日傘とサッシュ
もし夏と冬、どちらが苦手かと問われたら「夏」と、アンリは回答するだろう。
しかし、だからと言って彼女が冬を得意としているかと言えばそうでは無い。
主要な道路が石畳で敷設された王都の冬は底冷えするし、この世界には靴下用の貼るカイロもヒートテック素材も軽くて暖かなマイクロファイバーケットも無いのだ。
寒い季節は冷え性の彼女にはとても辛い。
湿度が高いうえ冷房が利いていても汗が出る通勤の電車の混雑や、ヒートアイランド現象で酷い事になる日本の都市部の夏に比べ、王都の夏は湿気も低く盛夏であってもそうそう酷い気温にはならないのだから、ふつうなら苦手なのは「冬」と答えるべきなのだろうろうが、残念ながら季節の好き嫌いは気温だけでは語れない。
暑い時期……と言うか、厳しい寒さが薄れて温かくなると、彼女が苦手としている『虫』達が活発に動き出してくる。
自然に恵まれまくった現世での生まれ故郷に比べるべくもなく、王都は自然がそう多くはないし、虫もそれほどは多くない。アンリ自身年齢を重ねて昔よりは苦手意識も薄れて図太くなってはいるのだが、それでもやはり彼女にとって虫は鬼門。
理屈ではない。ただひたすらに嫌なのだ。
冬は寒くて辛いけれど、耐えられないほどじゃない。
元気に虫たちが活発に動き回る季節より、寒さの方がまだましだ。
だから彼女はもし夏と冬、どちらが苦手かと問われたら、迷わず「夏」と、そう答えるだろう。
……とりあえず今のところ誰にもそんな質問はされていないけれど。
───ところで、季節は春であった。
街路樹は新緑に萌え、春の花が咲き誇る暖かく輝かしい季節。
街を歩く人間達は冬の重い外套を脱ぎ捨て、若い娘らや洒落者らは季節にふさわしい軽やかな色味と素材の衣服を身に着けている。
前世ほど文明の進んでいないこの世界では、衣服は比較的高価な品物だ。
電池のように魔石を動力源とした魔道具はあるけれど、道具を目的別に動作させる魔方陣作成は職人による手仕事であり少しの狂いも許されない繊細な物でもあるせいで、制作に時間がかかり高価な物になってしまう。そのせいで、ずらりと自動で動く魔道具が並ぶような大規模工場は存在していない。
魔方陣によって魔法現象を発現させる一般的な魔法や、神聖魔法、精霊魔法と言う便利なものがあるため、文化や技術が歪な発展をしているようにアンリの目には映る。
別にそれが悪いと思っているわけではないのだ。
例えば王都内にある鍛冶場などは炉が魔石を動力源にした魔道具だから空気をほとんど汚さないし、同様にコンロや暖房器具が王都内に普及しているおかげで、王都とその周辺は環境汚染や自然破壊も低いレベルに抑えられている。
魔石や魔道具が無ければ人口の多い街周辺の森は、薪のなど需要で丸裸になっていただろう。
田舎の方では未だに薪ストーブや竈も使われているけれど、間伐材や木材を取った後の残りを人口の少ない場所で使用したところで、環境への影響はそう大きなものではないのだ。
王都は人口自体が多いだけに富裕層もそれなりにいる。
それ以外の者であっても衣服などは富裕層から古着となって順番に下層階級の者へと降りて行くため、持てる者は新しく流行の最先端の物を。そうでない者は経済状況に応じて手の届く物を。それぞれが季節に合わせて身に着けていた。
……ここ数年はずっと小花柄ね。
色味はちょっと寒色寄りに流行りが移ってるっぽいけど……とりあえず春の間は前に作ったのを着られるかな?
