舞踏会の話
花子に見送られ豪奢な馬車の中、礼服に袖を通した魔王は優雅に足を組み空に瞬く星の輝きを見つめていた。ペガサスに引かれる馬車は夜風を道として揺れひとつ起こさずに走っている。
「それで、どうすればいいんだ?」
「…ルカ、まさかとは思うのだけど貴方まさか私を頼りに舞踏会を乗り切ろうとしているのかしら?」
「だって考えてもみろよ、俺元は普通の平民だし、夜会とかある時代に生まれてないし、そもそも嫁もいない!」
サリィは2人きりの時だけに許された愛称で魔王を呼んだ。とは言っても空気が甘くなる事はなくその声色は咎めるものでしかなかったが。ルキウスというヒトとしての名は魔王である青年にとって、もはやあまり意味のないものである。それをあえて使うのは友人としての言葉であるという意思表示である。
さて、想像以上に何も考えていない魔王の言葉を聞いたサリィは美しい顔を歪ませ眉間を揉む、悩ましいがその言葉を責めるのは理不尽なことだ。彼は一時英雄としてもてはやされたことがあるが基本的に悪しきものとして扱われ、その生涯の殆どを城で過ごしヒトとの交流を避けてきた。憎しみはもうない、同時に交わる理由もなかった。そんな彼が社交界の礼儀など知るはずもなく今夜は正真正銘初めてのデビュタントということになる。肉体年齢でも21、実年齢としても凡そ7000にして、だ。サリィは夢魔の性質上ヒトの生活には馴染んでいたし、たまに社交界で侍女や警備の者の真似事をして罪なき老若男女を惑わせるタチの悪いイタズラを仕掛けることもある。けれども魔王のチューターとして同伴することになるとは考えてもみなかった。
「頭が痛いわ…」
「ん?癒してやろうか」
「ほざかないで、頭痛の原因。まさか踊らずに帰るつもりではないわよね」
「え、ダメなのか」
「…はぁ、いいこと。私だって長居したくないけれど、国王主催の舞踏会とはいえ最上の客は私達、ここは分かるでしょう?」
「まぁ、そりゃな」
「それを顔見せだけで帰ったら、貴方が退屈したからさっさと帰ったと思われてもおかしくないわ」
「それくらい分かるが…魔王がいる舞踏会を楽しく過ごせるか?招待された人間が可哀想だろ」
この魔王は何も分かっていないらしい、重い溜息をついてから魔王の目をしっかりと見返した。この男はヒトの存在をろくに意識しないわりには強大な存在がいる事についての弱者の反応には敏感だ、おそらくは過去に起因するのだろうがあえて指摘はしまい。しかし今からする事は戦ではなく社交なのだ、こちらに手を出す命知らずなどいるはずもないしマナーを教えてやらねばならない。
「馬鹿ね、そりゃ緊迫はするだろうけど生きる伝説が姿を見せるのよ?むしろ話題の中心、他国の人間も多少混ざっているでしょうけど魔王を見たとなればそれは経験としてアドバンテージになる。最後までいてくれた方が向こうだって嬉しいのよ」
「えぇ…?じゃあお開きの手前で退散することにするか」
「賢明ね。で、1番の問題だけど貴方踊れるの?」
「…え?座ってちゃダメなのか。貴賓席とかあるだろ」
魔王の当惑した表情にサリィは目を丸くした。招待されたのは舞踏会だ、そこで踊らなくてはいけないか、という疑問が出てくるなど夢にも思わない。踊る機会はなかっただろうが挨拶だけで済ませる気だったとは、先ほどの忠告もどれほど響いているのか分かったものではない。
「踊れないの?」
「ステップは知ってるが踊ったことはな…睨むな、睨むなって」
「はぁ、器用大富豪な貴方なら問題ないと思うけど一曲くらいちゃんと踊ってもらうわよ、あとエスコートもちゃんとして」
「面倒くさい、なんで人間の社交界のルールに従わなきゃならんのか」
