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神様の気まぐれ体質 1  作者: 鯖の味噌煮
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縁カウント 共犯者

はじめまして。

初めて作品投稿いたします。鯖の味噌煮と申します。

今まで様々な小説を読んできましたが、ついには自分で小説もどきを書こうと思い、筆を執りました。

拙い文章や表現が目立つと思いますが、少しでも楽しんでいただけたらと思います。

幕開け

 その日、その少年は死亡した。

 アスファルトを焦がす夏の太陽が、丁度頭のてっぺんに上る昼頃丁度に、その事故は起こる。

 少年はいつも通り、学生の本分である勉学に励むために、山河町の通学路を歩いていた。

 学校指定の黒塗りの手提げ鞄を指にひっかけて、服装もやはり学校指定の制服を身にまとっている。

 少年はこの制服を気に入っていた。全身黒で塗り固められた学ランは黒いアスファルトに馴染むし、対照的に白い学校の廊下では、自分が太陽の黒点になったかのように感じられる。それに、何といっても目立たない。目立つことを嫌い、出来るだけ人と関わらないで生きたいと思う少年にとっては目立たない黒の制服はもってこいだ。

 学生服という世間一般からの認知からだってそうだ。例え自分に目を遣る人間がいたとしても、なんだ、ただの学生か、と特に目に留めることもないのだから。

 視覚的にも、認識という視点からも目立たない、黒の制服が好きだった。

 少年は私服だって全身黒だ。理由は言わずもがな、目立たないからだ。

 山河町の通学路は、どこの町の通学路と比べても特に特筆することがない普通の通学路だ。

 真ん中には黒いアスファルトで固められた道路が我が物顔で寝転がり、その道路を挟撃するかの如く白と茶の長方形の石が敷き詰められている歩道が、道路と拮抗勝負を繰り広げている。その間に立っているガードレールは、両者間の争いを止めようと心労の絶えない日々を送っているのだ。

 そんな忙しない通学路の周りには、木造の家々がアスファルトの道路と歩道の争いを観戦する観客のように立ち並んでいる。

 歩いている自分まで疲れてくるのは、毎日争いを続ける通学路の気迫のせいなのだ。決して僕の体力が少ないというわけではないのだ、と少年は自分に言い聞かせ、その日も重たい足を持ち上げていた。

 このまま東に真っすぐ進んで1kmも歩くと、今までの道を遮るかのように現れる横に伸びた道路と突き当たるから、そこを遮られるままに右に曲がり、横断歩道を渡る。

 いい加減観戦にも飽きてきただろう家々を横目に、その道を1kmと少しばかり行けば、我らが学び舎の山河町私立明山高等学校の校門が、肩幅の広さを自慢するかの如く威圧するようなその姿が見えてくる。

 その高校の2階、2年C組が歩の教室だ。

 ああ、僕の家はもう少し学校の近くにあったらよかったのに、もしくは、お前の方から僕の家の近くに来い、と少年は毒づきながら、学校を目指す。

 右手につけている腕時計を見遣ると、長針は12の数字を、小ぶりな針は8の数字を指している。

 少年はその腕時計の針を見るたびに、この長針と小針の2人が兄弟か何かに見えてきて少しおかしくなる。

 少年はこの腕時計を黒い制服以上に気に入っている。

 それは少年の母親が彼の誕生日に買え与えたもので、過度な装飾はなく銀色に輝くその姿は、無機質なはずなのにどこか謙虚さが感じられて、なんとも日本人らしく思える腕時計だった。と言っても、現代の日本人に謙虚さが感じられるかと聞かれたら、素直にはいとは答えられないかもしれない。

 これは僕の名誉の為にも言うが、日本には謙虚な人間は多いと思うし、さっきの発言は何も日本人を馬鹿にしたわけではない。

 だけど、徐々に謙虚さというものは失われているように感じるし、海外の人間が想像するような、日本特有の謙虚さというものは、既に失われつつあるのかもしれない。少なくとも、大和撫子という単語を振り撒くのは、もうやめにしたほうがいいだろうとは思う。

 そんな人間が、この日本のどこにいるのだというのだろう。

 大和撫子というのは、控えめで品のある佇まいのある清楚な美しい女性を、ナデシコの花に見立てて言う名称のことを指すらしいが、そういった在り方を目指そうというのならわかる。

 だが、自分のことを大和撫子だと言ってしまう人間がいたとしたら、その人は自分の人生を今一度顧みて欲しいし、着物を着て綺麗に着飾ることが大和撫子だ、といのならそんな風習は唾棄すべきものだ。

 対して、男性だって謙虚な人間がどれほどいるのだというのか。対岸から歩道を我が物顔で闊歩する者は道を譲るということを知らないし、電車で隣に座ってくれば大きく股を開いて、人の領域を侵さんとする。強い怒気と怒鳴り声で、自分の気に入らないことをとことん排除しようとする。

 そんな人間を散々見てきたし、自分は絶対にそうなりたくないと思う。そう思った人間こそが、真の謙虚さを取得し、慎ましやかに生きていこうと思うのではないだろうか。

 少年は口でこそ出さないが、ひょんなことから妄想を膨らませ頭の中で毒づくのが悪い癖だった。

 さっきまでも、謙虚というワードからどんどん妄想を風船のように膨らませ、風船の中の空気が許容範囲外、限界ぎりぎりまで、それこそ中の空気が飽和して破裂しそうなほど詰め込まれたところで、突然糸が切れたかのように考えるのを止めた。