あとは、明るい色の無地の布地のハイウエストもまたじわじわと出て来てるのねぇ……。
通勤中に周囲を見ながら流行り廃りのチェックをするのは彼女にとっていつもの事だ。
年齢こそ64歳と言う老人の年にはなっていても、彼女の外見は今だ二十歳前後の若いもの。
精神は肉体につられるものなのか、本人の意識としても自分が老女な精神年齢になっているとは思われない。
ただ時折笑い話で済むレベルから笑えない深刻なレベルまで幅広く、実年齢と肉体年齢の違いにより前世での固定観念や現世でのハイエルフとしての本能的な部分での齟齬が生じる事があるのだが、これは現時点、彼女にとっていかんともしがたい。
今さら記憶を消すことは出来ないのだから、少しずつ慣れていくより仕方ないのだろう。
例えば彼女の下宿のクロゼットの中、数十年間体形や見た目年齢に変化が無いせいもあってうっかりと四十数年前に買った服が入っていたりもする。
20年ほど前に一度発見した時には流行遅れで到底着られないと彼女も思ったのだが、衣服の流行りは数十年で循環するのは地球もこの世界も同じらしい。
刺繍入りのサッシュベルトの一つも足せば、問題なくいまの最新の流行顔をして身につける事も出来そうだった。
流行り廃りの一巡を目にするだけなら、ある程度の年齢を生きて行くだけで出来るだろう。けれど、たぶん普人種なら若い頃に着た服を同じ容姿のまままた身に着けるなど出来ないかも知れない。
古着が当たり前に着られる世界だ。母親か祖母の衣装入れの奥から引っ張り出されたのだろう古色を帯びた服を着ている女性もちらほら見るが、年配女性の好む色味や仕立てとは違うこともあり、若い娘に限定される。
作った服や買った服の全てをクロゼットや衣装入れにしまいこんでいたら、いくらアンリの部屋が広くともしまいに物が溢れてしまう。だからいつもは人にあげたり下取りに出したり古着屋へ売ったりと処分していたのだけれど、その古い服には思い出もありどうにも手放すことが出来なかった。
……初めてお呼ばれした結婚式だったんだよね。
王都に出て来て一番最初に出来た友人の結婚式のため、それまでは私服はほとんど古着を買っていた彼女が少し無理して誂えた新品の洋服。
若い娘が晴れの日に着るに相応しい淡黄蘗……ごく淡い黄色のローブは今、クロゼットのなか古色を刷いて鳥の子色に変じている。
色味は時の流れでさすがに鈍っているが、購入時に奮発した分、数十年の時間が経っている割には保存が良かったのか、虫食いなどもなく生地はまだしっかりしていた。
さすがにこれ以上の年数が経てば劣化を留められまいが、あと数年は持ちそうだ。
「うーん……」
今となっては彼女にとってさして高価な服ではない。
友人の結婚式に着た服ではあった。幸せそうな花嫁と花婿、それを祝福する親族や新郎新婦の友人らで過ごした賑やかしくも和やかな時間。
楽しかった。
これから先の彼女の人生に幸あれ……と、アンリはあの時そう心から願ったのだ。
あの時の結婚式の思い出は"楽しいものであった"と断言出来る。でも人生は輝かしい時間ばかりで構成されているわけじゃない。
今はもうあの溢れんばかりに幸せに満ちていた花嫁は存在していなかった。
ローブには楽しかった記憶と苦い気持ちとが纏わりつき、サイズの変化が無いことも手伝ってつい処分も出来ぬまま長い年月死蔵してしまっていた。
仕事帰りにサッシュでも見てこうかな……。
なんとなし、またあの洋服に袖を通すことが出来たならずっと引きずっているもんやりとした気持ちも払しょく出来る気がして、アンリは通勤路を歩きながら手にした日傘をクルクルと回した。
春の空は晴れ模様。
日が落ちれば多少気温が下がってくるけれど、一軒二軒、店を覗いて小物を見繕う程度の寄り道で凍えるような季節ではない。
クルクルと軽く回していた日傘に、ポツン……と微かな振動。
雨ではない。何かが当たる音とも言えぬ微かな感触の正体を見極めるため、アンリは自分の身体から引き離すように出来るだけ遠くへ傘を下げ、クリーム色の傘布上部へ視線を向けた。
