第十六層 強い者、弱い者
「ほら、コーヒー。気分が多少晴れるわよ」
「ありがとう」
台所から出てきた千勢は久信にコーヒーの入った白いカップを渡す。
渡されたコーヒーは熱く、豊かな薫りが久信の鼻をくすぐった。
コーヒーの熱さで火傷しないように口に含む。
「…………甘いね」
「そっちの方が疲れは取れるわよ」
これ完全に貴方の好みですよね?
せっかく用意してくれたのにツッコミは野暮かと再度口に含む。
コーヒーが本来持っている苦味を砂糖の甘味がこれでもかと凌辱の限りを尽くした一品となっているが好きな人は好きなのだろう。
「ところで怒ってたんじゃなかったの?」
「そんな顔してる奴を放って置けないわよ」
「ありがとう」
甘過ぎるコーヒーが今は自然と口に合った。
余程心が参っていたのか。気が抜けた途端に涙が溢れた。
「ちょっ、泣くこと無いじゃないの」
「あ、ああごめん。違うんだ、これはその…」
咄嗟に上手い言い訳も思い付かず言葉を濁す。
「ほら座りなさいよ」
千勢は場所を移動してソファに腰を下ろす。
久信も言われるがままに千勢と向かい合う形で座った。
「………そっち?」
「え?何か間違えた?」
別に良いけどと呟く千勢は微妙に不満げであった。
「それであんたは何を悩んでるのよ」
コーヒーを飲みながら千勢は素早く話を切り出した。
「人を説得した後にそんな顔されても嬉しくないわよ。いいからとっとと話しなさいよ」
強引な千勢に違和感を覚えながらも久信は心配された事が嬉しかった。
千勢は今かなり危険な心情をしていた。
待ち望んでいた敵との再戦が叶い、明日にはまた決着を着ける為に出向く事となる。そんな周りを気にしなくなっても仕方のない状況の中で千勢は久信に心を配ったのだ。
そう思えば嬉しくなるのも仕方が無かった。
「僕は今、自分が何者なのか分からない」
だから打ち明ける。自身の思いを。
「【第二深層領域解放】で僕は前世に何があったのかを少しだけ知った。そこでは男が自己犠牲を望み、守るべき者たちの前から姿を消した」
「それで?」
「正直それだけ。思い出せたと言うよりも映像として鑑賞したに近い感じなんだけど」
カップを両手で握ればじんわりとした温もりに近い温かさが伝わって来る。
茶褐色の液体が揺れるも表面には鏡の様に映る自分の顔。果たしてこの映っている顔は自分なのか。
「それでも僕の行動は僕自身が決めたものなのか前世の自分が動かしてるだけなのか分からなくて怖いんだ。そのうち自分じゃなくなるんじゃないかって」
「だから悩んでいたって?」
「うん」
「バカね」
「言うと思った」
「バカって自覚あったんだ」
「まあね。特に鈴原さんからしたら悩みでも何でもないのかな」
千勢は持っていたカップを机に置いた。
「そうでもないわよ。私だって悩むもの」
「え?」
意外な発言に久信は伏せていた顔を上げる。
「私だって最初から今の自分を捨てて前世の自分に戻ろうとした訳じゃない。けどこうなっても私は鈴原千勢だって言い切れる」
千勢は完全に黄金に染まった自身の髪をかき上げる。
彼女の髪は元々黒かった。それが【霊隔】に触れるごとに金へと変わって行けば嫌でも実感が湧くもの。それでも彼女は止めなかった。
「こんなの気の持ちようだもの。人より何かを経験して記憶として持っているか持っていないかってだけで判断するのも行動するのも私自身だって」
そして彼女は決断した。全ての記憶を取り戻して心の底から湧き上がって来る感情の正体を突き止めようと。
結果として彼女は記憶を取り戻して人を嫌悪する理由を掴んだが、それでも鈴原千勢である事を止めてはいない。
「だからあんたも割り切った方がいいわよ。どう動こうが自分なんだって」
「鈴原さん…」
事は単純だった。
