ある夏の日の剣聖の卵
ルークス少年の朝は早い。
朝食の支度が始まるまでに厨房の水瓶に水を満たす事が、彼の朝一番の仕事になっている。
水瓶を満たす作業を終えると朝食の支度の手伝いだ。
とは言え、料理人ではない彼の仕事は野菜洗いや根菜の皮むきなどの軽い下準備に限られる。それが終わると前夜分とこの日に出た厨房の屑物を所定の収集所へ運ぶ作業。
一般家庭ならバケツ型の屑物入れをそのまま持って運び、下宿や料理屋のように大量の食事ゴミが出る場所では、猫車と呼ばれる一輪の手押し車を使う事もある。
朝もまだ早い時間、職種によっては既に動いていて当たり前の時刻ではあっても一般の勤め人の移動にはまだ早い。人通りの少ない朝の内に王都の外へ野菜くずや食べ残し類は運び出され、これらは家畜のエサや畑の肥料になるのだ。
この後、調理はしない彼には配膳や後片付けまでしばしの時間があった。
この間に下宿の若女将の配偶者であり、彼を拾ってくれたフレイドの指導のもとで冒険者としての訓練を行うのだが、現在はとりあえず基礎となる体力の向上が少年の課題になっている。
「まずはとにかく走り込め」
とはフレイドの言。
それに従い、ルークスはいまだ人影まばらな街路へと走り出す。
王都とは、その名の示す通りに王と王族の住む街である。国政の中心でありこの国の中で最も人口の集中している繁華な都。
そんな王都との言葉できらびやかで雅な街とのイメージを抱く者も多いだろうが、同時にこの街には冒険者の街と言う側面もある。
その為、ルークスのように体力づくりや体力の維持を目的に街路を走る者の姿は珍しくはなかった。
「おう、坊主、がんばれや!」
冬の終わりにこの街に来て以来、酷い雨でも降らない限りは毎日のように同じような時間走り込みを続けるうち、何人かの顔見知りも出来ている。
まだ体が出来上がっていないルークスとは違い中堅冒険者である激励の主は、ダンジョン探索時同様の装備で固めた上に背嚢を背負い、軽々と彼を追い越して行った。
少年も山奥生まれで足腰の強さには自信があったが、さすがにまだ現役の冒険者のような力はない。
「はい、がんばります……っ」
ルークスは走り去る大きな背に向け、そう言った。
もっと頑張って、もっと強くなりたい。もっと強くなろう。
それが彼の心の底からの願いだ。
幸いなことに彼は王都でも有名な冒険者に拾ってもらうことが出来ている。
今はまだ、冒険者の見習いである荷物持ちのさらに見習いの立場であり、冒険者としてのフレイドには一切貢献出来ていない。
にも拘わらず、彼はルークスに棲家を与えてくれた。
ここに来てからの彼は、日々、これまでの人生の中で味わったことがない程の贅沢な───王都の一般庶民としては平均以上の内容ではあるが、贅沢とまでは言わない程の───食事を与えられ、しかも下宿の下働きとして見苦しくないようにと衣服まで用意してもらっている。
自分は運が良い……と、そうルークスは思った。
母は幼い頃に病でこの世を去り、父は山中に湧き出した魔物と遭遇し、仲間の樵達を逃がすために魔物と戦い、その怪我が原因で命を失った。
彼の所属するコミュニティは小さいうえに貧しくて、親を失った子供を養いきれるだけの力を持っていなかった。
彼を外の世界へ放逐することになったのも力なき故であり、そこに悪意は存在していなかった。
山間の限界集落とでも言えば良いのだろうか。それまでは貧しいながらも時に酒を口にすることも出来る程度の余裕もあったの筈なのだが、恐らく少年の父親が亡くなった件により、消滅までの加速度がついてしまった、そんな集落だったのだ。
だから集落の長がルークスに離村証明を渡したのは、悪意ではなく親切心もあってのこと。
