良くなって、落ち着いてくる。
手の震えなんてすぐに治まり、むしろ良い気持ちになって、ふふふと笑い声が出てしまう。
すると、姉さんも楽しそうに笑い出した。
「フィーア、あんたは子どもの頃から変わってないわね。ちょっと頭を撫でてやると、すぐにご機嫌になるんだから」
そうね。姉さんといると、私はいつだって安心するし、ご機嫌になるのだわ。
そう思いながら、ぴとりと姉さんにくっついていると、「大きな赤ちゃんだこと」と笑われた。
それから、姉さんは私が落ち着いたことを確認すると、グリーンとブルーに向き直った。
「でも、赤ちゃんにしては、連れて歩く仲間は立派な騎士のようね」
姉の言葉に、2人が居住まいを正す。
私も慌てて姉の膝の上から降りると、背筋を正した。
「初めまして、王国騎士をしております第十一騎士団所属のオリア・ルードです」
姉は立ち上がって2人に近付くと、片手を差し出した。
グリーンとブルーもすかさず立ち上がると、それぞれ差し出された手を握る。
「ご令姉様にはお初にお目にかかる。グリーンだ。この地にいる間は、協力騎士としてカーティスとフィーアに同行することになっている」
「同じく、ブルーです。ご令姉様におかれましては、ご壮健そうで何よりです。以後、お見知りおきください」
姉は握られた手の強さに満足そうな表情をしていたけれど、2人の挨拶が終わると小首を傾げる。
「ご令姉様……ねぇ。初めて呼ばれたわ。つまり、あなたたちはフィーアを基準にして私を見ているということね?」
「「いや、そう言う訳では……!」」
慌てた様に2人が声を揃えるけれど、オリア姉さんは無視すると、嬉しそうな表情で私を見つめてきた。
「こんなに体格がいい騎士に興味を持たれるなんて、大したものだわ! フィーアは小さいから、お相手は体格がいい者がいいなあと常々思っていたのよ」
「姉さん!」
姉さんが私のことを考えていてくれたと聞いて、嬉しくなる。
姉さんはにこりと私に笑いかけると、再びグリーンたちに向き直った。
「この子をよろしくお願いするわね。派手なところはないけれど、出来ないことがあっても諦めず、何度も何度も挑戦する努力家なのよ。いい子だわ。そんなフィーアに着目するなんて、地に足のついた方々なのね。フィーアのよさに気付いてもらえて嬉しいわ」
姉さんの過剰な褒め言葉を聞いて、思わず顔が赤くなる。
「ね、姉さん! そんなに無理して褒めても、グリーンとブルーとは一緒に冒険をしたことがあるのだから、私のことは分かっているだろうし、実物以上に良く見えてくることなんてないわよ!」
けれど、私の言葉とは裏腹に、気を遣うタイプのブルーは姉の言葉を全力で肯定してきた。
「オリア殿、もちろん私たちはフィーアが素晴らしいことを理解しているが、その理解度は、実際の彼女の素晴らしさから比べると欠片ほどでしかない。私たちの不明の部分を補足していただき、彼女の素晴らしさを理解する手助けをしていただけたことに、感謝申し上げる」
……優しいのよね、ブルーは。
まあ、それで姉さんが満足するのならば、いいかもしれないわね。
そう思った私は、それ以上何もいうことなく、満足気な姉さんやグリーン、ブルーと部屋を出た。
その後、姉さんは普段通りの親切さで、私たち3人に砦の中を案内してくれた。
途中、途中で出会う騎士たち皆から、姉さんは声を掛けられている。
やっぱり姉さんはどこでも人気者なのね! と誇らしく思っている間に砦の案内が終了し、姉さんは最後に出会った騎士にグリーンとブルーの世話を頼んでいた。
「この2人は協力騎士よ。幾晩かこの砦に滞在するだろうから、宿泊部屋に案内してあげて」
その日は特段やることがなかったので、姉さんにくっついて回った。
姉さんは働き者で、次から次に仕事をこなすものだから、同じタイミングで次々に新たな仕事が増えていく。
私は姉さんの半分の半分も手伝えなかったのだけれど、姉さんはいつだって嬉しそうに見ていてくれて褒めてくれた。
そして、姉さんにくっついていたおかげで、砦の多くの騎士たちと仲良くなることが出来た。
夜は、姉さんと一緒に眠った。