今の自分が消えると思うから不安に思うのだ。
だけどそれは違う。【霊隔】に触れる前から修行として山に入ったのも、刀を振るい【亡霊】と戦うのも判断して行動したのは自分の意志だ。それだけは間違いなかった。
なら、千勢に信頼させる為に自らの首に刀を置いて身を危険に晒したのも前世に振り回された結果ではない。
たとえ前世の記憶が無くとも久信はそれを実行しただろう。
そう考えれば胸の蟠りが解けて行くのを感じた。
「ありがとう。なんか楽になったよ」
「嫌なら明日来なくていいのよ?」
冗談めかしに笑う千勢は意地の悪い笑みを浮かべる。
「ちゃんと来るよ。鈴原さんを放って置くと危なっかしいし」
「言うわね」
二人は帰路に着くべくコーヒーを全て飲み干した。
空になったカップには何も映らないが見なくともそこにいるのは自分自身だと自信を持って言う事が出来る。
だからもう大丈夫だ。
明日は今日以上に頑張らないといけないかも知れない。そうなっても自分自身だと胸を張っていられるように努めて行こうと心に誓うのだった。
・・・
久信と別れた千勢は帰宅を果たす。
「ただいま」
その返事を返す者はいない。
彼女はマンションの一角を借りて一人で住んでいる。
こうなったのは自分の意志であり誰かのせい、ましてや前世の自分の意志と言い訳をする気は毛頭無かった。
「誰もいないってこんなだったかしら」
それでもどこか空虚。先まで満たされていたモノが滑り落ちてしまった様な感覚に存外な驚きを覚える。
「意外と私も弱かったのね」
呟きながら暗い部屋に明かりを灯す。
人がいない。冷めた部屋にどれだけの光量を増やしてもそれは変わらず、より一層の冷たさを感じさせた。
僅かに溜まった埃。
音の無い空間。
何も飾っていない真っ白な壁。
ここはあまりに空虚だと執拗なまでに伝えて来る。
「まったくどこのOLよ」
帰って早々にベットに腰を掛ける千勢はその勢いのまま横になる。
こんなにも空虚に感じてしまうのは、と考えるだけで思い浮かぶ男の姿。
妙な安心感を与えて来るせいか人嫌いな筈が一緒にいたいと思わせてしまう。
「それにあいつは…」
私に背中を見せた。
仲間だった者たちは彼女に一度だって背中を見せた事はない。
何せ彼女が攻撃すればそれに巻き込まれるやも知れない危険が伴ってしまう。なのに久信は完全に理性を無くし全力で暴れる彼女の前に立った。
「何でこんなにも気になるのかしら」
妙に顔が見たいと思う。声も聴きたい。
戦う姿は雄々しく、私が一人になるのを止めるだけの強さを見せるのに、日常に戻れば自分が無くなる事に恐怖して涙を見せる弱さもあった。
千勢の顔に思わず笑みが浮かぶ。
己の内を吐露する久信に自分の心も打ち明けたのだと思うと何だか照れ臭く感じる。
これは、信頼、なのだろうか?
誰からも信頼などされず、自分もまた信じる事を止めた彼女には分からないが少なくとも昔に裏切った者たちに比べれば雲泥の差だ。
「あいつらは私の前で弱音を吐いたり、何かを相談なんてして来なかった」
勇者の意向のままに、勇者の進むままに、と彼らは何をするにも邪魔はしなかったが信頼関係を深めても来なかったと記憶している。
長い時を過ごした仲間だと錯覚してしまっていたが、この時代、そして久信の有り方を見て今なら違うと断言出来た。
仲間なら心を通わすものだと。
仲間ならお互いにぶつかり合うものだと。
仲間なら手を取り合うものだと。
だからあいつらは違う。ましてや弱り切ってから背中から不意打ちをする者たちを仲間と呼ぶにはあまりに虚しい。
「明日は絶対に殺してやる」
遠足の様に待ち遠しく、ピクニックを楽しみに思う気持ちで殺意を膨らませる。
早く明日が来ないかと胸を高鳴らせながら今夜は眠りに着くのだった。