春の(魔法)陣
この世界の文明は、ある日ある時唐突にはじまったのだと伝えられている。
それは、1000年を超えて生きるハイエルフのアンリの曽祖父のさらに数代上の世代でのこと。
ある日常の一コマ───例えば洗濯の途中、例えば畑仕事の途中、例えば便座に座って頑張っているその最中に、不意に只今この時をもって世界が開始されたとの認識を得た……と、その当時を生きた多くの人々の日記や覚書に記され語り継がれている。
これはハイエルフやエルフ種の人々だけのことではなく、普人種や獣人種と言った種族の者の間にも同様の記録や口伝は残されていた。
ただ、エルフ種等の長命種族よりも一生のサイクルの早い人種では、こういった記録の数は多くなく、口伝に関してはほぼ失われているに等しい。
一般家庭に千年以上前の世代の遺言や遺物が残されている確率を考えれば、それも無理のない事と理解しやすいだろう。
その代わり、王侯や貴族などの長期に血統や家系が保たれている場所にはそれなりにその類の記録は残っているようだ。
この話を聞いた時、アンリの前世の記憶は人間は猿からの進化じゃないのか、カンブリア爆発みたいなのはどこ行ったの!?───等、ツッコミを入れる欲求に裏拳を疼かせたが、なにしろここは神聖魔法や精霊魔法、魔方陣式魔法等の魔法があってモンスターの闊歩するダンジョンまである世界。
しかも自分はハイエルフと言うファンタジー人種であるのを思い出し、アンリのツッコミ裏拳の炸裂は不発に終わった。
……まあ、そう言う事もあるかもしれない。
というか、そのように記録が残っているのなら、そうなのだろう。
とりあえずファンタジー世界と進化論の相性はいまいちであり、魔力と言う謎の力が働く時点、彼女がかつて地球で学んだ物理や科学の常識もあまりあてにならないかも知れないと思った。
『始まりの日』を経験した者は創造主がこの文明を生きる人々にどういう未来を求めているか、その瞬間から知っていた……と、書き記している。
記録者により記される語彙や表現法の差異はあれど、その概ねを意訳するするならば
『ダンジョンに潜り魔石を採取せよ。それらを使い、極力の平和のもと文明を発展させて行くべし』
とでもなるだろうか。
その話を師匠に聞いた時、非常にざっくりとしているな……と、思ったものだ。
千年を超える大むかし、立場も人種も違う幾人もの人間が己の感覚でとらえていることをそれぞれ言葉にしたものの要約なのだから、ざっくりしていても仕方がないと言えばそれまでだが。
とりあえず創造主がこの世界に生きる人々に期待しているのは
『ダンジョンでの魔石採取』
と
『魔石を使用しての文明の発展』
それからここに『平和』と言うワードも入るのだろうが、これに関しては"極力"と言う言葉がついているので絶対ではないようだ。
諍いを完全に排するのは不可能に限りなく近く困難なことだとは、施政に携わっていないアンリでも容易に想像がつく。だからこその"極力"の前置きなのだろうけれど、それでも平和との言葉をねじ込んだ辺り創造主の超越者らしからぬ良識を感じる気がした。
世界各地、すべての大陸にダンジョンは存在している。
アンリの住む中央大陸だけで五つ。北大陸にも同数あるし、海に浮かぶ島々の中にもいくつかのダンジョンは地底へ向けて口を開いていた。
この世界には全部で20のダンジョンがあり、それら全てに魔石をドロップさせるモンスターがいる。
創造主が人間達にモンスターを討伐させることの意味はなんなのか、それについては諸説あり未だに結論は出ていない。
曰く、ダンジョンとは修練の場所。
人間達を鍛え心身ともにより強き存在となれと己の作り出した世界の人々を高みへ導くため、創造主が備え付けた訓練施設。
曰く、ダンジョンとはこの惑星に巣食うモンスターの一種。
魔石と言うエサをちらつかせて人を誘い込み、奪った命と死体とを糧に生きるこの惑星の寄生虫。創造主は人間がダンジョンへ入り内部のモンスターを倒すことでダンジョンを弱らせ、いつの日かこの巨大な寄生虫を討伐することをこそ人に望んでいるのだと。
曰く、ダンジョンとはこの世界の吹き出物。
惑星の内部から染み出す余剰な力を凝らせて魔石として排除する排せつ機関の一種。ダンジョンは皮膚に出来るニキビのような物であり、この内部の掃除を創造主は人々に求めているのだ、と。