……たとえ、集落を離れる彼がほぼ着の身着のままわずかな食糧しか持たされていなかったとしても、彼の後ろ姿を見送る人々の胸の中に"口減らし"と言う言葉が罪悪感と共に刻まれていたとしても、彼らはどこかに少年が無事にたどり着き、なんとかその場所で命を繋ぎ生きていくことが出来るように祈っていたのは真実なのだから。
自分は、運が良い。
そうルークスは思っている。
山深い集落からなんとかダンジョン都市までたどり着き、隊商の雑用の仕事にありつけたのも幸運ならば、護衛として雇われたフレイド率いるパーティーと出会えた事もまた僥倖。
強くなりたいと言うルークスの願いは、彼の父の死に端を発する。
貧しくともごく平凡に、そしてささやかながらも幸せに暮らしていた日々に終わりを齎したのは、凡人には抗う事が難しい魔物と言う驚異から始まっているのだ。
小さな小さな幸せも、抗う力と術がなければあっけなく消えてしまう。
彼は父親を失い、もともと先細りではあったが人々が助け合い暮らしていた集落は、染み出した魔物の襲撃時、ルークスの父は亡くなり同時に幾人かの樵が怪我を負い、集落の共同財産であった駄馬もを喪ったことで子供の一人養う力も無くしてしまった。
その経験は少年に、幸せを守るには力が必要なのだと魂の深くまで刻み込むに十分な物だった。
もしもルークスが大きな町に暮らしていたのであれば、将来をその町を守る衛兵を目指したのかも知れない。けれど、彼の目指せる強者は『冒険者』以外に存在しないのだ。
離村証明を持っていてもある意味ルークスは流民に過ぎず、身元の不確かな者では衛兵にはなれないのだから。
彼の憎むのは、弱さと貧困。
冒険者なら土地を持つ当てのない農民の倅だろうが、舟を持てぬ漁師の末息子だろうが、身元の証明さえ持っていればなる事が出来た。
冒険者になれば強さを磨けるだけでなく、魔石と言う富も同時に得る事が出来る。
特に父親を魔物に殺されている彼にとって、それを狩る冒険者と言う生業以外は選択肢として頭の片隅にもかからない物になっていた。
朝の王都の街路では、現役の冒険者の他にもルークスのように基礎体力をつけようと走る少年や少女の姿もチラホラと見えている。
彼も未来の冒険者を目指すべく、時間の経過とともに上がりつつある夏の気温に汗を流しながら下宿で朝食の支度が行われている間を生真面目に走り通した。
朝食の時少し前、裏口から下宿に戻った少年は、再び井戸のところへ戻り頭からザバザバと水を浴び、身体を拭いて着替えをする。
冬場や春先にはさすがに厨房で湯を貰って身を清めるが、この季節ならむしろ冷たい水の方が心地よい。
フレイドの在宅時なら、彼もルークス同様に走り込みや戦斧を持っての訓練でかいた汗を一緒に流したりもするのだが、彼は二日前から王都のダンジョンに仲間と共に潜って不在だった。
厨房から漂うパンの焼ける香りに若い胃袋を刺激されながら、少年は下宿の娘、サイラと共に食堂のセッティングに向かう。
昔々、かつて今よりも貴族階級が強い力を持っていた頃、この下宿はとある貴族家当主の愛人に与えられた別宅だったそうだ。
美しく聡明な女は貴族家当主から家の権利を手に入れ、彼亡き後も本妻や当主の親族に追い出される事なくこの屋敷で暮らしたらしい。
彼女の息子がその後を引き継いだのだが、貴族家当主に母が贈られた金銭や貴金属での生活をずっと続けられるわけもなく、かと言って複数の使用人を必要とすることを前提とした広い屋敷に自分の家族だけで暮らしていくのも難しい。
彼は屋敷を売り払う事も考えたが思い出深い屋敷を手放すことも忍び難く、思い悩む彼に彼の息子が屋敷を高級宿として改装する事を提案した。