 これ以上は、ストレスが溜まるばかりだし、ついには頭の中で育まれた言葉の農民たちが、一揆を起こして口の門をこじ開けそうだ。

 そうなってしまう前に思考を閉じる。農民には一揆をおこされる前に、納税を引き下げる提案をするのだ。

 歩は首を左右に振り、ひとまず一息つく。口から少し息を吐き、瞬きを何度かする。

 ネガティブな思考は止めよう。夏はなんだか、熱いのも相まってかネガティブな思考になることが他の季節に比べて多くなる気がする。

 少年は歩き出す。さあ、今日も一日頑張ろうと、横断歩道を渡ろうとする。

 血のように真っ赤な赤信号が、血を抜かれたように真っ青な顔になる。

 どんなに車が来なくても、信号は守る主義だ。それに、急ぐ理由もない。あるとすれば、8時10分には教室に到着しなければ遅刻する、ということくらいだ。

 それはそれで問題なのだが、今さら急ぎ足で向かっても間に合わない。

 今日も晩学に勤しむために家を出たつもりだったのだが、まあそれはそれ。今日は暑いのだし、先生も多少大目に見てくれるよな。

 心の中でどうでぃようもない言い訳をしながら、横断歩道を渡り切ろうとする。

 その瞬間。

 蝉の鳴き声を切り裂くような轟音が、少年の耳朶に響く。

 唸るような機械音に、熱に苛まれている地面へと更に追い打ちをかけるように押しつぶすタイヤの蹂躙。

 少年が音の方を見遣ると、眼前にはドラックマシンのように、自分へと向かってくる鉄の塊が。

 ぐしゃり。

 何かが潰れる音がした。

 何かが壊れる音がした。

 何かが終わる音がした。

 感じたことのない衝撃に脳の処理が追いつかない。砕かれた骨の音を初めて聞いた。挽肉にされる家畜の気持ちを始めて知った。何物にも代えがたい苦痛を味わった。

 最後に少年が見たものは、凄まじい勢いで回転する、黒いゴムの嵐だった。その嵐に台風の目のようなものはない。ならば、迫りくる嵐がもたらすのは、絶望と苦痛だけ。

 時間がゆっくりに感じられる。1秒が1分で、1分が1時間で、1時間が永遠に。

 死の瞬間はあまりにも遅く。あまりにも残酷で。あまりにも退屈だった。

 もしかしたら避けられるのではないか、そう思えるほどに時間はゆっくりと流れているように感じられるが、身体が言うことをいてくれない。

 ああ、このまま死ぬのだな。なんてつまらない人生だったか。何も成さない人生だったか。

 少年はそのまま目を閉じ、死神が自分の首に鎌を落とす、その時を待った。

 そして、訪れる衝撃。

 少年はそのまま、黒いゴムの塊の嵐に頭を潰され、この世を去った。






 幕間

 少年は、ただ与えられた業務を遂行するだけの機械だった。

 いや、業務をこなすというには初の仕事なのだから、仕事を遂行してきた機械を名乗るにはまだ早いな、と少年は思った。

 警官が被っていそうな黒いキャップを白い頭髪が目立つ頭に右手で押し込み、これまた黒い警官服のようなデザインの服に出来てしまった皺を、左手で伸ばした。

 少年は一通り身だしなみを整えると、満足したような表情で頷き、両手をやはり黒い短パンのポケットに突っ込んだ。短パンから覗く、病的なまでに白い膝小僧が、互いに挨拶を交わしている。

「さあ、初仕事だぞう」

 少年は意気込むようにそう言うと、黒い世界から飛び降りた。

 しばらく自由落下を続けると、辺りには青空が広がり始める。

 そう、少年は今まさに地上からはるか離れた青空の真っただ中にいた。

 パラシュートもつけずに上空を落下し続けるなど、常人なら自殺ものだが、彼はそんな状況でさえ楽しむかのように微笑を浮かべ、眼下に迫る町を見下ろした。

「これが空、これが大地、これが人の営みの結晶」

 何気なく呟いている間にも、地上は迫る。このまま落ちれば、待っているのは死。見るも無残な肉塊になることは、逃れようのない結末だ。

 少年は加速を続け、今まさにビルの屋上へと激突しようとしている。

「えっと、重力操作ってどうやるんだっけなあ」

 少年はとぼけたように言った後、ふと何か思い出したのか明るい表情になる。これが漫画ならば、彼の頭の上にはきっと電球のマークが浮かんでいたに違いない。

「告げる。引き寄せる引力に防波堤を。決して波が漏れないように」

 少年が何かの文言を唱えると、その身体は、ビルの屋上に激突する前にどんどん減速していき、やがてふわりと着地した。

 少年が着地したビルの屋上には、フェンスに看板が貼り付けられており、彼はフェンスから半身を投げ出すようにして貼り付けられているビルの看板を見遣ると、そこには青い背景から浮き彫りにするかのように、白い文字でマニメイトと表記されていた。何故か、ニの文字だけが黄色いのが特徴的だ。

 少年は与えられた知識に索引をかけ、このビルが何を目的に作られたのかを調べた。

 すると、いくつか検索ワードがひっかかる。手当たり次第に情報を集めると、このビルが日本でも有名な、商業施設だということがわかった。

 ビルの中には、アニメ作品のグッズや、漫画やゲームが所狭しと並べられており、アニメファンにとっては欠かせない場所となっているらしい。

「ふうん。アニメやゲームね。僕には娯楽というもの自体が理解できないけど、もし、僕が普通の人間に生まれていれば、もしかしたら、興味を持っていたのかもしれないね」

 そんな未来もあっただろう。少年は、風が吹いたら飛ばされそうなほどの小さな声で呟く。

 呟きはどこか儚げで哀愁に満ちていた。それは音の調べとなり、空の彼方へ消えていく。

「さあ、そんなことより、仕事だ。僕に与えられた運命は、たったそれだけのことなのだから」

 少年は気持ちを切り替えようと心の整理をしたつもりであったが、深層心理の奥底では悲しみが生まれ、産声を上げていた。

 蝉の鳴き声が耳障りな、夏の1日だった。


1 縁カウント 共犯者

 少年はいつも通りの日常を送っていた。高校を卒業し、地元の大学に進学した。大学では特にしたいこともなかったが、高校卒業してそのまま就職する未来のビジョンがどうしても見えなかったから、流さるままに大学に進学した。

 と言うのも、それはやっぱり、ただの言い訳なのだとわかっているし、大学を卒業する時にも同じことを言うに決まっている。要は、ただ問題を棚上げにしているだけなのだ。

 上手く就職に漕ぎ着けたとしても、それが本当にやりたいことなのかなんてわからないし、そもそも、僕が本当にやりたいこととは一体何なのだろう。

 考えだしたらきりがない。これ以上、この問題について考えるのはやめよう。波のように退いては寄せる思考はやがて満潮となり、乾いた海岸は思考の海に溺れていく。少年はネガティブな思考に陥りがちだった。