「オトモダチは作らなくていいわ、王族に挨拶した後は貴方のお喋りに付き合ってあげる」
焼付け刃どころではないステップは果たしてどこまで通用するのだろう、サリィは小さく溜息をついて小窓から月を見上げた。
「これはこれは、魔王様!本当に御足労下さるとは感激の至りにございます」
「そういうのはいい、一度くらいはヒトの真似事をしてやろうという気になっただけだ」
「は、はぁ」
「適当に過ごせ、それに余計な気も回すな」
「か、畏まりました」
魔王の前に現れた男はまるで公爵家に対する子爵のような態度であったがそうして頭を下げた壮年は間違いなくマリエラ王国の国主であった。それを手で制して魔王は自分達に刺さる畏怖、嫌悪、羨望、様々な視線に構うこともなく城内のホールの最奥に用意された貴賓席へと向かっていった。花子はああいったが魔王とて並みの人間とは隔絶した美貌を持つ男であった。黄金を溶かし込んだ瞳が極上の美を見つめて手を差し出す、その光景を絵画だと勘違いした人々をどうして責められよう。まるで女神と恋に落ちた妖精の一幕を見せられているようだった、自らの美しさに誇りを持つエルフ族とてこの2人を前にしては髪のほつれから何までを口実に前には出ないだろうと思わせるものがある。
あくまで表面上はこのマリエラ王国が神に背く大罪を働いたレイテ王国を諌めたという事にはなっているが、それはあくまで体裁を気にしたものに過ぎない。マリエラが誇る騎士団は団長から新米に至るまで鞘から剣を抜くことを許されなかった。一瞬でレイテの城が結界に囲われ中にいた兵士は眠りの魔法によって気を失った、アミュレットの守りがあった者達も含めてだ。瞬きの内にほとんどが終わっていた、魔導師団員50人、詠唱や魔力の精錬に半日を要するほどの大魔術は魔王が指を鳴らすだけで発現した。その場にいた人々は夢の中にいるのかと錯覚したが惚ける暇はなく魔王に中の人間を捉えることを命じられ血相をかけて城内へと走っていったのだった。そして帰ろうとした魔王はといえば勇者に捕まり2時間に渡る死闘を繰り広げたわけだが、その全貌を知る者は当人達のみだ、一瞬を目にしたマリエラの隊士はその恐ろしさに泡を吹いて倒れたという。
この舞踏会は本当に形而上のものだ、マリエラ王国がレイテ王国を領土の内としたという対外的なポーズに過ぎない。たとえその真実を誰もが知っていようとも、声高に主張するわけにはいかないのだ、何せそれこそが魔王の命じた事だから。本人は神の代行者として力を振るっただけであり、それを魔王の意思としてしまえばその国を治める義務が生じる。そこはヒトの手に委ねなくては何も知らぬ民草が哀れに過ぎる。まぁ、単純に面倒で興味がなかったというのもあるがそれはそれだ。
マリエラの王は臆病ではあるが愚かではなかったので魔王が人々の愚鈍さに怒りを示した時真っ先に手を挙げた。これ以上この男を怒らせてはいけないと一瞬で理解出来たのだ。まさか招待に応じてくれることまでは考えなかったがそれも僥倖というもの、真っ先に手を伸ばしたが故の幸運である。なのでどうにかこの2人の魔性に好印象を持たせようと生きてきた中でこれ以上なく気を払い忠臣達にあれやこれやと指令を出すことにしたのだった。
果たして、一級の演奏、特上の酒、豪奢な品々、麗しい女達は出る幕もなかったが様々な心尽くしの中魔王の心を揺らしたものといえばあまりにも取るに足らないものであった。
「俺アイスって初めて食べた!」
「まさか魔王が甘味にはしゃぐとは誰も思っていなかったでしょうね…」
「冷たくて不思議な味だな。んー…乳に、卵に、砂糖…あ、蜂蜜も入ってたりするか?これもなかなか美味いが小さくした果実を混ぜたらもっといいと思わないか?城に帰ったら試してみよう、やっぱ働きたいな俺も」