彼の息子は当時王都内でも有名な宿の娘と恋仲にあり、若干の打算混じりの提案ではあったが、彼はこの提案にのり、無駄に広く取られていた建物の外周の敷地を売却した。
母の残した遺産とその売却益で屋敷の改装を行い、彼の息子の結婚を機に屋敷は高級宿として生まれ変わることとなった。
それから時が流れ、現在、宿は下宿になっている。宿から下宿への業態変更が行われたのは二十年ほど前の話。
「───お婆ちゃんのお母さんがまだ生きてた頃のことだって母さん言ってたわ。まあ、建物も古いしその分宿泊費も控えめだったりとか、場所も便利だったせいなのか知らないけど、常連さん達、年単位とか月単位でいる人もその頃から多かったみたいだしね」
食堂のテーブルにカトラリー類をセットしながらサイラから語られる下宿の歴史に少年は耳を傾けた。
年齢こそ一歳ルークスの方が上だけれど、生まれた時から大人の下宿人たちに囲まれ人馴れたサイラにとって、朴訥な少年は"弟分"と言ったところ。
仕事を教え、共同でそれをこなすついでにあれこれ語ってあげるのが習慣となっている。
「貴族さまの血を引いてる上に、歴史ある家、なんですね」
「貴族って言ってもお妾さんの血筋よ。歴史だけはねぇ……見ての通りこの古い建物の分だけあるはあるけど、ボロ家は修繕費用が無駄に嵩むのよ。父さん大変よね」
と、サイラは笑う。
彼女の言う通り、フレイドの稼ぎの大半はこの屋敷の修繕の為に消えている。
実際のところサイラの言うほど下宿建物は"ボロ"ではない。
ただ単に、近年下宿の後継を表明した娘のため、彼女の代に修繕の必要がないように先回りして徹底的に改修しまくっていると言うのが本当のところ。
サイラの母エリサとの結婚時には、エリスが少しでも楽になるよう下宿内に高価な魔道具をどんどん導入し、娘の為に建物を改修しまくる……顔は厳ついが、Aランク冒険者フレイドは愛の為に貢ぐ男だった。
そんなこんなで食堂での朝食のセッティングが終わると、下宿人たちが来る前、一足先にサイラやルークス、在宅時にはフレイドやエリスらは朝食を摂り、食事が終わる頃にはポツポツと食堂には経宿人らも降りて来るので給仕や片付けの作業を行う。
朝食が終わると下宿の住民達もそれぞれ仕事へ向かう時間となった。
幾人かは下宿に居ながらにして作業の開始を迎えるが、たいていの者は勤め先に向かう。
ルークス少年の次の仕事は男性住民の部屋のリネン類の回収と彼らが所定のカゴに出す洗濯物の回収になる。なお女性住民の分はサイラかエリス、または通いで来る古くからの雇人が行っていた。
多感な時期の少年に向いた作業ではないので当然である。
リネン類と洗濯物の回収の流れで依頼のあった場合にのみ各部屋の清掃も行うのだが、それはサイラやエリス、古参の雇人達がメインで室内作業の殆どを行っていて、新参のルークスは拭き仕事で汚れたバケツの水の取り換えや雑巾洗い、ゴミ出しと言った補助に回る事になっていた。
彼の人となりについて大女将家族や従業員らも今はすっかり信用しているけれど、それでも部屋には住民の貴重品もあり、それぞれがどう言った掃除をして欲しいかの要望や好みがある為、彼にはまだ任されない部分も多いのだ。
彼に任されない仕事の中には厨房での手伝い以上の調理もある。
「アンタがここの仕事をこの先もずっとやってくれるんなら教え込みたいことはたくさんあるんだよ。いっそサイラの婿にでも来てくれないかってアタシなんかは思ってるんだけどね」
冗談めかし、だが半分以上は本心混じりで大女将マリベルは少年に言った。
しかし言葉での答えを聞くまでも無く、彼の目を見れば将来の夢は揺ぎ無く定まっているのは明らかで
「───まあ、そりゃ無理そうな話かねぇ」
と、マリベルは笑いながら肩をすくめた。