昨今の流行的に若い娘の持ち物ならレースやリボン、フリル、造花の類でデコラティブに飾り立てられている日傘だが、彼女の持ち物はそっけないほどシンプルな作りで、気持ち程度に傘布の途中と縁とに小さなフリルがついている程度。
……そのフリルの襞の間に、街路樹の枝から糸を垂らして落ちてきたのだろう小さな毛虫が一匹ついているのがアンリの目に入った。
「………………」
じわりと腕に鳥肌が浮くのを感じながらも無言のまま、アンリは自分の周囲に人がいないのを確かめてから日傘を軽くうち振るう。
一度、二度。
毛虫の垂らした細い糸がフリル部分に絡んでか、小さな毛虫はまだ日傘にくっついている。
三度、四度。
クリーム色の傘布の上、糸を支点に毛虫が揺れた。
「………………」
これはマズイ……と、彼女は思う。
街路樹の下、日傘もなく無防備に時間を過ごしていたのでは、新しくまた毛虫が落下して来るかもしれない。
かと言ってこのまま毛虫のついた日傘をさしていたのなら、毛虫が傘布の表面をにじり進んでいつ下まで降りて来るかもわからないのだ。
石畳の上に落ちてくれたら問題ないけれど、風向きや角度によっては彼女が身に着けている冒険者ギルドの制服のロングスカートの上にくっつく可能性だってある。
「………………」
焦りの気持ちを押し殺し、アンリは石畳の歩道と車道のはざまに一定間隔で立ち並んだ魔導街灯の金属製の支柱へと毛虫の絡んだ日傘をグイっと擦り付けた。
幸いにしてうまいこと毛虫の垂らした糸が切れ、小さな虫は地面へと落ちたのだが、その代わりのようにクリーム色の傘布には錆の汚れが付着し、ついでにフリルの飾りの一部が醜く歪んだ。たぶん支柱の表面がザラついていたのだろう。
一昨日いまと同じように小さな毛虫を振り落とす時に石畳に打ち付けた石突部分も、塗りが剥がれて木地が見えてしまっていた。
数十年前のローブを着れる状態で持っていることから明らかなとおり、比較的物持ちの良いアンリだが、帽子と日傘の痛みは早い。
両者ともに日よけを目的として使っておらず、上についた嫌いなアレを手に触れるないように乱暴な手段も辞さずに払いのけるのが原因だ。
……うん。日傘の新しいか帽子も見たいし、ちょっとだけ寄り道しちゃおう。
作りかけの魔方陣もそろそろ仕上げてしまいたいから……ほんのちょっとだけ。
帰路の予定を決めて彼女は少しよれた日傘を手に職場へと向かい、その日の業務を行った。
春先のように風邪を引いて休んでいる職員もおらず、小さなトラブルはあってもそれも日常の一コマとして対処出来る範囲内。
ギルド長はたまっている書類の決裁に追われ、サブマスターは関係各組合や貴族院、役所への顔つなぎと営業活動へと歩き回り、アンリは中間管理職らしく雑務や書類と格闘して引き分けると言ういつもと同じ一日を過ごしての仕事上がり。
「あれ、ここって……」
昼休憩の時間が重なった窓口業務のカリーナのお勧めの洋品店の前に立ち、アンリは小首を傾げてつぶやいた。
役所や図書館、裁判所などの公的機関と貴族御用達の高級品取り扱い店の多い地域のあいだ。表通りを二本ほど奥に入った場所に、その洋品店はあった。
表通りの高級品店のような一枚物の大きな板ガラスを使ったショーウインドーではないけれど、数枚の板ガラスを金属の飾り枠で継いだ窓の中、トルソに着せ付けたレース使いの美しいブラウスやリボンと造花、小さな果物の模造品が盛り付けられた帽子、総レースの手袋、銀色の優美なハンドルを持つ花刺繍の日傘などがセンス良く飾られている。
店の右側には老舗商会の事務所があり、左側には茶葉の専門店。
左右の店舗と時代がかった金属の飾り枠を使った小さなショーウインドーに、彼女は見覚えがあった。
「あのローブ、買ったお店だわ……」
見上げる看板に記された店名には見覚えが無い。なにしろもう40年以上も経っているのだから、恐らく経営者自体も変わっているのだろう。
