春まだき
「しかしですね、下級と中級霊薬の売値をなるべく抑えるように……と、薬師ギルドや錬金術師ギルドに圧力をかけてきているのは、他でもない冒険者ギルドではございませんか。でしたらここは、冒険者ギルドでも薬草の売値を抑える形で協力いただかねば筋が通らないと思いませんか?」
冒険者組合王都本部の第二応接室。
商業組合の古狸の一人であるゴーンはオーバーアクション気味に肩をすくめて両手を上げ、テーブル越しに冒険者組合の女性職員へと訴えかけた。
勤続45年を迎える彼女はゴーンとは対照的に、小さく首を傾げる程度の抑えた身振りでこの交渉が始まってから浮かべ続けた微笑を崩すことなく言葉を返す。
「圧力をかけるなど人聞きが悪い事をおっしゃるのはやめてください。そもそも下級、中級の霊薬価格の抑制は我が国はじめ北大陸連合全体の総意であって、関係組合全てが協議の上で賛同なさったことでしょう?」
二人が挟むテーブルの上にはお茶のカップが二つ、手をつけられることもなく熱を失っていく。
「そうです。私達だけでなく冒険者組合も賛同している。だからこそ、ご協力を……と申しているのです」
毎年この季節、もう彼とのこの交渉は20回近くになるだろうか。
真っすぐにゴーンの顔を見るとこの場で現れると障りのある物がうっかり視界の中に現れる可能性があるので、冒険者組合職員アンリは彼の額に視線を向けた。
彼の額は見るたび領土を拡大しており、頭髪領域は後退の一途をたどっている。
絶望的な撤退戦を余儀なくされた境界線へと視線を据えて、アンリは薬草の納入価格を下げろと食い下がる目の前の男の要求を務めて事務的な口調を保って却下した。
「下級・中級までの霊薬の購入は6割以上が冒険者ですし、薬草他、原材料も半分以上は冒険者が採取しているのですから、これ以上の協力が必要とは思えませんが。……この点をゴーン様はどうお考えになりますか?」
「……そうは言いますけどね、冒険者採取分ではない原材料の一つ、精霊杉の葉が今現近郊地区では採取制限がかかってエイドワ産に切り替わってるのですよ。冒険者組合にも護衛依頼が定期的に出てるからアンリさんもご存知でしょう? 運送費がかさんでこちらとしても苦しいわけですよ」
アンリの目線の着地点に気づいた男は一瞬頬を引きつりかけた頬をそっと撫でて落ち着かせ、第二応接室の壁に額装された北大陸の地図へとちらりと視線を向けた。
言われるまでも無い。ここ最近は企業の受付嬢的職場の華である窓口に座る事はめったに無いが、彼女無くては事務所内は回らないとまで言われる彼女がその大口依頼を知らない理由がない。
「商業組合には定期的に護衛依頼を出していただいて、こちらとしても感謝しております」
アンリは自分の横に置いた紙挟みをテーブルの上にどっかりと載せ、窓口職員だった頃から現在まで『深山の谷間に咲く白百合のよう』と言われ続ける笑みを崩さずに、付箋をつけたページをゴーンの前に開いて見せた。
「エイドワからこの王都までの護衛依頼もですが、ごく近距離……サグレグと王都間の方も、昨年末から定期的にご依頼いただいていますものね。……話によれば、サグレグ製の薬瓶は安価である上に壊れにくいとか?」
「…………まぁ」
つい……と、ゴーンの視線がアンリから逸れる。
アンリはゴーンの生え際を穏やかに見つめながら言葉を続けた。
「使用済みの薬瓶の回収率が3割も向上している……と、所属の冒険者らからの聴き取り調査で出ておりますよ。ほら、ご覧ください。この数字がそうです」
ズイっと押し出された紙挟みに渋々と言った態で目を向けて、ゴーンは
「……多少は、そういう結果も出ているかもしれませんな……」
と、歯切れ悪くそう言った。
「これまで使用していた薬瓶とサグレグ製の物との仕入れ値の比較がこちらの数字。これが薬瓶の再成立が上がった分で、輸送コストの対比がこちらになります。……まあ、あくまでも試算ですので誤差はありますでしょうけど。……ねえ、ゴーンさん? こんな数字が出ている現状で低位冒険者の貴重な収入源である薬草採取の依頼料を削ろうなんて非道な事は、仰いませんよね……?」
と、二人の間を遮るテーブルの上に僅かばかり身を乗り出すよようにしながら撤退する前髪前線を凝視するアンリに、ゴーンは大きくため息一つ、白旗を上げる。
「……わかりましたよ。今回も私の負けです。薬草の価格はこれまで通り、それで手を打ちましょう。だからあんまり人のことそう虐めないでくださいよ」
虐めるなどそんな意図は彼女にはなかったのだが……。