「あの……俺」
「ああ、気にすることはないさ。人間、夢やら目指すものがあるってのは良いことだ。商売柄おかしな人間は置けない場所だよ。アンタみたいに真面目な子がしばらくの間でも働いてくれるなら、アタシらも助かるからね」
「はい……ありがとうございます。頑張ります」
生真面目に言う少年の顔を見ながら、マリベルは彼の肩をポンと一つ叩き
「これまで通りで十分だよ」
と、笑った。
実際、ルークスは働き者で、頼まれた仕事の無い時には自分でやることを見つけて動くような少年だった。
部屋の掃除の補助作業に目途が立てば、下宿前の通りの掃き出しや表だけでなく裏路地側の雑草取りに、個室以外の共用部である廊下の女性や年配者では危険な高い部分の掃除、脚立を出したついでとばかりに裏庭の植物の剪定など、休むことなく働きまわる。
つい先日、住人から窓に育ち過ぎたリンゴの枝が近づき過ぎて室内に虫が入って来るので……との要望を受け、彼が枝を落とす作業をしていた時のこと。
少年と同じ裏庭にいて戦斧を手にトレーニングをしていたフレイドは、木陰で一時的に身体を休めながら彼と彼の将来についての話をした。
将来と言っても十年、二十年と言う先の話ではない。
ルークスの身体がもう少し育ち、パーティーの見習い兼荷物運びとしてダンジョンに潜るようになったらのことだ。
「おまえ、得物はなに使うつもりだ?」
見習いの荷物持ちがダンジョンで狩り……戦闘の参加することは殆どないのだが、皆無と言うわけでもない。危険な場所に不測の事態を想定せずに入るのは、愚か者のすること。だから荷物持ちと言ええ、最低限自分の身を護れる武器を携帯するのは当然だ。
ルークスは脚立の上、問題となっている部分の枝を切る手を止めて考えた。
「ダンジョンの中はよ、たぶんお前が想像してるよりは天井も高いし、かなり通路も広くなってるから得物の取り回しについちゃそれほど考慮するモンでもないぞ」
各地のダンジョン毎に、内装……と言うのも妙な言い方ではあるが、内部の仕様にはいくつかのパターンがあった。
例えばこの国の王都ダンジョンの場合、風化しかけの石窟寺院や神殿を彷彿とさせる列柱とアーチ型の天井、壁面には植物のレリーフで装飾された龕が納める仏像も神像もないまま規則的に穿たれ、時に行き止まり、時に分岐し、時に通路と同種の意匠を持つ大小のホールを擁する。
柱や壁を形成する灰白色の石材は、一見して時の経過で風化しかけてでもいるように、欠けや摩耗が見られるけれど、実際には石工が鑿を打ち込んでもひとかけらの切片さえ削り取れぬほど強固。
床も壁も天井もどんな道具を持ち込もうと、どんな強力な魔法を打ち込もうと、石屑すら落ちない頑丈さで、王都の中央通りほどの幅を持つ通路もホールも長柄の武器を振り回したところでビクともしない。
……むしろ下手に壁や柱に武器を接触させれば刃部分の方が刃こぼれを起こすほどだ。
少年はこうした説明を受けつつ考えるも、結局は冒険者として長年活動しているフレイドに"オススメ"はどんな武器かと尋ねることにした。
「……見習い中だと荷運びが重要な仕事だしな。重くて嵩張るもんは……ってんで、短剣あたりを持ってるやつが多いか。まあ……見習いに戦わすような事態なんて滅多にあるもんじゃないけどな。だがそうなっちまった場合、闘う事に慣れていない人間なら相手との間合いがある程度あった方がいいっつって、俺が見習いの頃は短槍を持たされてた」
「短槍……ですか?」
「短剣よりは当然間合いも広いし、長剣よりは重くねぇ。まあ、最初は地面に刃先ぶつけたりもしちまうが、そりゃ長さのある武器ならどれだって同じだ。慣れりゃいい。見習いの間の得物に関しちゃその間だけと割り切って、とにかく荷運びしながらダンジョンに慣れるのが優先ってことだな。一本立ちする頃までに自分に合った本当の得物が見つけられりゃいいんだよ」
