84 慰問式8
足が立つくらいの浅瀬に到着すると、シリル団長は私を背中から降ろしてくれた。
足場には柔らかい砂が溜まっていて、砂だと思っていなかった私は、一歩目を踏み出したままよろけてしまう。
すると、咄嗟にシリル団長が腕を掴み、そのまま団長の腕につかまらせてくれた。
カーティス団長は数メートル後ろから、まるで私を警護するかのようについてくる。
じゃぶじゃぶと水の中を歩いていると、砂浜にびっしりと住民たちが連なって、私たちを待ってくれているのが視界に入った。
まあ、本当に親切な気質だこと。崖から落ちた騎士や私を心配してくれて、見に来てくれたのね。
そう思いながら、できるだけ速足で海の中を歩く。
すると、ちょうど夜明けの時間となったようで、空がうっすらと白み始めた。
朝日の鮮やかな光が、暗かった海を照らし始める。
「夜明けですね。もう少し早ければ、暗かった海を照らしてもらえたのに」
残念でしたね、とシリル団長に話しかける。
朝日が海を照らしてくれていたら、海に落ちた騎士を簡単に見つけられて、こんな風に100人以上の人が海に飛び込む事態になんてならなかったでしょうに。
そう思いながら、じゃぶじゃぶと海の中を歩く。
だんだんと浜辺に近付いてきたため、既に水面は膝よりも低い位置になっていた。
住民たちの顔が見えるくらいの距離になったので、にっこりと微笑んで、シリル団長につかまっていない方の手を振る。
すると、なぜか住民たちは全員、驚愕したような表情で私を見つめてきた。
「……へ?」
あっ、も、もしかして、笑顔で手を振ったことを、非常識だと思われたのかしら?
元はと言えば、海に落ちた騎士を探していたはずが、なぜだか私まで海に落ちてしまったことが発端だわと、遅まきながら思い当たる。
そのせいで、心配してくれた騎士や住民たちが海に飛び込んできてくれて、式典の途中だというのにそれどころじゃなくなってしまったんだったわ。
まあ、どうみたって混乱の原因は私じゃないの。へらへらと笑っている場合じゃなかったわ。
そう思って、今更ながら神妙な顔を作ると、ちらりと住民たちを見つめてみる。
すると、私と目が合った住民たちは、まるで雷にでも打たれたかのように、ばたばたと地面に倒れ始めた。
「へっ? ど、どうしたんですか!?」
驚いてシリル団長の腕から手を放し、浜に向かって駆けていく。
すると、雷に打たれた範囲が恐ろしい勢いで広がって行き、ばたばたばたと住民の誰もが地面にうずくまり始め、立っている者は1人もいなくなった。
「……は?」
これは一体どういうことだろうと思って住民たちに近付くと、彼らは砂浜に跪き、祈るような姿勢を取っていた。
「……ああ、大聖女様」
「言い伝えの通りに、何と尊い……」
途切れ途切れの声が聞こえてくるけれど、意味不明のため首を傾げるしかない。
―――その時の私は、全く思い至っていなかったのだけれど。
後から、カーティス団長に教えられた話によると、その時の私は、300年前にサザランドの住民たちを黄紋病から救った際の大聖女の状況に、よく似ていたとのことだった。
水色のドレスを着て、赤く長い髪をなびかせて微笑んでいる大聖女。
その大聖女の赤い髪を後ろから照らす、差し始めの陽の光。
朝焼けの光が大聖女の赤い髪と混じり合い、どこまでが朝焼けの赤で、どこからが大聖女の赤い髪かの境界を曖昧にする。
―――それは、サザランドの民が言い伝えてきた情景通りの光景だったのだろうと、カーティス団長は説明してくれた。
だからこそ、その時の私の姿に、住民たちは大聖女の姿を見たのだろうと。
後ほど、カーティス団長から説明を受けた際には、『なるほど』と納得したのだけれど、その時の私は状況を把握できておらず、住民たちの行動にただ首を傾げていただけだった。
けれど、そんな状況を把握できていない私に構うことなく、皆の間から一人の男性が立ち上がり、声を上げた。
「皆の者、この光景を覚えておくのだ! この色を!」
よく見ると、発言している人物はラデク族長だった。
「暁に混じる赤い髪、水色のドレス、何もかもが伝説の通りだ。―――これが、暁の大聖女様だ!」
「ちょ……!」
突然のラデク族長の煽り文句に驚いた私は、咄嗟に制止しようとしたけれど、隣にいたカーティス団長から見逃してほしいと頭を下げられる。
「フィー様、もしよければこのまま、住民たちの好きにさせてやってください」
「い、いや、でも、カーティス、これはさすがに……!!」
大袈裟すぎるわと、言葉を続けようとした私の耳元に口を近付けると、カーティス団長は私にしか聞こえない程の小声でささやいた。
「大聖女セラフィーナ様に対して、300年前の住民たちは思い残すことがありました。……人の思いは、どんどんと降り積もっていくものです。そのため、思いを引き継いだ住民たちの言動は、大仰なものになってしまったのです。ここで彼らを制止すると、更に思いが積み重なることになると思われます」
「カ、カーティス。あなたが離島の民に肩入れするのは分かるけれど、そ……、それは脅しじゃないかしら?」
思わず言い返すと、カーティス団長はきょとんとしたように見返してきた。
「脅す? あなた様を? 私が? 千年経ってもあり得ないことです」
くっ、カーティス団長のど天然め。
何も首元を絞め上げて、恐ろしい言葉を連ねることだけが脅しじゃないということを、分かっていないわね。
そう思いながら、カーティス団長に言い返そうとした私だったけれど、その時、あり得ない声が降ってきたため、びくりと体を強張らせる。
「夜間水泳大会とは珍しいと思っていたが、今度は何だ? フィーア、なぜお前が崇め奉られている?」
「……へ?」
聞き覚えのある、従えさせる者特有の声が聞こえてきたものの、それは、この場には絶対にいるはずのない人物の声だったので、ぱちぱちと瞬きをする。
それから、恐る恐る声がした方を振りむくと、―――そこには、あり得ないことに、朝日を浴びて燦然と輝く、黒竜騎士団総長の姿があった。
真っ黒い馬に騎乗したまま、黒いマントをはためかせている隻眼の美丈夫は、多くの騎士を従えて、堂々たる威容をさらしていた。
住民たちは、突然現れた人物が何者かまでは思い至っていないようではあったけれど、尋常ではない威圧感を感じ取り、ひるんだように後ずさりしている。
「サ、サヴィス総長? ……ほ、本物ですか?」
サヴィス総長がこの場にいる可能性と、総長のそっくりさんが存在する可能性と、どちらの確率が高いのかしらと思いながら、恐る恐る問いかける。
すると、総長はふっと可笑しそうに笑い、ゆっくりと馬を進めてきた。
「どうだろうな? 確かめてみろ」
総長の言葉を聞いた私は、思わず顔をしかめた。
何を言っているんだ、総長は?