両手を挙げて降参のポーズを取りテーブルの上に交渉が始まった当初から置かれていた書類にサカサカと手早くサインを始めた額の広い男に、アンリは張り付け続けて来た営業用スマイルを消し去った素の顔で
「……毎年のこの茶番、続ける意味ってあるんですか?」
と、ぼやいた。
茶番……そう、これは茶番なのだ。
その年の天候により多少のふり幅はあれど、霊薬の原料になる薬草の売値も買値もおおむね適正価格。北大陸連合の総意により霊薬の価格は抑えるようにとのお達しはあっても、それはあくまでも"出来るだけ"と言う程度のものであり、限度を超えて天候不良の不作であれば、霊薬の売値に若干の変動があっても問題にはならない。
もっとも、一度、二度の天候不良の不作であれば、冒険者ギルドでの採取薬草の買取価格を切り下げて低ランク……大体の場合、なりたての冒険者を生活困難で駆逐して減らすよりは商業ギルドや薬師ギルド、錬金術師ギルド等が少しずつ負担を引き受ける形で買い取り価格を据え置く方が長い目で見れば望ましい。
この世界の人口はじわじわと増えていてそれに伴い霊薬の需要も増えているのだから、栽培出来ない種類の薬草の採取者がいなくなっては困るのだ。
だから今後物価の上昇等あれば薬草の買取価格が上げられることはあるかもしれないが、下げられることはまず無いだろう。
「"交渉をした"と言う実績が大切なのですよ」
と、ゴーンは言う。
「まあ……そうなんでしょうけど」
大人の事情と言うものだとはアンリも承知している。が、毎年毎年交渉の材料を用意するのも正直面倒だ。
まあ、それが仕事なのだから仕方のないことではあるけれど。
「さて、本年度の契約はこれで終了ですね」
「はぁ、そうですね。お疲れ様です」
「では、これも毎年恒例ではありますが、ここからは私用……と言うか、組合長からの伝言のお使いです」
ゴーンの署名が入った書類を手元に引き寄せ、インクの乾き具合を確認しながら紙挟みに挟み込んだアンリは面倒くさそうに頭髪エリアの控え目な男に言葉の続きを促した。
促されて口を開くゴーンもまた、面倒そうな様子を隠せない。
「"自分が生きている限りはしうる限りの贅沢な生活を約束する。そしてそう長くないだろう自分の寿命が終わったなら、その時には使い切れないほどの財産を残す契約もしよう。だから、私の愛人になれ"……と」
「"お断りだ。おととい来やがれ"───と、お伝えください」
「……そうですか」
「そうです。"しつこい"も、追加で」
「わかりました。では"お断りだ。おととい来やがれしつこいクソ虫め"と、伝えましょう」
「クソ虫まで言ってませんけど……まあ、たいがいに諦めていただきたいので、そんな感じで」
どっこらしょっ……と、ここ二・三年ですっかり口癖になっている掛け声を口にしながら立ち上がったゴーンは、冒険者ギルド勤続45年の女性職員へと目を向けた。
「もう、何年になりますかね。組合長からの秋波は」
比較的高い背丈に華奢な肩。すんなり伸びた手足は細くて長く、女性的な柔らかさがありながらもどこか中性的……と言うか、無性別な雰囲気を漂わす。
白金の癖の無い長い髪、灰緑の切れ長の両の目は長い睫に縁どられ、幻想画のように美しい顔の横、特徴的な先の尖った長い耳が突き出していた。
「私が25歳の頃からですから……たぶん三十……三年、になりますね」
と、答える涼やかな声も姿も、恐らくはその三十三年前と全く変わりないのだろうとゴーンは思う。
アンリは普人とは違う長い寿命を持つエルフ種……ハイエルフなのだ。
「あの方ももう昔と違ってギラギラしたトコロなどなくなった老人ですから、愛人と言ってもアンリさんに死に水を取ってもらいたい程度の気持ちで言ってるんですよ」
「それ、普通に愛人になれって言われるよりも重いですよね……」
「いつまでも変わらず若くて美しいままでいてくれる女をそば近くに侍らせたいと言うのは……まあ、男のロマンみたいなものですよ。今回もあわよくば心変わりでもしてくれないかなーと言う軽い感じでしたね」
「何と言うか、私としてはコレはお元気なのを知らせてくれる季節の挨拶みたいなものだと思っていますよ」
「いや、まあ……そうなんでしょうけれど、組合長が少しお気の毒になってきました」
枯れて行く花ならば時の流れに諦めもついただろうが、今も出会った時のままに若く瑞々しい美しさを保ち続ける相手では、それきり会わずじまいの初恋の思い出のようにくすむ事もなくあり続けるのかも知れない……と、目の前のエルフの姿に彼はそう思った。
「……女は現実を見ますから、男のロマンにお付き合いは出来ませんもの」