この他にも色々な説が議論されているけれど、創造主からは『始まりの日』以降は人間達になんの啓示も下されず、いまだ真相は明らかにはなっていない。
とりあえずこの世界に生きる者の一人として、アンリは『ダンジョンに潜り魔石を採取せよ。それらを使い、極力の平和のもと文明を発展させて行くべし』の言葉のうち、『それらを使い』……の部分を
「それらを使いってことは、たぶん消費しろって意味も含まれている……はず!」
と自分に都合よく解釈し、春の夜長の下宿の自室で魔方陣の作成作業を行っていた。
彼女が魔方陣の作成に使用するのは、魔石を練りこんだ魔鉄の針金と魔石入りの魔鉄粘土だ。
一般的な魔方陣の作成は、魔石を砕いて使ったインクとペン、それから魔方陣を描くための紙である。しかし平面魔方陣には看過しがたい欠点があった。
例えば、単純な魔法現象。
その場に火を発生させるだけの"発火"の場合、魔法文字の"火"の一文字をベースとなる魔方陣の内部に書き込むだけで事足りる。だが空中に色とりどりの花火を打ち上げるとなると、陣の内側に書き込むべき魔法文字は膨大だ。
花火を構成する炎の粒の数と個々の形状、色合い、それらがどのような形に広がるか、広げる速度が術行使者の任意の場合はその旨を、そうでないなら速度について。炎の粒ごとに色合いを変化させるならどの色にどのタイミングで変化させるか、または任意で術者にタイミングを委ねるならそれを。そもそも打ち上げ花火なら打ち上げる動きから速度までをどうするのか具体的に書き込まねばならず、結果、花火の魔法の魔方陣サイズはおのずと巨大化してしまう。
しかも、通常の文章とは違い魔方陣内部の魔法文字はただ書き入れれば良いだけではなく、魔力を通す関係上並んだ文字同士が接触していなければならない事、ベースとなる陣の枠にも接合する必要がある事など、細々とした決まり事も多い。
文字の形状によっては隣接するに相性の悪い物もある上、無理に辻褄を合わせるために文字を変形させてしまったり、文字を不揃いに大きくしたり小さくしたりしても求める効果が現れない。魔法が不発するだけであればまだしも、下手をすれば魔法の暴発も起きかねなかった。
……しかも、インクで紙に書くんだもの、書き損じたら最初からやり直しになるのよね。
アンリが魔鉄の針金を特注の烏口付きの金敷の上で曲げて丸めて魔法文字の形に加工しながら思い出すのは、魔方陣式の魔法を故郷の村で習っていた頃のこと。
彼女の師匠の老齢のハイエルフは平面魔方陣作成を極めた大魔導士だ。
彼の描き出す魔方陣は円や多角等を組み合わせた複雑にして繊細な陣の内部、無駄のない書式にて綴られる正確無比にして流麗な魔法文字の連なる様は、アラベスク模様の如く美しい。
国の内外に魔方陣作成の大家として名を知られる彼は、ハイエルフの村を出て普人をはじめとした他人種らの暮らす都市で魔方陣を学びはじめた当初から、魔方陣のベースとなる陣の内部にほぼ仕損じる事無く魔法文字を収める才に恵まれていたらしい。
師匠本人の言うところによれば、描き始める前に空の陣を見ながら脳内で試算すれば造作なく魔法文字の収まりなどつくものだ……との事だが、残念ながらアンリにはそんな才能には恵まれなかった。
いや、彼女だけでなく一般的な───神聖魔法や精霊魔法以外の───魔法使いにしても、何度も反復して描いた魔方陣ならいざ知らず、新しく編み出した魔方陣を書き損じなく仕上げることは難しい。
そもそもの話、よほどの事がなければ魔法使いは魔方陣を自作しないのだ。
自分の師や書物、専門の学舎のテキスト等から求める用途に合う既存の魔方陣を探し、模写をするか出来上がった魔方陣を購入するなどして得るのが通常のこと。
実際大きな街には魔方陣を取り扱う店があり、売買も盛んに行われる。
わざわざ自作するのは道具に魔方陣を組み込む事を生業とする魔道具職人か、研究者、または市販されない特殊な魔法の効果を求める者に限られた。
アンリは魔法を師事した先が魔方陣作成の大家でありその道で有名な研究科だった人物だったこともあって魔法の使用法と共に魔方陣作成も学んだが、現在の彼女自身は冒険者ギルドの職員。研究者でも魔道具職人でもない彼女には通常魔方陣作成などする機会などない筈なのだが……。
───彼女が求める魔法は、どの魔方陣取り扱い店にも売られていない。