ショーウインドーこそ昔のままだったが、店内の様子は全くの別物だ。
こんな偶然もあるものなんだ……と思いながら、アンリは渋緑に染められた扉を開けて店内へと踏み入った。
「こんにちは」
店舗の奥で接客中の若い女性店員に声をかけると
「いらっしゃいませ。……よろしければ店内ゆっくりご覧くださいませ」
と、会釈と言葉が返される。
明るい色の壁、渋い色の床。
女性好みの優美な照明器具と、店内に配されたトルソ着用のローブやブラウス、小洒落た小物類。
けして安価ではないけれど、少しだけ背伸びすれば購入可能な価格設定の品々が並ぶ店内は、お洒落に興味のある娘ならばつい用もなく何度でも足を運びたくなるほど魅力的だ。
年齢こそ還暦を過ぎているアンリも、ハイエルフ種としてはまだまだ小娘あつかいの若い娘。可愛いものやお洒落な物は嫌いじゃない……いや、むしろ大いに興味があった。
落ち着いた色の布地の上に明度の高い同系色の大輪の花を刺繍したスカートに、キリリとした白の濃淡のストライプのブラウスには、象牙色の花形ボタンとフリルとが甘さを添える。
一品ずつ個性とセンスが光りながらも着回しの利く使い勝手の良いラインナップに心躍らせ、彼女は衣装と小物の森へと踏み込んでいった。
ワンポイント刺繍のシンプルな物からどこで汗を拭えばいいのか分からないほどレースにまみれたハンカチまでが多様に並ぶ棚の隣りには、同種のデザインで色違いのブラウスがサイズ別に収まっている。
腰の高さの平台の上、帽子から手袋、絹のストッキングまでのコーディネイトを店舗内の商品で誂えた一例が趣味良くディスプレイもされていた。
しばらくそれらを眺めていたアンリが目を上げた正面の壁面、天井まで届く壁棚の中が、切り売りされる色とりどりのリボンのロールで埋め尽くされていることに気がついた。
手前のガラスケースの中は咲き初めの色の鮮やかさを残す大輪の花のドライフラワーや絹やレース等と言った素材で作られた造花、木製や綿を詰めた布製の果実、ビーズに半貴石の小さな飾りが適度な間隔を保ち並べられている。
ショーウインドーに飾られた日傘の印象から、この店のものは自分が持つにはややデコラティブに過ぎるかと購入を諦めていたアンリだが、どうやらここはセミオーダー形式で帽子や日傘、ローブや小物等に装飾を施しているらしく、リボンや装飾用の資材のコーナー横にはごくあっさりしたデザインの帽子や手袋、日傘なども整然と並べられていた。
今朝うっかり汚してしまった手持ちの物よりさらにシンプルな日傘。アンリは取り取りの色合いが並んだ中から薄桜色の一本を手にとって口元を緩めた。
……これなら上についた羽虫や毛虫や八本足の名前を呼ぶのも嫌なアレとか、うっかり触ると臭いカメムシとか、飛び回る音がうるさいコガネムシが乗っても振り落とすのが楽かも……。
魔道具や傷を立ちどころに癒す"霊薬"などと言う反則めいた代物が存在する一方、妙な部分で未発達なこの世界。
王都の石畳と石や漆喰、レンガ造りで固くて冷たい印象を与える街並みには予算を投じて街路樹が植樹され、景観をより美しく演出するという文化的な部分も見られるけれど、残念なことにその緑に集る虫を駆除する薬剤類はそれほど発達を見せていない。
刺されると痒いうえ、睡眠を妨害する蚊に対してなら蚊取り線香に類似の物が存在するが、血を吸わず積極的に病原菌を媒介しているわけでもない虫に関してはそれほど神経質になってくれていないのだ。
私なら手で触るの絶対いやだけど、結構みんなたくましいのよねぇ……。
帽子についた羽虫に可愛らしい顔を寄せ、フッと吹き飛ばす後輩職員の強さを心底羨みながら、アンリは当初の主目的……大昔に誂えたハイウエストのローブに合わせるサッシュを探して目をさ迷わせ、ふと強い既視感に囚われて通りに面したショーウインドーを見ながら動きを止めた。
あのローブを誂えた当時の店は、既製品の衣服の他に完全オーダーメイドの服も扱っていた。