 今は学生生活を楽しもうじゃないか。せっかく、大学に入ったのだ。勉学に励むのは勿論だが、少しは遊びもしないと損だろう。

 気持ちを切り替えて勉強机に向かって筆を走らせる。今は夏休み。大学から出されたレポートを片付けている最中だった。

 レポートの内容は、高齢化社会を背景に捉え、その問題解解決案を提示せよ、というものだった。

 そんなこと、僕が知るかよ。少年は毒づくようにそう思いながらも、それっぽいことを書いておけばいいだろうと、筆を進ませる。

 暫くレポートを書く作業に集中していたが、途中で行き詰まり、シャーペンを机に投げ出す。

「また明日やればいいかな」

 少年は目下の課題を明日に棚上げし、椅子に深く座りなおして四肢を投げ出す。

 そのまま暫く天井を見上げていたが、ふと、机の方に向き直ると机上に置いてある鏡が視界に入る。

 鏡には自分の顔が映っている。黒い髪は見事なマッシュルームを形作り、二重瞼の上に綺麗に切り揃えている。高いとは言えないが鼻筋は綺麗に通っており、上唇は薄く、下唇は少し厚い。若々しい肌色が部屋の明かりを反射している。

 自分で言うのもなんだが、なかなかに整っている顔立ちではないだろうか、と少年はナルシスト染みた考えを浮かべる。

 だが、すぐにその考えは頭を振って消し去る。人間とは自分を客観的に見るのが苦手な生き物だ、とつくづく思う。自分の能力がいくら低くてもそれを認識できない者がいるように、自分の容姿は世間的に整っている類ではないはずなのに、特に理由なく自分の容姿は整っていると勘違いをする。いや、正しくは勘違いしたい、だろうか。

 自分の容姿は整っていると言い聞かせ余計なストレスを取り除く、あるいは、そう思うことで、実は自分は醜いのではないか、という懸念を取り払おうとしている。そう、今の僕のように。

 いけない。また、ネガティブ思考になっている。これは僕の悪い癖だ。

 部屋の窓から蝉の鳴き声が聞こえてくる。本当に耳障りだ。

 ああ、悪い思考に陥るのは蝉の鳴き声が僕の思考をかき乱すからなのだ。

「少し、寝よう」

 少年は椅子を引き、立ち上がる。

 そうだ、こんな時は寝てしまうに限る。少年は自室のベッドに身体を放り投げる。布団の柔らかさ、温もりは、こんなに暑い日でも心地よい。

 白いシーツはさながら、太陽の日を一身に浴びている大海原だ。僕は今、大海原の真っただ中に1人身を任せている。

 瞼を閉じ思考を放棄すると、蝉の鳴き声がどんどん遠ざかっていく。

 そのまま少年は心地よい夢の中へ意識を手放す。瞼の裏には現実では起こり得ない夢の世界が展開されていく。夢の中では誰でも主人公になれる。いっそ夢の中で生きていたい。現実は辛すぎるから。

 少年は寝息を立てて、本格的に眠り始めた。誰にも邪魔されることのない夢の空間、自分だけのひと時。

 だが、そんな安寧の時間は脳に直接杭を打たれるような痛みに破壊される。

「ぐっ、ごっああああ! あああああ」

 べッドから転げ落ち、床をのたうち回る。その姿はまるで、岸に揚げられたばかりの粋の良い魚のようだった。

 突如訪れた激痛に思考が追い付かない。ただ、はやくこの激痛から逃れたい一心で、少年は奥歯を噛みしめる。

 痛い。

 熱い。

 苦しい。

 激痛の杭は明確な悪意をもち、少年の意識を薄れさせる。

 もう限界だ。痛みのあまり目からは涙が決壊したダムのように、とめどなく溢れ続ける。噛みしめた奥歯は誤って舌を傷つけ口内には赤い水流が貯まり、やがて唇から洩れていく。

 視界は霞がかかったかのように薄れていき、やがて少年はそのまま意識を失った。

 僕は交通事故で死んだ。

 トラックに轢かれて、そのままタイヤに頭を潰された。きっと死体は見るも無残な姿になっているのだろう。

 僕は真っ暗な世界で揺蕩んでいる。

 僕の名前は何だっけ。僕の顔はどんなだったっけ。僕の人生は……。

 そうだ、僕の名前は三枝木さえき あゆむだ。

 顔はあまり思い出せいけど、自分がマッシュルームのような髪型をしていたということだけは漠然と思い出せる。

 まあ、死んでしまった今となってはどうでもいいことだけれど。

 僕は真っ暗な世界で、波に揺られるようにして浮かんでいる。

 手足は動かない。最初は頑張って動かそうとしたけど、どうあがいても動かないとわかってからは動くことを諦めた。

 ただ、真っ暗な世界で波に揺られている。五体投地して宙を眺めている。

 何処を見渡しても真っ暗なのだから僕が見上げているところが宙だとは限らないけど、僕が背中を預けられるところがあるのだから、きっとそこは宙なのだろう。

 一体どれほどの時間こうしていたのだろうか。もう時間の感覚すらない。もう1時間くらいたっただろうか。いや、2時間かもしれない。もしかしたら1日以上、下手をしたら年単位の時間が過ぎているのではないか。

 僕はこれから何処へ行くのだろう。地獄とか天国へ行くのだろうか。それともここがあの世というやつで、永遠に彷徨い続けるのだろうか。

 当てのない航海。船のエンジンはとっくにこと切れて、進む先は波の気分に任せる他ない。

 果てのない後悔。あの時横断歩道を渡らなければ、あの日学校に登校なんかしなければ、いっそのこと休校であればよかったのに。

 このまま瞼を閉じてしまえば、僕はこの暗闇の中に溶けて消えることができるかもしれない。闇に融解されるその時まで眠ってしまおう。

 そう思い瞼を閉じようとした時、僕の視界に光が溢れる。眩い光はやがて僕を包み込み、黒の世界を塗り替えていく。

 ああ、果てのない航海はやっと終わりを告げるのだ。

 僕は導かれるままに光の中に飲み込まれていった。

 硬い床の感触を背中に感じながら、歩は目を覚ました。

 目の前には見覚えのある天井、半身を起こし霞む視界で辺りを見回すと、どうやらここは歩の自室のようだ。

 これは一体どうしたことだろう。歩は交通事故に合い、暗闇の世界に閉じ込められていた。

 そこで永遠にも思える時間を過ごした後、光に包まれた。そのまま消えるものだと思っていたのだが、目が覚めれば歩は肉体を得て呼吸をしている。

 この状況に歩は大変困惑した。見たところここは、馴染みのある自室で間違いないと思うが、ところどころ記憶と一致しない家具があるし、ベッドや机の配置が違っていた。

 歩は謂れのない不安を覚える。兎に角誰かに合って話がしたい。この状況を一度整理したい。

 歩は自室の扉を開き、階段を駆け下りる。降りている途中、まるで自分の身体が自分のものではないかのような違和感を覚える。

 言葉にするならば、そう……身体が馴染まないような、身体とは記憶の器でしかないのだと、どうしようもなく自覚させられるような感覚だった。

 階段を下り終えると、左手には玄関とトイレ、右手側には壁、目の前には半開きの扉からは1LDKのリビングが顔を覗かせている。

 自室の家具の配置は少し記憶と違ったが、家の間取りは記憶と同じだ。

 歩は半開きの扉に手をかける。

 何故だろう、ここは馴染みのある自宅だというのに、先程からずっと、なんだか落ち着かない。触れている扉も初めて見るような感覚がある。毎日見てきたはずの扉が、他人のように思える。