市販されていないなら"模写"と言う手もある。だがしかし、アンリが求める魔法は王都の図書館にも魔導学校の資料室にも存在していなかった。
……力場内部に滅ぼす標的を閉じ込めて、拘束。高温で焼却。外部に熱は絶対に伝わらないように完全遮断。
本当は灰も残らない高温で消し去るのが理想だけど、そこまで温度を上げると力場の強度が怪しいから仕方ないわ。
で、焼却後の灰を任意の場所に運び出して排除するわけだけれど、うっかり灰をまき散らしたりまかり間違って吸いこんでしまわないよう工夫が必要。
トルネードで内側に巻き込むように術式を組み込んで……。
───傍から聞けば物騒な内容を呟いているが、何の事はない。アンリの組んでいるのはただの殺虫目的の魔法である。
床や周囲を焦がさず、焼却時の灰やニオイを部屋に残さない殺虫魔法。
運悪く部屋に入って来ただけなのに殺してしまっては可哀想……などとは彼女は思わない。
逃がせば再び奴らは部屋に入り込み、もしかしたなら眠っている自分の顔の上を這いまわる可能性だってあった。
慈悲を与えてもしも繁殖などされれば、そのぶん奴らが部屋に入り込む可能性も増えるのだ。
見敵必殺。
情け無用。
至極まじめな表情で、アンリはパチンと魔鉄の針金を切る。
魔鉄針金で作成する立体魔方陣の良いところは平面魔方陣のように無駄に大きくならない事と、魔法文字の大きさを常に一定の規格で作成しさえすれば、仕損じた部分のすげ替えも容易なところだ。
しかも仕損じて不要になった文字も、次の機会に使用が可能。彼女の師匠は魔鉄針金による魔方陣の作成には
「一期一会のきらめきがない」
などと苦言を呈するけれど、芸術性や美しさよりアンリとしては実際的な部分こそ凡人には大事だと思っている。
「……この文字も、合わない、か」
作り上げた一文字をピンセットでつまんで円筒形の立体魔方陣の空白部分に持って行くも、残念ながら枠組みとなる陣とうまく接続しないようだった。
ピンセットを机に置いて別パーツのヒントを求めて書棚の魔法文字辞典に伸ばしかけるも、数瞬迷ってからその手を引っ込めると、アンリは大きく一つため息を吐いて本日の作業を投げ出した。
……どうにも集中できないのだ。
原因はわかっている。夕方に立ち寄った洋品店での懐かしい相手との思わぬ出会いが彼女の心を乱していた。。
かつて彼女の友人だったマルティナ・デイルの娘、テレース・デイルはアンリに
「勝手な話である事は承知しておりますけれど、どうか母にあなたへ謝罪する機会を与えてはくれないでしょうか」
と、そう言った。
向こう側からの謝罪と言う事は、どういうきっかけあってかは不明だが、恐らくマルティナはアンリと自分の元夫の浮気が誤解だったと言う事を理解してくれたのだろう。
実際それは誤解だったのだし、謝ると言うのならそれを受け入れるのは吝かではない。
あのことがあった当時にはもっと胸の中に渦巻き収まりきらない思いもあったけれど、今となっては悲しみや怒りの気持ちはすでに治まっている。
アンリが今現在もマルティナとの接触を避けているのは、自分を嫌っている人間への接触を少なくしたいからに過ぎない。
誰しも自分の心の平和はなるべく守りたいものだ。
たとえばこちらを嫌う相手が自分にとってどうでもいい人間ならば、ここまで気を使って遭遇を避けるような真似はしなかった。そうじゃないのは、今もまだ彼女の心にマルティナとの友誼が残っているからこそ、その気持ちがアンリの心を波立たせるから……。
「はぁ……どうしたもんかなぁ」
どうしたここうしたも、謝罪を受け入れる方向で気持ちは定まっていた。
テレースは最初、都合の良い日に改まってセッティングすると言い出したのだが、それはアンリの側で断った。
何しろ急な話で謝罪は受け入れようと思っていても心の準備と言うものが出来ていないのだから、スケジュールが空いているからと罵り合って別れた友人と顔を合わせる覚悟がその日までに出来るかどうかわからない。
だから、自分の方からマルティナの職場に都合の良い日に赴くので本人にそう伝えておいて欲しい……と、テレースに頼んだのだ。
気持ちの方向が定まっているならば、サックリと出かけてそれを済ましてしまえば良いだけのことなのだろう。
……なのだろうが、そう簡単じゃないのが人の心。
最後にマルティナの顔、まともに見たのって何年まえだったかな。
五年? 八年? それよりもっと前だった?
