シナントロープ
リストカット先輩はよく中庭に出没し、草むしりをしている。親指と人差し指で雑草の先端をつまんで、ぶちっと切っている。中途半端に残されてぬるい風にゆられる草を、リストカット先輩は容赦しない。ぶちっ、ぶちっ、ぶちっ。昔は髪を抜いていたらしい。今はさっぱりと坊主にしている。
晴れた日より雨の日に屋外で遭遇する人がいる。リストカット先輩は傘ももたずに中庭のベンチに座っている。ベンチの後ろにある大きな木の葉がつよく叩きつける雨の力でぱらぱらと落ちて頭や頬にはりついても、先輩はまったく動こうとしない。中庭に面した靴箱からその姿を目撃したとき、ぼくは持っていた傘を開くのも忘れて、リストカット先輩の前に躍り出た。
「乳首が透けて見えますよ」
「そんなことは……なかろう」
後日、草をむしっているリストカット先輩のもとを訪ねると、彼は「きみがいきなり話しかけるから」と地面を見ながらに呟いた。
「変な話し方になってしまった」
「先輩、かっこいいですよね。好きな人いますか」
むしられてちりぢりになった草をかきあつめて山を作っていると、リストカット先輩は手を止めた。そのまま無表情で顔を近づけてくる。ぼくと彼の膝と膝とがぶつかったが、しかし先輩は一歩も退くどころかさらに接近した。
「どこにもいない」
立ち上がったリストカット先輩のズボンにちぎれた草がついていた。払ってやろうと手を伸ばしたところで、彼の膝が顔面に刺さった。
次に会ったとき、ぼくはリストカット先輩に告白した。緑が依然として茂り、先輩が花を手折った日のことだった。茎についていた小さな虫を潰した彼は、ぼくのシャツで指をぬぐった。そのとき長袖で隠れていた先輩の手首が見えた。
「インターネットで拾ってきた風景写真を眺めて考えます。だれかに撮られた偶然の登場人物になれたら、そこから身動きできなくなっても、むしろ幸福だろうと」
リストカット先輩は花びらを一枚ずつつまんで、ぷち、ぷちとちぎっている。さらにその一枚を縦や横に割いて宙に投げる。ちょうど吹いた風に運ばれた花びらは噴水のなかに落ちて、水面に漂った。
「どうせいらない人生なら、ぼくにください」
「観葉植物として部屋の隅にでも置くのか」
「両親や友人と話しているとき、いつも思います。ぼくたちは一言目から終点にたどりついている。くりかえしは退屈です。何事も予期どおりに動くなら、この人生は機械に組み込まれている部品です。だけれど、無機物は過去をくりかえすことではじめて魂を宿します。生への渇望が人間を思い出作りに走らせるんです」
大きく、しかし繊細な手がちぎった雑草をかき集めて、ぼくの顔に投げつけた。
「よかろう」
本格的な夏、形式的な校則に従って人々が夏服を着てうちわで扇ぎ日陰で涼む中、リストカット先輩は長袖を着て熱風を浴び日向で暑がっていた。
「中間考査はどうでしたか」
ぐったりと短い草のベッドの上に横たわっていた先輩は、膝をついて見守るぼくを追っ払うように手をひらひらとさせて、空いた手でぷちぷちと雑草を抜いていた。
「少しひんやりしている」
むしった花をリストカット先輩の頭や首、肩に飾りつける。彼は身じろぎもしないで、ちらりとこちらを見たっきり、すでに短くなって掴めなくなった雑草の先端をつついている。
「明日、一緒に文房具を見にいきましょう」
「どうしてきみは今日の約束をしないんだ」
リストカット先輩の顎に蟻が這っていた。彼の肩に手を置いて、そっと息を吹く。蟻はほろっと落ちて見えなくなり、よじるように動いた先輩のからだから花々が落ちて、ぼくの唇が彼の肌に触れた。
「今日のことは今日で精一杯だからです。ぼくたちは一日を懸命に生きるために、やりたいことを明日に引き延ばし続けなければなりません」
「しかし明日に文房具を買うとすると、今日の宿題はどうする」