 そんなはずがあるわけないのに。

 歩は今まで幾度となく握ってきたドアノブを友人と手を繋ぐように握る。

 すると、ドアノブも歩を友人だと認めるように握り返してくる。

 だが、やはりその握手にも歩は違和感を覚えずにはいられなかった。

 今まさに、お互いの友好を示しあうかのように握っている友人の手は本物だろうか。この友人は、本当は自分の知らない何者かではないのか。友人のフリをしているだけの偽物ではないのか。歩にはそう思えてきて仕方がなかった。

 そんな違和感を拭えないまま、歩はドアノブを握ったまま少し前に押し手を離した。すると、ドアは慣性に従うまま、ぎいと不気味な声をあげて完全に開け放たれる。

 歩は額に流れる汗のぬめりを感じて驚く。自分は半開きの扉を少し開けるだけで何故、こんなにも緊張しているのか。

 歩は額の汗を拭いながら、1LDKのリビングを見渡す。

 やはりそこは歩の見知ったリビングだったが、唯一決定的に記憶と一致しない場所を発見した。

 風呂場だ。

 歩の記憶では風呂場は扉を開ければ左手側のキッチンの奥にあるはずだったが、キッチンの奥にあったのは一面の壁だけだ。慌てて右手側を見遣ると、そこには浴室と洗面所の扉が歩の困惑顔をあざ笑うかのように鎮座していた。

 見間違いや記憶違いなどでは決してない。

 明らかに部屋の間取りが違う。胸中に抱いていた違和感は勘違いではなかったのだ。

 腹の底から寒気が全身に走り、血の気が引いていくのがわかる。

「あら、帰っていたの?」

 突然、張り詰めた空気を切り裂く女性の声が背後から響く。

 歩は驚きのあまり、おわ! と間抜けな声が出てしまう。

 背後には買い物かごを持った物腰の柔らかそうな女性が立っていた。花柄のVネックTシャツに、ジーパンを着こなしている。

「何なの? そんなに驚いて。母さんが帰ってくると不味いことでもあるの?」

「い、いや……え?」

 母さん? 今、この女性は母さんと言ったのか? この人が僕の母さん……?

 母さんと名乗った女性は、買い物かごを部屋の中央にある長方形のテーブルに置くと、心底疲れたような溜息をついて椅子に腰かける。

「疲れた~~。歩~~何か飲み物持ってきてくれる?」

 歩は声をかけられ困惑した表情のまま生返事を返し、冷蔵庫があるキッチンへと向かう。

 冷蔵庫を開け適当にお茶の2ℓペットボトルを取り出すと、後ろ手で冷蔵庫の扉を閉める。

 食器棚に入っているコップを取り出して、お茶を注いでいく。

 注いでいる最中、歩は彼女の方を見遣る。

 あれが母さん……。歩の記憶にある母の姿は、もう少しくたびれた感じで、白髪交じりの黒髪をいつも後ろで結わえている。顔には中年らしく薄い皺が刻まれていて、怒りっぽいけど思いやりのある優しい人だ。

 だが、今テーブルで歩の淹れるお茶を待っている彼女はどうだ? くたびれた感じはないどころか若々しい活力に溢れ、白髪なんて見当たらない。髪の毛は肩にかからないくらいで、淡い茶色のショートカットだ。白髪も皺も見当たらない。垂れ目でまつ毛が長いせいだろう、少しおっとりしていそうな印象を受ける。

 どこからどう見ても僕の母ではない、と歩は思った。

「……試してみるか」

 歩は誰にも聞こえないくらいの小さな声で呟く。左手にお茶が注がれたコップを持ちながら、彼女の元へ歩いていく。

「はいどうぞ。おまたせ、優実母さん」

「はいありがとね~」

 返事をした! 歩はイチかバチかで母の名前を呼んで彼女にお茶を手渡した。

 すると、彼女は普通に返事をしたのだ。ならば、彼女の名前は三枝木さえき 優実ゆうみに他ならないはずだ。

 歩は困惑しながらも頭の中で状況を整理する。目の前で今しがた歩の淹れたお茶を飲んでいるこの女性は、歩の母で間違いないのだろうか。

 だが、歩の目の前にいる彼女の容姿は、歩の記憶にある母の姿とはあまりにも一致しない。

 やはり、交通事故に遭い暗闇を彷徨った果てに目覚めてからというものの、何かがおかしい。

 それもそのはずか、と歩は思案顔で椅子に座る。

 歩は交通事故に遭った時に確かに死んでいるはずなのだ。タイヤに頭を潰された感覚は未だ忘れることはできない。今こうして五体満足で窓から差し込む夕日に包まれていると、あれは悪い夢だったのだと思いたくなってくる。

 だけど、あの交通事故は決して夢ではない、と歩は確信する。仮に夢だったとしても、今歩が抱える記憶はどう説明しよう? 歩は生まれてから交通事故に遭うまでの17年間をずっと夢の中で過ごしていたとでもいうのだろうか。