いくら王都を離れて解放感を味わっているにしても、お戯れが過ぎますよ。
そう思いながらも、相手は私の最上位の上司だ。
じゃぶじゃぶと海から抜け出すと、慌てて総長の前まで走り寄る。
サヴィス総長は私の数歩手前で馬を止めると、ひらりと馬から飛び降りた。
それから、私の頭のてっぺんから足先までがびちょびちょに濡れているのに気付くと、呆れたように片方の眉を上げる。
「ドレス姿で夜間遊泳か? お前は何をやっている? 我が騎士団が誇る騎士団長が2人も付いていながら、お前ひとりを止められないのか」
私の後ろに起立しているシリル団長とカーティス団長をちらりと見ると、総長はぱちりぱちりと身にまとっていたマントの飾り留めを外し、流れるような動作でマントを脱ぎ去った。
わあ、さすが総長、マントを脱ぐ動作ですら様になるわねと感心していると、気付いた時にはそのマントを頭から被せられていた。
「へ?」
突然、視界にマント裏地の赤い色が飛び込んできたため、驚いてぱちぱちと瞬きをしていると、総長は私の身体にマントを一巻きする形で手を放した。
「濡れたままだと風邪をひく。着替えてこい。……何と言っても、神聖にして不可侵なる大聖女様だからな」
そう言うと、サヴィス総長は面白そうににやりと唇の端をつり上げた。
「え、あ、それは……!」
驚いて声を上げたけれど、サヴィス総長の発言を聞いて、なぜ総長がこの場にいるのかをおぼろげながら理解する。
な、なんということかしら!
私が大聖女の生まれ変わりだっていう話は、あくまでサザランドにいる時だけの話で、この地を離れたらうやむやになると思っていたのに!
この感じだと、私が大聖女だと見做されている案件は、総長まで報告が上がっているに違いないわ。
あああ、そうよね。改めて考えてみれば、これって重要案件よね。
どうして、上の上まで報告されるって、思い至らなかったのかしら。
そして、サヴィス総長は現場を大切にするから、報告を受けるとすぐに、自分の目で確認しようと、馬を飛ばしてこの地まできたんだわ。
こんな時間に到着するということは、きっと夜間も含めて馬を駆けさせたはずよ。
あああ、お付きの騎士たちは大変ね。
そして、総長から面白そうに見つめられている私も大変だわ。というか、こんな状況、逃げの一択しかないわよね。
私は一瞬にして神妙な表情を作ると、ぺこりと総長に向かって頭を下げた。
「おっしゃる通りですね、総長。風邪などひいて皆に迷惑をかけるなど、もっての外です。総長のお申し付け通り、服を着替えてまいります」
そして、シリル団長やカーティス団長から制止が掛かる前に、脱兎のごとく走り出そうとした……けれど、住民たちから声を掛けられてしまう。
「大聖女様、タオル! タオルをどうぞ!」
「大聖女様、お怪我はありませんか?」
「大聖女様、温かい飲み物です! 一口だけでもお飲みください」
砂浜に跪いていた住民たちだったけれど、私がこの場から逃げ出そうとしたことを敏感に感じ取ったようで、慌てた様に立ち上がってくると、私の周りを取り囲んでくる。
「え、あ、その……、も、もうマントもあるし、お気持ちだけで……」
言いながら気付いたけれど、私は総長のマントを頭から被っているのだったわ。
これは、どうすればいいのかしら?
洗って返そうにも、下手に洗うと生地が傷むんじゃないかしら。
あああ、親切にされて有難いのは間違いないんだけど、分不相応に高級な対応をされると、困る部分も出てくるわよね。
そう考え、もたもたしている間に、砂浜を踏みしめる音がして、私の後ろに総長が立った。
ぎゃふん、前門の住民、後門のサヴィス総長ですか。
やばいですね、早めに逃げ出さないと。
そう考え、退路を探してさり気なく周りを見回すと、左右を塞がれていることに気付く。
ぎゃふふん! 左側にシリル団長、右側にカーティス団長までいるじゃないですか。
ええと……これは、四面楚歌と言うのではないのでしょうか。
誰か、逃げ道を教えてください。