少し顔を遠ざけて深呼吸をする。草と汗に混じって、真新しい血のにおいがする。
「それは、明後日に延期です」
しょっぱい風の吹く坂道を、ぼくは自転車で下っている。正当な持ち主であるリストカット先輩はその後ろに座って、たびたび転がり、打撲しながらも立ち上がってめげずにぼくの服を中指と人差し指で挟む。
「先輩はバイク派ですか、車派ですか」
「バイク」
原型をとどめない車体が血で濡れて色づく画を浮かべながら、いつもより重たいペダルを全身の力でこぐ。
「ぼくは、手段はなんでもいいです。行きたいところに行けるなら、スケボーでも宇宙船でも」
「どこに行きたい」
ふたたび坂が見えてきた。いやにでも視界に入る海が夕焼けでぎらぎらと照っている。目を細めながら、左右に揺れるハンドルを水平に保つ。
「斜面を駆けて駆けて駆け上がった先にあるものはなんだと思いますか」
急にペダルを踏む足が軽くなった。その勢いで坂をのぼりきって、下る。
「そういう場所にずっと止まっていたいんです」
ふたたび平坦な道までたどりついたとき、そっと後ろを振りかえる。先輩は坂の上でうつぶせに転がって、ぼくを見下ろしている。
「こんな場所か?」
まだだれにも踏まれていない落ち葉をひろいあげて、リストカット先輩はぼくの鼻先をひらりと撫でる。
「小学生のころ、よくこの公園でどんぐりや松ぼっくりを拾いました。マルバツゲームをするんです。木の枝で線を引いて、ぼくがどんぐりで、友達が松ぼっくりで」
「どんぐりは危険だ」
葉を一枚ずつ拾った先輩は、片手で持てなくなると顎で地面をさしてぼくに葉を集めさせる。両手で抱えようとする先輩の胸に一枚ずつ拾った葉を上から落としてゆく。くすぐったさから位置を変えた指のすきまから、黄色い葉がこぼれる。
「ゲーセンの、あれを思い出しますね。お菓子のタワーがあって、クレーンがあって、下に流れるお菓子があって、固い波が押し寄せるゲーム」
「きみの言っていることはよく分からん」
先輩が笑うたびに、葉がぱらぱらと舞い落ちる。急いでぼくが継ぎ足しても、笑いは加速してゆく。「もういい」リストカット先輩はそのまま歩き出して公園を出たと思うと、車道に落ち葉をぶちまけた。
「まさか、車に轢かれるとは思わなかっただろう」
超音波式の加湿器からのぼる霧に手をかざしながら、リストカット先輩はぼくの勉強机に頬をぺったりとつけて、まどろんでいる。
「姉が間違えて買ってしまったそうで」
体を起こした先輩が椅子をくるりと回転させたと思うと、そのまま立ち上がってぼくの隣に腰を掛ける。ベッドのふちに投げていた漫画がぽとっと床に落ちた。拾って面白いのかと尋ねる先輩に、読者の期待をいっさい裏切ることのない醜い物語ですと答える。漫画はふたたび床に置かれる。
「加湿に間違いがあるのか」
「水を超音波で拡散しているだけらしくて。沸かして殺菌しているわけではないんですね。だから毎日手入れをしないと、部屋中に菌をばらまくことになるそうです」
シーツにしわをつくる、先輩の鋭い指先に爪だけ触れる。だんだんと暗くなる部屋とは対照的にレースカーテンの白が明るくなってゆく。
「神秘的な話をしてもいいか」
「どうぞ」
「加湿器を部屋の片隅とその反対側に置く」
「はい」
「二種類の洗剤を用意する」
「はいはい」
「おれは仰向けになっている」
リストカット先輩はベッドに仰向けに寝転がって、ぼくと天井の真ん中を見た。
「それぞれの洗剤を入れた加湿器の電源を、きみがつけて、そのまま立ち去る」
ふたりの手袋を預けられた手袋ハンガーが揺れる、リストカット先輩の部屋には真新しいポスターが貼られている。歌手の、アイドルの、スポーツ選手の、政治家の、二次元の女の子の、画質の悪い日に焼けた女性の視線が卓袱台の前に座るぼくたちに集まる。
「座布団、ぺたんこで悪いな」