もともと彼女とアンリは冒険者ギルド王都本部の窓口時代に知り合っている。基本、ギルドの窓口を担当する女性は容姿に優れた者である事が多く、マルティナもまた、街を歩けば十人中最低でも八人は振り返るレベルの美しい娘だった。
もとが美しいうえ、離婚や母一人での子育てで苦労はしていても人と触れ合う仕事をしている女性は若く見える傾向がある。
アンリが最後に彼女を見かけた時も、ある程度老けてはいてもマルティナはやり手のキャリアウーマン然とした美しい大人の女の印象だった。
だけど久方ぶり……それこそまだモミジのような小さな手をしていた記憶しかなかったテレサが子離れをすますような年齢になっていた事実が、アンリを打ちのめした。
「考えてみればマルティナって、私とほとんど年齢変らないんだよね……」
最後に見た時、若作りだったし実際若く見えたから、自分がもう人間ならばいい年になることをアンリは失念していた。いや、忘れたわけではないのだ。
時が流れている事くらい、彼女も分かっていた。
この年齢になるまでの間、アンリは時の流れを実感する出来事をいくつも経験している。例えば、冒険者ギルド内でも何人もの職員が常命種族での定年年齢である65歳になって職場を去って行ったし、この下宿の先代の女将の死も経験している。
だから、洋服の流行が一巡するだけの年月が流れているのは分かっているのだ───頭では。
前世の、常命の人間だった頃の意識や感覚が残っている癖に、今のハイエルフとしての時の流れに対する感覚も混じりこみ、生まれる齟齬。頭の中の思いと現実との乖離。
私、マルティナとはどうせその内仲直り出来るだろうから、大丈夫だって……そう思ってたんだ。
最初の頃はショックだったり、悲しかったり、腹立たしかったりで心に余裕もなく、仲直りについて自分から動こうとも思わなかった。
その後は、自分が悪かったわけじゃないのにと意固地になった。
そして何十年もの時が経ち───
「暢気にも、ほどがあるわ……」
下手をすれば友人との仲直りも出来ぬまま永遠の別れを迎えていたかも知れない現実に、アンリは微かに唇を震わせ呟いた。
旧友に会いに行こう。
いままで暢気にし過ぎたのだから、その後の言わずに早急に行動に移すべきだとは分かっているのだけれども。
覚悟が必要だった。
一番最後にまともに彼女の姿を見てから何年もの時間が経っている。
何しろ彼女の娘が既に子供から手が離れるような年齢になっているのだから、マルティナ本人だって年齢だけでなく姿かたちも年齢なりになっているはずだ。
だから、久方ぶりに正面から相対した彼女の"老い"に動揺したりしない覚悟が、必要なのだ。
常命の人間と、1000年を超えて生きる長寿の種族ハイエルフ。
その二つの意識の間でフラフラふらつく自分の不安定さを噛みしめながら、アンリはこの夜幾度目か分からないため息を吐いた。
夜の考え事は良い結論を齎さないことを経験則上知っている彼女が早めに就寝の準備でもしようか……と、言う頃合い、下宿の手伝いをしているルークス少年が彼女の部屋へ訪れた。
何のことは無い。
翌朝の洗顔用の水入りの水差しを届けるためにだ。
洗面机の所定の位置に水差しを運ぶ少年の目に机の上の立体魔方陣と作成の道具が入ったらしく、見慣れない物へ好奇心を刺激されたらしき少年から
「あの、それはなんですか?」
と言う素朴な質問が飛び、アンリはふだん通りの雑談の一つとして何の気なし、それが自作途中の立体魔方陣である事を彼に話した。
……先にも述べていた通り、ほとんどの魔法使いは魔方陣など自作しない。
市販か模写の二択が通常。
そして平面式魔方陣が魔方陣の中の大勢を占めている事は、山奥で生まれ育った少年でもなんとなく覚え知っていたようだ。
そこへ来て、通常は精霊魔法しか使わないエルフ種の人間が───それも、淡い憧れを抱いている相手がこれまで見たこともない精巧な細工物のような外見を持つ立体魔方陣を手ずから作っているのだと知ったなら、どうなるか……。
もしもアンリが『称号鑑定』の能力を発動させていたならば
『初恋・憧れ深度up!』
の表示を再びその目にすることが出来ただろう。
ルークス少年の憧れ深度が一つupした瞬間だったのだが、アンリは旧友の顔にほうれい線や、まかり間違って老人斑を見つけても動揺しない方法について考えていたせいで、これに気づく事はなかった。
ルークス少年は知らない。
才気あふれる美しいエルフ女性の作成途中の魔方陣が"殺虫"目的で作られている事を。
もちろん魔方陣の失敗パーツが机の引き出しにみっちりと詰まっている事も知らないし、この魔方陣が作りかけのまま既に五年以上経過している事も、知りようのない話であった。