手拭で汗をぬぐいながら真面目な顔で頷いているルークスにチラリと視線をやると、フレイドは言葉を続ける。
「……見てくれよりもどんだけ手に馴染むかが一番大事だって事だけは、忘れずに覚えとけ」
と、そんな事を少年に語る"戦斧の鬼"の異名持ちがどこかバツの悪そうな表情を浮かべていたが、語られている相手には生憎と見えていなかった。
フレイドのこの表情は自分が若い頃に見てくれ重視で武器を選び、結果、冒険者としてしばらく伸び悩んだ時期があった為、その頃を思い出しての羞恥ゆえ。
もしもその頃たまたま彼がアンリに
『フレイド君って戦斧を豪快に振り回して戦うのとか、恰好良くて似合いそうよね』
と言われなければ、恐らくフレイドは未だにBランク下位辺りでくすぶっていただろう。
恋愛感情は無かったが、美しい女性にそんな風に言われればある程度以上記憶に残るものだ。
それまでの使用武器の手入れの依頼で行った武器屋で戦斧を見つけ試用させてもらう事にしたのは、今までの得物に限界を感じていたのもあるが『格好良くて似合いそう』とのおだて言葉に自尊心をくすぐられていたのが恐らくは八割がた。
どちらかと言えば野暮ったい印象を持っていた戦斧が妙に手に馴染むと気づいたのは、手にした瞬間のこと。
以降、彼は戦斧使いの冒険者としてメキメキと頭角を現して行き、同時にフレイドにとってのアンリが恩人である『アンリ姐さん』となったのと言う話は余談だろう。
自分を拾ってくれた恩人であり、冒険者としての師匠でもある厳つい顔の大男の自室の長持の奥、鍵付きの箱の中に二本一対の装飾過剰なダガーナイフが黒い歴史としてしまい込まれている事を知らないルークスは、フレイドに向け
「はい」
と、生真面目な顔で頷いた。
そんなこんなで昼になり、朝に焼いたパンの残りとスープなどで食事を摂ると、食休みがてら午後の少年は帳簿つけなどの仕事をする若女将エリスの傍らで読み書き計算の勉強をする。
自分の名前の読み書きと僅かな数字の足し引きさえ分かれば生活に支障のなかった山間の生活と違い、街中で暮らすならある程度のレベルの読み書き計算は必須の教養。幸い彼は地頭の出来が良く、エリスが軽く教えただけでこの国や近隣諸国でも一般的に使われる算盤の使い方を覚え、同時に暗算なども結構な桁まで出来るようになっている。
今は少しでも多くの単語や言い回しを覚えるため、サイラが幼い頃からフレイドが親馬鹿ぶりを発揮して大量に買い集めた児童書や子供向けの物語を読みつつ、字引きの引き方などを時折エリスに教えてもらっていた。算術同様こちらの方もそれほど苦労することなくルークスは語彙を増やしている。
「ルークス君の方がうちの子よりよっぽど頭優秀だわ。サイラも馬鹿な子じゃないけど、黙って座ってるって事が出来ないんだからもう。でも、まあねぇ……私もこうやって帳簿任されるまでは同じようなお小言母さん居言われてたんだけれどねぇ」
勉強用にと渡していた帳面に、最近まで碌に読み書きが出来なかった人間が書いたとは思えぬキレイな文字で、新たに覚えた言葉とその意味とを書き込む少年の手元をチラリと眺めてエリスが母親似の目許を細めて笑う。
「真面目なのも偉いけど、こんを詰め過ぎちゃだめよ? ……って、うふふ。不真面目だって怒られてた私が言ってもアレかしら」
「いえ、俺、のめり込むと周りが見えなくていつも親父にも危なっかしいって、そう言われてたんで……言って貰えるとありがたいです」
もし彼の母親が生きていたならば同世代、ルークスが無意識にエリスの上に母親の姿を重ねていたとして無理はないだろう。