 否、そんな筈がない。あれが夢というには、あまりにも記憶が明瞭で、あまりにも現実的な空気感だった。

 それに、歩は自分が抱える17年間の記憶が夢だったなんて信じたくなかった。

 瞼を閉じれば、その裏側には薄い皺を貼り付けた母の顔を思い浮かべることができるし、数少ない友人との思い出や出会い、その全てを嘘になんてしたくない。

 歩にとっての記憶にある17年間は間違いなく存在した。そう思いたい。

「な~に? どうしたの、難しい表情しちゃって」優実が歩の顔を覗きながら訪ねてくる。「何かあったの? 母さんが相談に乗ったげようか」

「いや、何でもない……。大丈夫だから」

 歩は、心配そうに話しかけてきた優実から目を逸らしながら、椅子を押して立ち上がった。

「ちょっと外に出てくる」

 歩は少し外の空気を吸って、落ち着きたかった。それに、町の様子も記憶とどこか違っているところはないか、確認したかった。

「ついでにジャガイモ買ってきてくれる? お釣りはあげるからさ」

 優実はジーパンのポケットから皮の財布を取り出すと、1000円札を取り出して歩に手渡す。

「今晩はカレーだから」優実は垂れ目を三日月のように細めながら、歩みに微笑む。「じゃあ、よろしくね~」

 そんな優実の表情に、歩は不覚ながらドキッとしてしまった。

 やはり、彼女が母親とだという実感が持てないでいる歩は目を逸らしながら、わかったと答える。

 顔が熱い。これは夏の日差しのせいでもなく、部屋に空調が効いていないからでもない。単純な気恥ずかしさからくるものだった。

 仮にも母を名乗る女性だ。歩は、そんな彼女に一瞬でもどぎまぎしてしまった羞恥心と、言いようのない背徳感に苛まれる。

 歩は瞼を閉じ思い出す。歩の瞼の裏に浮かぶ母は、薄い皺を顔に貼り付けた中年女性の顔だ。決して、姉のような雰囲気の若奥様ではないのだ。

 歩は何度か首を振って悪い思考を吹き飛ばす。

「それじゃあ、行ってくるから」

「はい、いってらっしゃい~」

 歩は速足でリビングから退出する。扉を閉め、そのまま玄関へ向かおうとした時、ふとある疑問が思い浮かぶ。

 それは至極当然の疑問であったが、歩にとっては非常に重要なものだ。

 今、自分の恰好はどうなっているのか。自分の顔はどういう風になっているのだろうか、という普段身支度を整えている人間なら疑問にも思わないことだ。

 だが、歩は今まで理由が説明できないような異常な経験をしてきた。

 交通事故に遭い、そのまま死んだかと思いきや暗闇の世界で彷徨った。その後、光に包まれ消えるのかと思えば、普通に目を覚まして呼吸をしている。突然現れた謎の女性は、歩の記憶に残っている姿とは全く異なる歩の母だった。

 ならば、自分の姿はどうだろう? もしかしたら優実のように自分の姿かたちも、歩の記憶のものとは一致しないものではないだろうか。

 歩は胸に押し寄せる不安を払えないまま、玄関脇にあるトイレに駆け込む。慌て過ぎて躓きそうになりながらも、歩は流し台の上部に設置されている鏡を覗きこむ。

 そこには目元が隠れそうなマッシュルームヘアに、白のTシャツと茶色いチノパンを着ている中肉中背な少年の姿が映し出されていた。

 その姿を見た瞬間、歩はほっと一息つく。どうやら自分の姿までは変わっていないようだった。

 鏡に映る自分の姿は、漠然としか思い出せないが歩の記憶と一致している。

 その一見して椎茸のようなシルエットは、紛れもなく歩のものだった。

 だが、息をつくのもつかの間、歩の頭にはもう一つの疑問が新たに浮上していた。

 それは歩の中で殆ど確信めいたものだったが、確かめないことには何とも言えない。

 歩は産声をあげて生まれた疑問を晴らすために、町へと一歩を踏み出した。

 ◆

 その少年は山河町警察署で事情聴取を受けていた。

 蝉はいい加減活動を止めて寝静まり、鈴虫へ鳴く役割をバトンタッチしていた。昼に比べると少し涼しく感じるが、空調を効かせないと寝苦しい夜になるだろう。

「まず名前を聞いてもいいかな」

 警官の男が少年に尋ねる。

「名前……名前は、え~と……じゃあ、キリサキで」

「じゃあってなんだ、自分の名前だろう」

 警官が訝し気な顔で少年の目を見つめる。

 ははは、と乾いた笑いで少年は警官から目を逸らす。

「キリサキって苗字? それとも名前? 漢字はどう書くの?」

 質問が多いし、いちいち細かい奴だな、と思いつつも少年は答える。

「キリサキは桐沙希で、苗字の方。名前は由貴……とか?」

 名前なんて誰からも貰ってないし、そんな名前が一般的なのか少年にはわからなかった。だから、与えられた知識に検索をかけて適当に出た名前を口から出まかせに言った。

 その後で、一般的な名前を検索ワードにして調べれば良かったと少年は後悔した。

「桐沙希 由貴さんね……それで、その警官みたいな格好は何? コスプレか何か? ダメでしょ、女性がこんな夜中に変な恰好して歩いてちゃあ」

「はあ……ごめんなさい」

そもそも女性ではないし、この格好も好きでしているわけじゃないのだけど、と由貴は心の中で愚痴りながらも、口に出すと色々面倒なことになりそうなので黙っていることにした。

「まあ、今回は注意だけで終わるけど、また夜中にそんな恰好で歩き回っていたら、今度は親御さんにも連絡入れるからね」

「はい……わかりました」

 由貴は渋々といった様子で口をすぼめながら言った。

 その後も10分ほど説教染みた注意を受け、由貴はようやく解放された。

 はあ、と溜息をつきながら由貴は宙を仰ぐ。日本という国の警察は何故こんなにも面倒くさいのか。

 それに何が注意だけ、だ。殆どお説教だったではないか。

 きっと娘か何かを持っていて、娘と同じ年くらいの子はほっとけないとか、そういう質の人間だろう。

 由貴は山河町に降り立ってからというものの、目標に接触するために、夕方から目標の住居を訪ねたが、生憎の留守だったため、しばらく住居前で待機していた。

 太陽も沈み始め辺りが暗くなってきた頃、痺れを切らそうとしていた由貴は運悪く巡回中の警官に発見され、そのまま警察署まで連行された。挙句、説教まで聞く羽目になったのだ。

 自分の事ながらに呆れてモノも言えない、と由貴は本日何度目になるか数えたくもない溜息を漏らす。

 大分無駄な時間を消費してしまった。明日からは町をコスプレで闊歩する変態少年として捕まらないように、衣装替えでもしようか、と由貴は真剣に検討する。

 まあ、今日のところは仕方がないだろう。

 新しい服を新調する手段は今のところ思いつかないし、そもそも、目標と接触して仕事をこなしたら、後は本拠地に戻ればいいだけで、衣装替えなんてする必要はなくなるのだから。