姉さんは私が小さかった頃どんなに可愛かったかだとか、どんなに手を焼いただとか、領地で一緒に訓練をしていたことだとか、成人の儀の時に心配したことだとか、そんな話をずっと、私が眠るまでしてくれた。
それらの話を聞いていると、ガイ団長を見た時からざわついていた心がすっと落ち着いてきて、「ああ、そうだわ」と納得する気持ちがすとんと胸の中に落ちてきた。
―――そうだ、私はフィーア・ルードなのだわ。
前世の記憶を持っていて、その記憶と共に大聖女の力を保持することになったけれど、それでも私を形作っているのは、15年間生きてきたフィーア・ルードとしての私なのだ。
騎士になりたくて、小さい頃から訓練をしてきた私。
姉さんにずっとずっと世話を焼いてもらってきた私。
それらの全てが、今の私を形作っているのだ。
……だから、私はこれからもフィーア・ルードとして生きていくため、過去と向き合わなければいけない。
ブランケットの中で自身を抱きしめるように体を丸めると、ゆっくりゆっくりと息を吐き出す。
……大丈夫、大丈夫。
今の私は安全だわ。
だけど、……明日の私、明日の姉さんは安全かどうか分からないから、……私は逃げてはいけないのだ。
抱きしめる腕に力を入れると、自然と意識は前世での最期の時に移っていく。
すると、どきどきと凄い速さで心臓が拍動し、汗が噴き出し始めた。
姉さんの声を聞きながら眠りに落ちかけていた体は、心地よい温かさに包まれていたはずなのだけれど、一瞬にしてがくがくと全身が震え始める。
ねっとりとした気持ち悪さに体中を這って回られ、息苦しさと寒気に襲われる。
……ああ、ダメだ。
『魔王の右腕』のことを考えようとすると、いつだって体が拒絶反応を示す。
おかげで、前世の最期の部分の記憶は曖昧なままだ。
靄に包まれたようなうっすらとした記憶だけで、はっきりとは戻らない。
けれど……
私は両手で口元を押さえると、恐怖でがちがちと鳴り始めた歯の震えを止めるため、強く歯を食いしばった。
体全体が恐怖で記憶の覚醒を拒絶している。
今までの私だったなら、間違いなく全身の緊張状態の解除を優先させる状況だ。
けれど、―――それではいけないと思う。
『前世の最期を思い出さなければいけない!』という強い気持ちが、胸の奥底から湧き上がってくる。
それは、前世の記憶が蘇って以来、私と関わりのある全ての人がくれた勇気のおかげだった。
―――私の大事な人たちを、守りたい。
―――私の大好きな人たちと、続く未来を過ごしていきたい。
その気持ちに後押しされるかのように、少しずつ少しずつ前世の記憶が紐解かれていく。
記憶が戻った当初には気付かなかった事実が、少しずつ見えてくる。
私は『魔王の右腕』に出遭う直前の時間を、……前世の兄3人とともに魔王城に踏み込んだ時のことを思い出していた。
―――ああ、そうだ。……私は魔王を………
目の前にはっきりと、魔王と対峙した時の情景が浮かんでくる。それから、魔王と戦い終わった後の情景が。
―――魔王は最期、どうなったのか? (……覚えている。思い出せる)
―――血にまみれ、地面に倒れ伏していたのか? (……いいえ、違う。その場に魔王の姿はなかった)
なぜなら……、なぜなら………
かちかち、かちかちと歯が鳴り始める。
どんなに自身を抱きしめても、震えがおさまらない。
目を瞑っていてもはっきりと、300年前の情景が瞼の裏に浮かび上がる。
血だらけの兄たち。血だらけの私。そして、1つの箱。
―――その箱に閉じ込めたものは、何だったのか?
簡単な質問だ。今となっては、はっきりと思い出せる。
……ああ、そうだ。
私は300年前、魔王を―――『封じた』のだ。
瞑った瞼の裏に浮かぶのは、空となった魔王城の玉座。高揚する兄たち。その手に握られた1つの箱。
―――その箱の中に、私たちは魔王を封じた。
全力を出し、魔力を使い切って、ボロボロになりながら、兄たちと私で魔王をその箱に閉じ込めたのだ。
………そうだ。
300年前に「大聖女」だった私が行ったことは、魔王の活動を停止させたことで、殺すことではなかった……