今はリボンのロールが整然と並べられた小割りの壁棚の辺りには、幾種類もの布地がびっしりと積み上げられていたのを思い出す。
何十年も前に作ったローブのサッシュを意図せず同じ場所で選ぶと言うのも妙な縁だと思いながら、アンリは紅茶染めの糸で編まれたサッシュと日傘を手に会計に向かった。
来店時に彼女に声をかけてくれた店員は生憎まだ接客の途中だったが、セミオーダーも受けているこの店舗に店員が一人きりと言う事はなく、女性店員が会計カウンターの奥にある扉へ向かって声をかける。
「───はい、ただいま」
「オーナー、こちらの方のお会計お願いします」
事務所か縫製室と思しきその扉の中から出て来たのは30代半ばくらいに見える美しい女性だった。
「お待たせいたしました。商品の方いったんお預かりいたしますね」
ふだんから店舗で接客に当たる事も多いのだろう。女性はほんの一瞬王都でも珍しいエルフに驚いたようだが、その後はごく自然に差し出された商品を受け取った。
高級店ではないにしろ比較的若い女性向けの店では、好奇心を隠しもせずじろじろと見られたり、場合によってはなぜ王都に居るのかなどとプライバシーお構いなしに問われる事すらある中で、この店のオーナーは随分とまともな部類である。
「こちらの日傘、デコレーションの方はいかがいたしましょう?」
「このままで使用したいので、無しでお願いします」
「承りました」
若干危惧していたセールストークもなく、すんなりと受け取ってもらえた事でアンリの中でこの店に対する好感度がまた上がった。
会計を済ませ、商品を受け渡されていい買い物をしたと気持ち良く立ち去ろうとした彼女の背に、洋品店オーナー女性からためらい勝ちに声がかかる。
「あの……失礼ですが、お客様は冒険者ギルド王都本部にお勤めではありませんか」
と。
「ええと……はい?」
冒険者ギルドでは一般の人間と冒険者との依頼の仲介を引き受けることも多い。
依頼発注の審査や相談に訪れる者が事務所内に訪れることもあり、ふだんは窓口等の一般人や冒険者と対面する機会はさほどなくとも、事務所内で来客と顔を合わせることも度々あった。
自分側には目の前の女性……推定で30歳代半ばから40歳代あたま程の上品な美人に関する記憶は無くとも、相手側からすれば珍しいエルフとして一方的に覚えられていても不思議はない。
ん……?
でも、ちょっとあった事ある人かも?
なんとなくこの目鼻立ち、記憶にある気がするけど、はっきりどこでかが思い出せない……。
「どちらかでお会いしていましたか?」
なるべくそうならないように気をつけはしたが、彼女が返した声は僅かに硬さを帯びた。
単純に冒険者ギルドで見かけたから声をかけて来ただけかも知れないけれど、採取や護衛、その他の依頼に関して便宜をはかってくれと同様の状況で言われたこともこれまで何度かあったのだから、アンリの警戒も仕方のない話だろう。
スキルの発動を意識すると女性の顔の横や頭の上辺りに
『子離れ済み有閑夫人』『腰痛発症中:軽微』『マザコン:弱』
の文字が記されたウインドウが浮かんだ。
上品な見た目のとおり、経済的に問題なさそうな環境に生きる女性であることはなんとなく分かったが、他の項目をみても腰が痛いのと母親を尊敬しているらしいくらいしか分からない。
訳が分からない上に役に立たない自分の能力に内心嘆息する彼女に、洋品店のオーナー女性は言い辛そうに
「最後にお会いしたのはもう三十年以上も前ですから覚えてはいらっしゃらないでしょうけど」
そう言い出した。
三十年前ではさすがに目の前の女性は子供だ。仮に当時の記憶がアンリに有っても現在の姿と重ねるのは難しい。
でも、相手だってそんなことは承知の上で声をかけてきているのだろう。
そしてただの世間話であったなら、最初から自分は子供の頃にギルドでアンリと会っていると言う言い方をする筈だ。
何を求めこんなふうに対話を求められているのか目的が見えず、頭の中に疑問符を浮かべるアンリに洋品店オーナーの女性が言う。