 由貴は気を取り直して目標が住んでいる住居へと再び足を運び始める。

 警察署から伸びる横断歩道を渡り、由貴は住宅街へと姿を消していった。

 ◆

 歩は途方に暮れた眼差しで自室の天井仰いだ。

 あの後、新たに生まれた疑問を晴らすために、町の様子を見に行ったが、見事歩の疑問は解消した。それも悪い形で。

 歩は自宅から出て記憶にある通学路を東に真っすぐに進んだ。そのまま道なりに右に曲がり少し行くと、横断歩道に差しあたる。

 夏の夕日が歩の独創的な頭を照らしている。今日の夜も熱いのだろう。

 歩はその横断歩道に見覚えがあった。そこは忌まわしい事故の場所、歩がトラックに轢かれた横断歩道。

 そこまでは良かった。間違いなく歩の記憶と一致する道のりだ。

 問題はその先、横断歩道を渡り切ると、その先には歩が通っていた高校があるはずだ。

 だが、そこにあったのは警察署だけだった。高校のような建物は周りに一切ない。

 その瞬間、歩の疑問は氷塊した。そして、確信へと変わっていった。

 歩の疑問は、もしかしたら自分は交通事故に遭ってから自分の生きてきた世界とは違う世界に移動してしまったのではないか、というものだった。

 かなり突拍子もない疑問だったが、今の歩にはそれしか思い当らなかった。

 ただ、この解を誰も証明してくれないし、誰かに相談しようにも、どうせ一笑の元に唾棄されるに決まっている。

 兎に角、この世界は歩の記憶と致命的に一致しないことが多すぎるし、大きすぎる。

 このまま、この漠然とした不安を胸に抱えて生きていかなくてはならないと思うと、頭痛がする。

「嗚呼、誰かこの現状を的確に説明してくれ……」

 そんな者が現れるはずがない、とわかりながらも歩はその言葉を口にせずにはいられなかった。

「いいよ」

 ふと左方向から声がする。驚いてそちらを見遣ると、警官のコスプレをしたような中性的な顔立ちの少年が立っていた。

 何故いきなりコスプレ少年が自室に入ってきたのか、何故窓から侵入してきたのか、何故少年が歩の悩みを知っているのか、という当然の疑問もあったが、歩はそんなことよりも聞かなくてはならない重要な文言を口にする。

「今、いいよって言ったのか? 僕の現状をお前が説明してくれるって?」

 尋ねると、少年は微笑を浮かべ頭を軽く縦に振る。肯定の証だ。

「まあ、君も薄々気づいてきているとはおもうけど?」

 少年は肩をすくめながら片目を閉じる。なんともキザな動作だな、と思いながら歩は答える。

「交通事故で死んでからというものの、記憶と一致しない事柄が多すぎる。僕が交通事故に遭った世界とは違う世界に飛ばされてしまったのでは、と考えなければ説明がつかないほどに……」

 少年はいつの間にか歩のベッドに腰かけている。彼は足をプラプラさせながら床に視線を落とすと頷く。

「うん。君の予想は8割当たっているけど、重要な2割がどうしようもないくらいに的外れだ」

 なっ! それでは今の状況を一体どう説明する気なのだ。歩は少年に掴みかかりそうな勢いで迫る。

「ちょっと落ち着いてよ。確かに、君の言う違う世界に飛ばされてしまった、という予想は概ねその通りだよ。違うのは、君は第3者や何か大きな因果によって違う世界に飛ばされたのではなくて、自力で違う世界へ移動してきている、という点だ」

 重要な2割はそこさ、と少年はどこか得意げに話す。

 移動してきた? それも自力で? そんな自覚は一切ないのに? 歩には更なる疑問が生まれて止まない。少年は歩の状況を説明するどころか、単に話をややこしくしていっているだけだ。歩にはそう思えて仕方がなかった。

「そうだよね。突然そんな事を言われても戸惑うだけだよね。1から説明しようか」

 少年は歩に向き直り、詳しい説明をし始める。少年の言い分はこうだ。

 歩は交通事故に遭い世界を移動した。歩の元いた世界を仮にX世界線と名付けると、今歩がいる世界はY世界線とでも言うべき全く違う世界であり、2つの世界線は互いに干渉することなく存在している。本来、2つの世界の間を移動することは不可能なのだが、歩はX世界線で交通事故に遭い死んでから、何故かY世界線にいる歩の肉体に魂が移動してきてしまったのだという。Y世界線にいた歩の魂はX世界線の歩の魂に激痛とともに上書きされ、現在は歩の肉体で封印にも似た状態で眠っているらしい。

 1通り説明し終えたのか、少年はふう、と一息つき、何か質問はある? と眼差しで問いかけてくる。

「僕の状況は概ねわかった。腑には落ちないけど理解はできる。質問は2つだ。何故僕は世界線の移動が出来たのか、それとお前は何者で何の目的があって僕の元に訪れたのか、だ。何も説明しに来ただけの親切さんではないよな」

 それだと質問は3つじゃないか、と少年は笑いながら人差し指を3つ立てる。

「一つ目の質問。君が何故、不可能とされる世界線移動を可能にしたのか、それはさっきも言った通りわからない。何故かできたんだよ。無理やり言葉にするのなら、君の体質のようなもの、とでも言うべきかな。君しか持ち得ない、君だけの特異な体質だ」

 少年は指を1つ折る。

「2つ目の質問。僕が何者なのか。これは説明しにくいんだけど、僕は世界から派遣された従業員ってところかな。僕に与えられた仕事は世界の矛盾を解決することだ。ああ、世界の矛盾っていうのは君のおことだよ。死んだはずの人間の魂が未だ肉体に宿っている。加えて世界線まで移動してしまっているのだからね、これを矛盾と言わず何と言うのか」

 少年は更に指を折る。

「3つ目の質問。僕の目的だけど、これはさっきも言ったね、矛盾の解決だよ。君の魂をX世界線に戻して輪廻の渦へ昇華させる。所謂、成仏させるっていうやつさ」

 少年は最後の指を折り、行き所の無くなった握りこぶしを開いたり閉じたりして、やがて太ももに落とす。

 暫く2人の間に沈黙が流れる。あまりの静けさに、歩は耳鳴りに襲われる。

 耳鳴りは歩の右耳から忍び込み、そのまま頭蓋を通過し脳を震わせる。やがて耳鳴りは左耳から這い出て空気の中へ溶けていく。それは沈黙が破られるまで歩の耳を、脳を侵し続け思考を鈍らせようとする。

 それでも歩は耳鳴りに負けずと、耳鳴りが響く頭に思考を巡らせる。

 少年の目的はわかったが、肝心の彼の素性は未だ不明だ。それに彼は成仏させると言っていたが、具体的にはどういった方法を取るのか、そして成仏させられたらどうなってしまうのか、そもそも素直に従うべきなのか、歩は懸命に考える。