普段はしっかりした部分しか人に見せない少年が、この昼の後の一時、どこか年齢よりも気持ち幼い表情を時折見せることを知る者は若女将エリスしか知らない事だ。
食休みの勉強を終え、不足分の食材や備品の買い出しの荷物持ちや下宿の住民などに頼まれた時には手紙や書類を運ぶお使い役。夕方近くになると再び厨房の水瓶の水位を確認し、足りなければ水の補給と野菜洗いなどの雑用をこなし、食堂のセッティングを済ますと夕食の時間の少し前まで裏庭で軽い運動を少年は行った。
ここに来た頃には十回も出来なかった木の枝を使っての懸垂は、今は倍以上出来るようになっている。
再び井戸の水で汗を流し、ルークスは濡れた髪を彼らの力を借りて乾かした。木の葉を揺らし楽し気にクルクルと小さなつむじ風を起こす彼らは小さなころからの少年の友達だ。
衣服を身ぎれいに整えて、そろそろ料理の支度を終えた厨房に戻れば朝食時と同じようにポツポツと食堂を訪れる住民達の給仕の仕事が待っている。
朝食時との違いは、仕事で下宿から出払っている住人が多いため食事の時間がばらける事だ。だから夕食のまかないは下宿経営者家族と従業員が交代で隙をみて摂る事になる。
朝も夜も基本食事休憩は住人達と同じ食堂でだ。
その日はルークスが食事を摂っている途中、彼にとっては若女将のエリス同様に、だが意味合いの違う『憧れ』を抱いている女性であるアンリ・グラースが食堂へと入って来た。
ほっそりとした長い手足に華奢で優美な肢体、白金色の髪に涼し気な緑の目。
美しく洗練された女性の多い王都にあっても彼女はひときわ美しく少年の目には映っている。彼の生まれ育った集落には同世代の異性はおらず……どころか、若い女性も殆どいない。交流ある集落や村落になら幾人か世代の近い娘もあったが、素朴な姿の村娘と彼女とは全く別の生物に見えた。
実際普人種である少年とは別種族のエルフ種の中、さらに珍しいハイエルフだとは後々サイラに聞いた話。
ルークスにとって、彼女は憧れの象徴のような女性だった。
日焼けの気配もない白くなめらかな肌や、人に接する機会の多さから彼女が身に着けたのだろう隙なく伸びた背筋の立ち姿や所作。
彼女と同じような世代に見える若い女性達は、ルークスの目から見ると度を越して華やかな日傘や嵩張る飾りを乗せた帽子で装い歩く中、アンリはスッキリといっそ素っ気ないほど簡素で飾り気の少ない持ち物を使ってる。だが少年からすれば、輝かんばかりに美しい彼女にとって重たい装飾など全く不必要なものに思えた。
残念なことにアンリは普段から仲のよい魔導学院の教授をしているセレスティナと同じテーブルに着くようだ。
「おや、残念だの」
と、ルークスの視線の先に気づいていたらしい山人種の金属加工技術者が少年にからかいの声をかける。
「いえ……あの、別に」
「エルフ種は美しい者ばかりじゃからの。目を奪われるのも無理もないぞ」
頬や耳を赤くしながら平生通りを装うルークスの様子を然もありなんと納得顔のドワーフの前、彼は無心を心がけながら手と口とを動かして食べ物を飲み込んだ。
食事が終われば食器洗いに食堂と厨房の後片付け。
使ったテーブルクロスを剥ぎ取り、床を持っぷで拭き清め、テーブルを磨き、洗った皿を片付けて食べ物屑を所定の屑入へとまとめる。
たいていはエリスやサイラ、厨房の雇人らの共同するこれらの作業の途中でルークスは抜け出して、下宿の住人達の各部屋を回って飲料水と翌朝用の顔洗用の水を置いて行き、それが終われば概ね一日の仕事は終了となる。
あとは空きを見計らって魔道具の設置されている浴室で身体を清めて就寝だ。
正直、緩い仕事内容だとルークスは思っている。