「やめてちょうだい、店が可哀想だわ」
何か軽く食べられるものをと要求してみたところ可哀想なくらいに震えた給仕は最近流行っているアイスを持ってきたのだった。実際のところ魔王は、何もかも極上の物を知りながら少しの興味も持てなかった。が、最近知った甘味というものは別であった。花子は少しだけ勘違いしていたが彼は甘いものが好きなわけではない、無駄なものに興味を持っただけだったのだ。
女も、男も良いだろう。目を潤し肉欲を満たす蜜となる。
宝石も、絵画も良いだろう。優越感に浸り夢を見る欠片になる。
剣も杖もいいだろう。それらを振るい戦場に立つ自分に心を震わせられる。
だが甘味というのは何の為にあるのか、食事であれば無論生きる為だし酒であったら水の代わりにもヒトの口を滑らす道具にもなる。けれど特別必要なものでは無いはずだ、調度品やら嗜好品というものは持っているだけで所有者の格を示せるが甘味などどれほど持っていて口にしたところで何の役にも立ちはしない、あまりに無駄だ、余分であり、余裕だ。その在り方が必要なものさえあればいいという信条の魔王にとって衝撃を与えたのであった。なんというかおもちゃの存在を知った子供のような動機である。サリィはといえばそれにうっすら気が付いていたようで、にこにこと楽しそうにスプーンでアイスを掬う魔王の横顔を呆れたように眺めていた。
「にしてもチラチラと視線がウザいなー、別室とかないのか?」
「行きの話を忘れてるんじゃないでしょうね」
「まさか、ただ気になるなら挨拶でもしにくりゃいいのにって、ヒソヒソ声のつもりなんだろうけど俺からは丸聞こえなんだよなぁ」
おそらくはあらゆる接待をあしらってアイスを頬張っていることも手伝っているだろうが殆どこの場に存在する全ての目は2人へと向けられていた。勿論伺うように数秒という具合だったが積み重なれば苛立ちを感じるのも無理はない。小さくため息をついて1人の男に目を留めたと思えば魔王は指先を小さく動かした。するとその男は突然貴賓席の前へと移動した、いや、移動させられた。当人はというと突然変わった景色の目の先に座る人物に理解が追いついていないようで目を白黒させている。
「は………?」
「よぉ、突然すまん、ルナール公爵って名前であってる?」
「………は、は、はははいッ」
「そう堅くなるなよ、行儀が悪かったのは謝るからさ。お前は王家を除いたらここで一番上、見たところ社交性もあるよな?」
「じ、自分には分かりかねます」
「だよなぁ、意地の悪い質問だった。まぁそんな公爵にお願いがあってさ」
がちがちとルナール公爵の奥歯が鳴っている。この男は実際社交界においては一目を置かれ、軍部でも上位の位置にあったが今この場においてそんなものは何の役にも立たないどころか魔王直々に呼ばれているということで生死に関わる邪魔なものでしか無いとさえ思った。魔王の持つスプーンが首を狩る斧にさえ見える。先ほどまでルナールと歓談していた人々も誰もがその問答に恐れを感じていた。遂にこの怪物を怒らせてしまったのではないかと唾さえも飲み込めなかった。さて、そんな緊張すら知らぬという顔で魔王はあっけからんと言ってみせたのであった。
「聞きたいことあるんだろ、今全部あんたに話せば解決するよな?」
「…まぁ美味いとは言ったけど会場にあるだけ持ってこいとは」
「貴方が奇行に走るからよ」
「確かに。でもこれで視線も噂話も解消されたし結果オーライってやつだな」
「…肝心なところで人間に合わせる気がないのはどうかと思うわ」