 だが、答は出ないまま少年は沈黙を破る。

「そういえば、自己紹介がまだだったね。と言っても僕にとって自己紹介に何の意味があるのかわからないけど……」

 少年は一瞬、顔を伏せ物憂げな表情を浮かべる。

「僕の名前は桐沙希 由貴……ということになった……さっきね」

 とほほ、といった表情で少年は続ける。何やら事情があるらしい。それにしても女性のような名前だな、と歩は思った。

 少年の女性と見間違うほどの中性的な顔立ちも相まって、彼は本当のところ女性なのではないか、と疑ってしまう。

「ねえ今、コイツは女なんじゃないか、と思ったでしょ、違うからね! 僕という存在に性別がどっちかなんてあまり意味はないかもしれないけど、一応男だからね」

 由貴は口をすぼめながら抗議する。

まさか表情に出ていたのか、疑いがバレそうになり歩は内心ぎくりとするが、そんなこと思ってない、珍しい名前だなと思っただけだ、と言い訳をする。なんだコイツは、心を読む能力でもあるのか。

本当かなあ、と腑に落ちない様子の由貴だったが、歩を疑いの眼差しで捉えながらも、コホンと咳払いをして話を続ける。

「それで、さっきも言ったけど僕は世界から派遣された従業員で、君という矛盾を排除しに来たわけ。まず、世界というのは君たちが地に足をつけている地球のことだ。地球というのは大規模演算機能を備えたコンピューターのようなものと思ってくれればいい。地球は君のような矛盾を生まないために、常に働き続けている。管理し続けている。」

 大規模演算機構、それが地球なのだと由貴は言う。想像つかないが、地球にはそんな機能が備わっていたのか。

 驚きを隠せない歩を見ながら由貴は得意げに話し続ける。

 先程から気になっていたのだが、世界の秘密を、由貴はこうも簡単に話してしまってもいいのだろうか。

 重要な話をペラペラと得意げに話す彼は、実のところ天然なのではないか。歩は内心そう思いながらも、黙って由貴の話に耳を傾ける。

「矛盾を嫌う世界は、君という存在を排除したがっている。このままでは他の世界線でも矛盾が生まれ、手がつけられなくなるからね。でも、世界は忙しい。人間1人に構っている余裕はない。だから、世界は演算機能の1%を切り取って、僕という従業員を作り、君の元に派遣したのさ。」

 独立行動が出来るように肉体と自我をつけてね、それが今の僕、と由貴は付け加える。

 由貴は世界から切り離された演算異能の一部で、期間限定で肉体と自我を与えられている……なるほど、由貴の素性はわかった。

「つまり……僕を排除するためだけについ最近生まれたばかりの人間、という解釈であっているか?」

 由貴は指で顎をなぞりながら、うーんと唸った後、まあそういうことでいいのかな、と呟く。

 その様子から、由貴自身も生まれたばかりで自分という存在の定義を図りかねていることが伝わってくる。

 取りあえず状況が読み込めた歩は改めて1つの質問を口にする。

「さっきからずっと気になっていたのだが、君が世界から切り離された演算機能の一部で、世界はさっさと僕という矛盾を排除したいのなら、君はいちいち説明なんてせずに、隙をついて僕を消せばそれで良かったんじゃないか? 僕を消せばそれで君の仕事は終わりだろ? 説明を求めた僕が言うのもおかしいけど、何故説明してくれたんだ?」

 確かにね、と由貴は頷きながら答える。

「それは……単に君と話してみたかったからだよ。生まれたばかりの僕は、仕事が終われば再び世界の演算機能に取り込まれる。短い期間だけど、折角、肉体と自我を与えられたんだ、少しでも長く楽しまないと嘘だと思わないかい? きっとこんな機会は2度とない。この仕事が終われば僕は地球という演算機構が壊れるまで機能し続けることになるんだから……」

 由貴は悲し気に目を伏せた。素朴な質問から思いのほか重たげな答えが返ってきたせいで、歩は俯く彼にどう声をかけたらいいのか迷いあぐねてしまう。

「まあ、でも、こんな時間はもう終わり。そろそろ夢から覚めるころだ」

 由貴はベッドから立ち上がり、歩に歩み寄る。

「さあ、もう説明はいいよね。自分の立場を再確認したら、なんだか萎えちゃったよ」

由貴は、左手を歩の胸に当てながら歩に問う。

「自己紹介したばかりだけど、もう仕事にかかるとするよ。準備はいい? 今から君をX世界線に飛ばす。その後は向こうで君を成仏させて、この夢にピリオドを打つ」

 ちょっと待ってくれ。まだ心の準備ができていない。成仏することに心の準備とやらは必要なのか、という至極どうでもいい思考が頭を過るが、歩は一度由貴から後退し距離を取る。といっても歩の部屋はそんなに広くはなにので、1mに満たない距離なのだが。

「待ってくれ! 1つ提案がある! 聞いてくれ」

 頼む! と、歩は両の掌を眼前で合わせ懇願する。歩の頭には1つの予測が浮かんでいた。それが正しければ、由貴は提案を飲むはずだ、と歩は思う。聞いてくれないのならば……その時は覚悟を決める他ない。

 由貴は歩の言葉に左手を差し向けたまま一瞬硬直するが、やがて腕を下し、歩に問いかける。

「……提案? 提案って何さ」

 ビンゴだ。今から消そうとする相手の提案を聞こうとするそのナンセンスな態度。歩は考えを悟られないように、いかにもおびえているようなふりをしているが、内心では緊張の表情を携えながらも、口元には笑みを浮かべた歩が中指と親指をこすり合わせていた。頭の中にパチンッ! と、小気味の良い音が鳴る。

「猶予が欲しい。このまますぐに消されるなんて納得できない。頼む、せめて消されるまでの猶予期間が欲しいんだ。それに……」

「それに……?」

 由貴は、歩の言葉なんてなんてことない、興味なし、といった表情で歩に目を合わせていたが、歩が少し口角を上げると由貴は慌てたように目を逸らす。

 由貴には、歩の笑みはまるで君はもうわかっているのだろう? 茶番はやめようじゃないか、と言っているように見えた。

 歩の予測が確信に至った理由は2つ。1つ目は、由貴が少しでも現世に留まっていたいと話していたことだ。歩と話している由貴は心底会話を楽しんでいる様子がひしひしと伝わってきた。2つ目は歩を消そうと行動に移した時だ。あの時の由貴は自分の役割を改めて語ることで萎えてしまった、などと言っていたがそんなのつまらない口実だ。頑張って自分に言い聞かせているのがバレバレだ。本当はもっと話していたい、現世に留まり町を探索してみたい、食事なんかも興味があるし、どこかに遊びに行ってみたい、そう思っているに違いない。初対面の歩にさえ悟られてしまう由貴はどうやら、嘘が下手糞なのだ。取り繕うのに慣れていない。