山間の集落で生きていた頃ならば、掃除洗濯の家事に朝と夜の食事の用意は彼の仕事だった。これに足して樵の父の手伝いに、家の周りに作った小さな畑の世話、厨房にしろ暖房にしろ魔道具が賄う街とは違い田舎家ではとにかく大量に薪を使う。薪割を父に任されるようになったのは彼がまだ十になる必ずの頃からだった。
町場からは遠く、さして裕福でもない山奥では食料採取も日々の仕事の一端。
山菜を集め簡単な罠や手作りした弓矢で鳥獣を狩り、肉や山の幸と言った糧を得るにも王都のように店に出かけて食べるばかりの状態での入手など出来ようもなく、山菜はアクや渋みを抜く手間があり、鳥獣肉はさばいて熟成させ、その日に食べるだけでなく保存の為にも必要な作業がいくつもあった。
一日中働いて働いて、動き回って疲れ果ててて横になれば何も考える余地なく眠りの波に飲み込まれ、目を開ければ翌日になっているのが故郷での日々の当たり前。
それがここに来てからは、父親が亡くなってからは細くなる一方だった身体には筋肉が付き上背は増し、もともとの貴族屋敷の名残である半地下の一室とは言え個人の部屋を与えられ、魔導灯の明かりの照らす場所で今日覚えた分の読み書きのおさらいをする余裕もあるのだ。
眠気が来れば下宿者用に使われていた物のおさがりの寝心地良い寝台に、清潔なリネンが彼を迎える。
ルークスは手にしていたペンの先からインクを拭って帳面を閉じると魔導灯の明かりを消した。
半地下の窓からは青い月の光と夜も更けてややヒヤリとした夜気が室内に入り込んでいる。湿度の低い地方なので、夏場であっても寝苦しさは薄い。
枕の上に頭を載せて瞼を閉じ、少年はまどろみの中に沈むまでのわずかな合間を物思いに更けた。この日に彼が考えていたのは、フレイドに言われた『武器』についてのあれこれ。
いずれ冒険者として独り立ちし、『戦斧の鬼』の二つ名を持つフレイドのように自分も一角の冒険者となるのが今のルークスの夢である。
その時に彼の夢を援け、命を預ける相棒にも一応、夢のような物が彼にはあった。
王都に出て来てしばらくの頃、建国祭の式典で見かけた儀仗兵の素晴らしい剣捌きは少年の胸に激しく憧れの気持ちを掻き立てた……のだが
『……見てくれよりもどんだけ手に馴染むかが一番大事だって事だけは、忘れずに覚えとけ』
と言うフレイドの一言は、彼の実感が込められているだけにルークスの耳にも重みある言葉としてズシリと響いた。
……手になじむ物か。
つらつらと彼は考える。
これまで少年が手にした武器となりえる物と言えば、剣鉈に斧に弓と言ったところだろう。あとは調理に使う小刀がいいところ。
荷物運びの見習いとして持つ得物は、フレイドの勧めに従い短槍を持つことに否やは無い。請えば取り扱いについても教えて貰えるだろうし、基礎体力が彼の認める水準に到達したころにでも教えを受けて訓練を始めておこうと少年は寝床の中で考えた。
剣鉈と、斧……。
枝や蔦を払う剣鉈は、子供の頃からなじみの道具。それに斧も同じく薪を割るのによく使った物だった。
冒険者の得物としては地味ながら手斧と盾を組合す者や両手に手斧を持つ者もいないでもなく、手斧よりも大きな戦斧であれば、彼にはフレイドと言うこれ以上ない師が身近にある。
ルークスの父親は、仲間を護ろうと斧を手に魔物に立ち向かった。力足りず命を失うこととなったが、少年は父親の見せた勇気と男気を誇る気持ちを持っている。
斧……も、いいかもしれない。
と、そんな思考を最後にして、その日のルークスは眠りの海の中へと沈んだ。
数年の後、下宿の裏庭で嬉々として戦斧を振り回すフレイドと、彼の指導のもと同じく戦斧を振る『剣聖の卵』の称号持ちのルークスの姿を見つけ、アンリは愕然の後に頭を抱えることになる。