との素気無い言葉に苦笑いで肩をすくめるゴーンへ向けたアンリの視界、不意に小さなウインドウがポップアップするのが目に入る。
『頭髪領域28%損耗』『薄毛の商人紳士』『状態:二日酔い(軽度)』
「……グフッ」
「どうしました?」
「い、いえ。ちょっとこの部屋は空気が乾いているようで……」
署名のなされた契約書を挟んだ紙挟みを両腕に抱え上げたせいで口元が隠れていたのは幸いだった。
それに、さっきの真面目な空気の中でこのウインドウ表示を見ずに済んで良かったと、心の底からアンリは思った。
「ああ、今、風邪が流行っているようですから……アンリさんも気をつけてくださいね」
「ありがとうございます。ゴーンさんも今日は少し体調が思わしくないようですし、ご無理されないように」
「いやぁ……私のはアレです。商談でちょっとばかりコレを過ごしてしまいましてね」
口元にグラスを近づける仕草をしながら
「若い頃ならなんてことなかったんですが、自重しないといけませんね。こちらこそ、ご心配いただきありがとうございます」
と、笑いながら頭を一つ軽く下げ、来客は第二応接室を去って行った。
無人になった室内。一口も飲まれる事なく冷めきった茶を湛えたカップを見下ろし、アンリは小さく吐息する。
初めて会った時にはただの商会の使い走りの小僧に過ぎなかった彼も、今はなかなかに立派な男になったものだ。
「オドオドして可愛らしい男の子だったのになぁ。毛もフサフサだったし」
言いながら、アンリは片手を伸ばしてテーブルの上のお茶を取り、ぐっと冷めきったソレを半分ほども一息に喉へと流し込んだ。
喉は潤されたけれどまだまだ肌寒いこの季節、冷たいお茶に内側から身体が冷える。
「さむ……ホント、風邪ひかないように気をつけなきゃね」
ちらりと見やった窓の外、街路樹は来るべき春に向けて濃い紅色の固い蕾を明るい日の下にきらめかせていた。
まだまだ空気は冷たいけれど、空は怖いくらいに澄み通って青く、街の中にあってもかつての彼女の知るような排ガスの香りはみじんもしない。
「さて、大車輪でちゃっちゃと仕事しよー」
ボケっとしていても、仕事は片付かない。
ましてや今日は窓口担当の女の子が二人も風邪を引いて休んでしまっているのだから、自分がやらねば誰がやるのか。
「……あ、今の思考、社畜っぽい感じ?」
自分のたどった思考がいかにもソレっぽい気がして、彼女の唇に笑いが浮かんだ。
冒険者ギルド職員は、やりがいのある仕事だ。
少なくとも何の数字か現実的に把握できていない数字を日々事務所のPC画面越しににらみ続けた前世より、今の方が自分がどんなことをしてどう役立っているのか理解出来ているこの職場の方が数百倍は良いに決まっている。
前世、そう。
ハイエルフの冒険者ギルド職員アンリ・グラスは、転生者だ。
自身の死を挟んで薄らボケた記憶の中にあるのは"アマクサ ヒナ"と言う名のわりと平凡な事務職の女の人生で、この人間の記憶があったために彼女は今、ここにいる。
エルフ種の人間は、あまりにぎやかな街に出て来る事は多くない。
その中でもさらに長命なハイエルフはプライドの高い人嫌いな性質で、下賤な他種族の中では暮らすのを良しとしないのだと言うのが通説になっている。
確かに一部のハイエルフの中にはそんな者もあったかも知れないけれど、アンリの見た限りでは別に彼らは他種族を見下しているわけではないようだった。
ただエルフ種は、自然を愛する種族であるだけだ。
エルフは緑や自然が好きだから田舎暮らしを選択した。ただそれだけのこと。
恐らくは彼女も前世の記憶がなければ何の疑問も抱かぬまま、今も緑深い森の奥で彼らとともに暮らしていたのだろう。
だがアンリには記憶があった。
現在の人格に大きく影響を与える前世の記憶が。
剣と魔法と冒険の世界に生まれ変わった冒険者ギルド勤続45年のベテラン職員の彼女は、47年前に家族と周囲の反対を押し切って村を出た。
生まれ育った場所は緑豊かな美しい森ではあったが、わりと都会な場所に生まれ育った記憶を持つアンリにはどうしてもあの田舎での生活は耐えられなかった。
アンリ・グラス64歳。
自然豊富な環境から逃げ出した、虫嫌いのハイエルフ。
エルフよりも寿命の長いハイエルフ種のアンリは、64歳にしていまだ同種族間では微妙に未成年扱いされる年齢である。
苦手な物は、虫とエルフ族が得意とする精霊魔法。
特技は、『称号鑑定』。
ちなみに、剣と魔法と魔石をドロップするモンスターが跋扈するダンジョンを擁するこの世界において、『称号鑑定』などと言うふざけた能力を持つ者は彼女の他に誰一人として存在していない……。