「私、テリースです。冒険者ギルド王都ダンジョン支部のマルティナ・デイルの娘の……」
と。
「マルティナのとこのテリースって……テレサ!? え? 嘘? あのちっちゃなテレサ?」
アンリは自分の目の前に立つ美しく上品な女性をポカンと見つめ、己とこの店、そして"彼女"とを繋ぐ奇縁と言うべきこの縁に、茫然とした。
マルティナ・デイル───それは、冒険者ギルドに勤め始めてすぐに出来たアンリの親友だった人。
かつてここにあった店で誂えたローブでめかしこみ、はじめて出席した結婚式の主役だった幸せな花嫁。
……あの幸福な花嫁は、もう存在していない。
花嫁と花婿は笑顔と幸せにあふれた結婚式から8年の後、破局を迎えてしてしまっているのだ。
マルティナの娘が大手商家の跡取り息子に見初められ、結婚したと言う話は随分まえに風の噂で聞いていた。
実家の手助けはあったとは言え、母子家庭への手当など存在しないこの世界。女手ひとつで子供を育て上げる苦労はどれほどだったことか。
マルティナは冒険者ギルドの仕事を続けながら、娘を王都有数の学舎に入れるまでの教養を得られる環境を整え、娘も母の苦労に報いるべく努力して優秀な成績を修め学舎を卒業し、有名な商家の経理部へと就職をしてそこで夫となる人と出会ったのだ。
アンリが小さなテレサ……テリース・デイルと最後に顔を合わせたのは、彼と彼女の破局の直前……テレサがまだ5歳か6歳の頃だろう。
あの当時、疲れ果てた顔のマルティナが腕に抱き、または手を引いているのを見たのがテレサの姿をまともに彼女が見た最後だった。
改めて目の前の女性を見れば、顔立ちにはたしかに少しはマルティナの面影がある。
だけどそれ以上に髪の色、目の色、そして輪郭などの全体の印象はマルティナの夫グスタフに近く、ただでさえ小さな子供の頃に会ったきりなのだから、アンリが思い出せないのも当然のこと。
「……よく、覚えてたね」
例え自分が王都にもそう人数のいないエルフ種であるとは言え、あれから随分時間が経っている。それこそ小さな子供だったテレサが大人になり、結婚し、恐らくは彼女が生んだ子供から手が離れて趣味めいた店舗のオーナーが出来るくらいには時が過ぎた。
「……アンリさん、変わっていませんもの」
穏やかに笑むテレサだが、不意にその表情が翳りを見せた。
「それに、本当は初等学舎に入った後や、その後も何度か貴方のことはお見掛けしておりました。通っていた学舎に向かう道筋に冒険者ギルドもございましたし。……でも、あの当時は私、とても声をかけられるような状況じゃありませんでしたので……」
二人だけではなく他の人間もいる店舗内。
言い難そうに言葉尻をぼかすテレサの様子にアンリは苦いものを胸に覚えた。
「ああ……うん。じゃあテレサも、知ってる……のね」
「……はい」
いたたまれないと言った態で目を伏せ、肯定を口にする自分よりも年上に見える女性の姿を目にして、アンリの口元には苦い笑いが浮かんでいた。
王都の冒険者ギルドの古参職員なら知っている。本部勤めのアンリ・グラスとダンジョン支部のマルティナ・デイルは犬猿の仲だと言う事を。
そしてその事を知っている人間の大半は、事実はどうあれアンリ・グラスがマルティナの夫のグスタフを誘惑したのが原因で二人が別れたと言う噂話を耳にしていた。
誰から耳に入ったとしてそんな話を知っていたなら、テレサがアンリを見かけても声をかけようとは思わなかっただろう。
王都に出て来て冒険者ギルドへ就職し、そこで初めて出来た同年代(当時)の大事な友達。心からその結婚を祝福し、これから先の人生に幸多かれと願ったマルティナと二人きり、最後に交わした会話(?)が胸の中に思い出された。
『酷い。この人でなしの泥棒猫!』
とマルティナが罵り、アンリがそれに応えて
『その両目は節穴なの、アンポンタンのこんこんちき!』
と罵り返した。
まったくもって心温まる素敵な思い出である───