そんなものは無いと顔面蒼白で言うルナール公爵に暗示をかけ、喋らせ尽くし解放してやると健康的な顔は明日にでも死ぬのではと思わせるほど疲弊していた。明日彼は起き上がることができるのだろうかとサリィが心配したほどだ。そしてテーブルの上には機嫌を損ねぬようにと所狭しにアイスが並べられている。食べきれなくはないが持ち帰りたいとと2人で話していると1人の影が近付いてきた。
「魔王様」
「ん?」
「ご無礼をお許しくださいませ、ロクサーナ・ラ・レンフィス・マリエラと申します」
「あ、王女か。聞きたいことが?」
「いえ、厚かましくも嘆願に参りました」
二の舞にはなるまいと視線さえ届かなくなった中で王女は毅然と魔王に向かい合った。しかしその目の底には微かな恐れが見える。それを確かめた上で魔王は軽く頷き先を促す、美しい唇が一瞬戦慄き、意を決したように開かれた。
「マリエラ王国と友誼を結んでいただけないでしょうか」
静寂が場を支配した、その鋭さは刃のようで言葉の重さは有象無象の心臓を掴むようだった。国王はといえば酸欠に喘ぐ魚のようにぱくぱくと口を動かしている。サリィでさえも目を丸くし、ふざけた調子の魔王はといえば僅かに目を細めて王女の方に身体を向けた。
「それは国王から?」
「いいえ、私の恥知らずな想いからです」
「………ふむ、で、俺に何を求める」
「何も。舞踏会の出席も、戦での援軍要請も致しません、ただこの国の名を歴史が終わる時まで覚えていてくださればと」
「却下だ」
取りつく島もない言葉に王女の美しい顔は色を失い、聴衆たちは恐れから小さく声を漏らした。国王は玉座から転がるようにして近くまで寄り今にも土下座をするばかりの慌てようである。王女の独断とはいえ気を損ねるようであれば強大な力がこの国に振るわれると最悪の想像を頭に浮かべながら縺れる舌を動かした。
「ま、魔王様!」
「控えろ、今俺はロクサーナと話をしてる」
「しかし…!」
「まぁ聞け、あと落ち着けよ。俺の立場で国に肩入れするとちょっと流石にまずいだろ」
ずっと腰掛けていた椅子から徐ろに立ち上がり魔王は一歩王女へ近付いた。王女が後ずさらなかったのは恐怖ゆえか覚悟故か。それを見ると魔王は少し表情を和らげた。
「だが、俺個人がお前の友人になるくらいはできる」
「え………?」
続いた言葉に面食らったのは王女だけではなかった。国王も、聴衆も、サリィでさえも驚きに数度瞬きしている。その戸惑いに知らんぷりをすると魔王は胸に手を当て腰を折り曲げて一礼をしてみせた。それはまるで真っ当な舞踏会で淑女に礼を払う紳士のようで。
「あ、あの」
「さて、この野蛮な男と一曲踊っていただけますか、王女様」
魔王は少し顔を上げ片目を瞑った、それにやっと安堵して少し戸惑いを残した王女が頷く。少し遅れて演奏団は慌てたように旋律を奏でていた。
「俺の社交界デビューはどうだった?サリィ」
「最低最悪。国を振り回すのはやめなさい」
「ははは、いや、でも面白かったぞ」
ダンスへの心配は杞憂でしかなく、この男は結局完璧に踊りきってみせた。呆れ顔のサリィに苦笑いを零して帰りの馬車の中夜空を見つめる魔王は文字通りマリエラ王国を引っ掻き回した。あの空気の中自分の意思で魔王へ言葉をかけた王女に敬意を払って友人と言い出しただけなのだが、国と友誼を結ぶこととそう変わらない事に気付いているやらいないやら、どっと疲れたと美しい女は似合わぬ大きなため息をついた。ただ一つ確かなことは、あの国王が今夜悪夢に魘されるだろうという事だけだった。
年始忙しく更新が滞ってしまいました。申し訳ありません。
話の長さが定まらないことに定評のあるこの連載ですが大局が花子なしで進むこと、別視点の話は一話に収めるという事だけは徹底したいと思っています。次からはまた気の抜けた話が続く予定です。