 だがら、歩は言葉を紡ぐ。自らの意見を押し通す言葉の続きを。歩の表情はいつの間にか勝ち誇った表情に変わっていた。

「君だってまだ、遊んでいたいだろう?」

 その声は、まるで子供が無邪気な心で友人を遊びに誘うようだった。一緒に町へ遊びに行こうと手を差し伸べる子供の姿が由貴の脳裏に浮かぶ。

 2人の間に少しの沈黙が。しかしその沈黙は、すぐに由貴の吹き出すような笑いに破られる。プッと、口元を押さえながら笑いをこらえる由貴。そんな由貴を見た歩はつられて笑ってしまう。それを皮切りに2人は決壊したダムのように笑い転げた。

 どのくらいの間笑っていただろうか、1分か? あるいは5分? もしかしたらもっと長い間笑っていたかもしれない。腹がねじれて死にそうだ。ようやく、2人の笑いは収まり歩はお腹を押さえながら足を崩して座り込んでいる。由貴は歩のベッドの上でひぃひぃ言いながら寝転がっている。

「あ~あ。頑張って真面目ぶったつもりなんだけどなあ……見破られちゃったかあ」由貴は部屋の天井を仰ぎながら言う。

「当たり前だよ。話の切り出し方がわざとらしいし、自分でも言ってたじゃないか、こんな機会は2度とないから今の状況を楽しみたいって」歩は自分のベッドで寝転がる由貴の横顔を見ながら話す。

「じゃあ与えちゃおうかな、猶予期間」

由貴は猶予期間を与えるなんてさも簡単といった様子で言うが、そのあたりの方法に関して、歩は考えなしだった。というより、考えようがなかった。完全に話の流れ任せ、由貴任せだ。

「簡単に言うけど、可能なのか? 世界? とやら早いところ僕を消したいんだよな、だったら、そう簡単にはいかなそうだけど。いや、僕から提案しといてこんなこと言うのもおかしいけどさ」

「確かにね」由貴はベッドに座りなおして頷く。「世界は今だって僕たちのことを管理している……監視している。この会話だって筒抜けだろう」

 普通ならね、と由貴は続ける。

「だけど、問題ないよ。この部屋に侵入する時には既に偽装が完了しているからね」

 偽装? それはつまり……。歩は、まさかと訝し気な目を由貴に向ける。

「そのまさかさ。この部屋に限定的なプロテクトをしてある。世界には僕たちの言動はその通りに観測されていない。つまり、世界に嘘をついている状態だ」ふふん、と由貴は得意顔だ。目を細めて口角を上げている。腕は平らな胸の前で組まれている。というか、由貴はこう見えて男なのだから胸が平らなのは当然か、と考えたところで歩は思考を打ち払う。いけない、今何か危ない妄想をしていたのでは……。歩は、今まで自分が築き上げてきたアイデンティティ崩壊の危機を感じた。

「筋書きはこうだ」由貴は歩の密かな苦悩など露知らず話を続ける。

「世界は君というターゲットに対して、僕という派遣従業員を寄越した。僕は無事、ターゲットの根城まで潜り込みターゲットを追い詰めた!」由貴は、ストーリーを語る舞台役者よろしく少し大げさな手振りで語る。何故か、右腕は肘をまげて横水平に構え、右手の手の甲に縦水平に肘を曲げた左腕の肘をつけている。どこかの巨大ヒーローが必殺技のレーザーを打ちそうなポーズだ。両脚はベッドの下でバタバタしている。

「だけど、僕の悪戦苦闘も虚しくターゲットは、お得意の能力で魂を別の誰かへ転移させてしまう! おのれターゲット小癪な!」

 何がお得意の能力だ。歩の呆れた視線など届かず、由貴はノリノリだ。

「そこで僕は提案する! 頼む! 僕だけの力では奴を捕らえきれない……手伝ってはくれまいか。そう、そこの君!」

 ビシ! と由貴は犯人を突き止める名探偵よろしく歩に人差し指を向ける。人に指を向けるのはやめなさい。

「こうして、僕は被害者の君と一緒に逃げ出したターゲットの魂を追うのであった……一体、奴の魂は誰に憑依したというのか……」

 由貴は明後日の方向を向きながら、右手で握りこぶしを作り胸の前で構えている。なんなのだ、この茶番は。歩は乾いた笑いを漏らす。

「つまり、世界にこの偽装が露呈するまでが猶予期間ってことさ。因みに、君がX世界線の魂だということが世界にバレないように、君の内側に眠っているY世界線の歩という魂を薄く伸ばしてフィルターのようにしてくっつけてある」

 魂を薄く伸ばす……? 皮のようなものだろうか。なんだか薄気味悪い。歩は顔をしかめる。

「だからまあ、暫くの間、君はY世界線の歩として世界には観測されると思うよ」

「暫くの間って、どのくらいの期間騙せるんだ?」

 そうだなあ、と由貴は思案顔をしながら指で顎を撫でる。由貴の指は細くて白い。毛なんて1本も生えていない。白い陶器を思わせるピアニストのような指だな、なんて歩が思っていると、由貴はベッドから降りて答える。

「ざっと1カ月!」

 自信満々に豪語した由貴だったが、すぐに自信なさそうな顔で言いなおす。

「いや、やっぱり1週間くらい……?」

 くらい? と言われても。歩は首をかしげて問う由貴から目を逸らす。

「とにかく、バレるまでだ! それまでは一緒だね」

 そうだな、と答えようとした時、歩は考え直す。待て、今なんて言った? 一緒といったのか? それはつまり……。

「じゃあ、これからよろしくね! 歩!」


この稚拙な小説を最後まで読んでくださった方は果たしていらっしゃるのでしょうか。

もし、最後まで読んでいただけたのならありがとうございます。そして、お目汚し失礼いたしました。

歩と由貴の冒険は、もう少しだけ続きます。

最後まで読んでみよう、という方が1人でもいらっしゃったのなら我が拙作も本望です。

よろしくお願いいたします。

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