「だれかにずっと大切にされて愛されているのなら、きっと良いものに違いないです」
卓上に広げた参考書と筆記用具に埋もれながら、リストカット先輩の指がノートをやわらかそうにめくる。水を含んだ絆創膏がぷかぷかと肌から浮くように、ポスターがすべりこんだ温風によって膨らんでいる。
「時制の問題が苦手です。みなはどうして過去と現在の見分けがつくんでしょう? たとえば飼っていた猫が障子に穴を開けて尻尾を二回だけ振ったことがありました。その猫はもうすでにどこにもいません。だけれどぼくがそれを思い出すとき、飼っている猫が障子に穴を開けて尻尾を二回だけ振っているんです」
「歴史的現在形だ」
芯が紙を走って命を削る音が、声に、暖房に、時計の音にかき消される。ペンを投げ出して角房を指に巻いていると、先輩がぼくの横顔を見つめていることに気づいた。
「ゆずってもらったんだ。どうせいらないものだからと快く了承してくれた」
「悲しいでしょうね。自分の大好きなものを、大好きでいてほしかった人が好きに思っていないのって」
「そこまで繊細じゃなかった。きみぐらいの歳だったし」
「二年ぐらいしか変わらないです」
「初めて会ったとき、きみはおれとそっくりだと思った」
いつの間にか止まっていた先輩の指は卓袱台をひっくり返す寸前のように、縁にかけられている。
「ようやく想像できた。きみみたいな人間を不幸にするのは、本当に、気持ちいいんだな」
構造上、回転するはずのない手袋ハンガーがくるくるとぼくたちの上をまわっている。
「そろそろ宿題の答え合わせをはじめようか」
歩みに合わせて落ちる雪からリストカット先輩の赤い指が見える。振り向けばずらっと並ぶ他人の車に彼の道筋が残っている。少しずつ伸び始めた髪の毛に、粉のような雪が落ちてまもなく溶ける。
「先輩、受験されるそうですね」
「中学を出てすぐ働き出しても、多くの人間は、うまくいかない」
血が流れていると思えないぐらい白い肌に、かつては血がしたたり、そのせいでいっそう青くなっていた、はずだった。
「ぼく、褒められました。先輩が健康になったって。もうすこしまじめに進路を考えるようになったって」
「それはよかった」
風が運んだ冷気がしみる。
息まで凍る。
「手首、もう切ってないんですか」
「ああ」
「いつから」
「ああ……」
悴んだ指を口にふくんで、はきだして、先輩は濡れた手を、すでに先客のいるぼくのコートのポケットに、絡めるようにつっこんだ。
「きみと仲良くなってから」
「どうしてだか、わかります」
ひたむきな想いがすべてを救い、傷ついた者を癒やしたから?
そんな醜い理由はありえない。
「卒業後はもう会わないでしょうね」
「どうしてそう思う」
「ぼくが傷つくからです。そして先輩はやさしいからです」
「ほんとうにやさしいなら、一人で死んだよ」
濡れた指から引火したように、重なった指と指の関節が熱を帯びていた。指の腹に食い込んだ爪から滴っているとわかった。ぼくは歩きながら目を閉じていた。どうしようもない大停電のなかで、カーテンを開き、無心で星を数えるような安らかさで。何も見えなくても何もかもが見えていた。ぼくたちは一言目から終点にたどりついている。
このすべてが、自傷でしかなかった。
「美しい思い出は、美しいままではだめですか」
「よかろう」
すでにいなくなった人の後は追わない。
それでも春や、夏や、秋や、冬が来るたびに振り向いてしまう。
たとえ人工的に彩られたものだったとしても、どこにでも生える緑がくるぶしをくすぐるたびに、自然な一瞬もあったはずだったと探してしまう。
リストカット先輩はよく中庭に出没し、草むしりをしている。親指と人差し指で雑草の先端をつまんで、ぶちっと切っている……。
利己主義に生かされていた日々に奪われる。
ぼくは、もうだれも愛さないと思う。