第十五層 休戦②
事務所に戻った千勢は無言のままシャワールームへと入って行く。
久信も泥々になった身体を綺麗に洗い流したかったが物事には有線するべき事がある。
「凄い有り様だな」
出迎えた六角は久信の惨状を目の当たりにしながらも予想の範囲と冷静に呟いた。
「どうしたんじゃ今日は?随分と派手にやりおったのう」
ノエルもボロボロな久信相手に救急箱を持参する。
しかし久信は怪我を手当てしなかった。
「今やっても風呂に入ったら取れちゃうからいいよ。どうせかすり傷だから血も止まってるし」
「ふむ、そうかの」
救急箱を机に置いて椅子に座るノエルは改めて久信へと向き直る。
「それでどうしたのじゃ?」
どうしたか、そう聞かれるとどう返答するべきか迷ってしまう。
何せこの傷は【亡霊】ではなく千勢の攻撃の余波によって受けたもの。
事実のままに話すのも気が引けた。どのみち観測班の者も危険と判断して逃げていたのは確認している。ならば後は久信自身の口だけだった。
「【亡霊】にやられまして」
千勢の名誉の為の嘘だ。ここで本当の事を言ったとしても千勢自身に影響はないだろうが何故か久信には千勢が悪く思われたくは無かった。
「そうか」
「まあ良いがのう」
何かを察した六角とノエルはそれぞれ相打ちを打つ。
「なら俺は帰る。その【亡霊】はお前たちで決着を着けるつもりだろ?」
「はい。そのつもりです」
どうにか出来る保障などありはしないがあの【亡霊】だけは他人を巻き込んではいけない。巻き込めば必ず千勢自身がその者に対して牙を向く。
そうである以上久信に誰かに頼る選択など取れるものではなかった。
「気を付けろ。どの道俺たちが今日討伐した【亡霊】はお前たちのを含めて三箇所分だ。残り四箇所もあるとなると時間的に援護は厳しいからな」
それだけ言うと六角は部屋を出て行く。
「妾も帰るとしようかの。時に久信よ」
「何ですか?」
「お主も程々にしておかんと飲まれるぞ?」
「………分かってます」
現に目の前で前世に飲まれた者がいるのだ。無理をして力を求めれば久信も自身の前世の記憶を開いてしまい千勢の様になるだろう。
感の良いノエルが久信の纏う空気の異変を感じ取ったのか、【霊隔】の【第二深層領域解放】した事による経験の上乗せに気付く。
あまりに他人に目を向け過ぎる久信への忠告。
似た者同士と捉えるべきか、現世の自身に無頓着なのはこの世界に生きる者としては限りなく危うく、見方によっては自殺とも取れる行い。
しかし口でどう言おうと結果は変わらないだろうとノエルは知っている。それが前世の記憶(呪い)なのだから。
「若いのう」
「ノエルさんだってまだまだ若いじゃないですか」
「分かっておらんのう。この年にもなってくると一年など瞬きと変わらんものよ」
「それ二十代後半の台詞じゃないですよ」
「お主もこの年になれば分かるものじゃ。では帰るとするかのう」
「お疲れ様です…………………………ふぅ」
ノエルは悠々と事務所を後にする。
残された久信は深々とため息を吐いて床に座り込む。
無茶をした自覚はある。それでもああしなければ後悔すると何かが叫んだのだ。
【第二深層領域解放】。初めて行った実感が今になってやってくる。
まるで映画館にでもいる気分だ。
登場人物はさっぱり分からない。映画の内容も一部しか見ていない。なのに胸は締め付けられる痛みを覚える。
あまりにも強い感情が精神に影響を及ぼした。
事実、久信は千勢が矢に狙われた時に渾身の技を持って打ち払った。【第二深層領域解放】していない久信ならば精々千勢を横倒しにして何とか逃れるだけだっただろう。それだけの速度で矢は放たれていたのだ。
久信は死さえ厭わなかった自分の行動に思わず身震いを起こす。
技術そのものが【第二深層領域解放】によって向上していたからとしてもあんな行動を続けていれば命がいくつあっても足りない。
「間違っていたのかな…」
行動の成否を判定する者はここにはいない。それこそ久信自身が判断すべき事で他人に委ねるものでもない。どれだけ自分の行動に間違いがあろうと結局自分自身に返って来るのだから。
もちろんそんな当たり前を久信は理解している。ただ口に出してしまう程に久信は弱っていた。
「……はぁ」
気が重い。
『すみません。僕は行かないといけませんから』
目を閉じれば浮かんで来る紺色の着物を着た先生と呼ばれていた優しい顔をした男。
赤い刀を携えて誰かの為に何かの犠牲になった男の姿。命を顧みないあの行動は後ろの生徒と思わしき男女を守る為。
男がどうなったのか思い出せないが生徒の女の子が必死に叫ぶ程の何かが襲っていたのだ。すべからく男はあの後は生きられなかっただろう。
こうして考えて見ると男との共通点の多さに気付く。
赤い刀に紺色の着物は【第二深層領域解放】した久信が持っていた代物だ。であるならば…。
「僕はあの人なのかな」
自己犠牲を良しとした男。
となれば久信もまたこのまま解放する深層領域を下げて行けば自ずと同じ道を辿る事になるのだろうか?
怖い。自分が無くなるのが怖い。
怖い。純粋に命を落とすのが怖い。
怖い。自己満足を貫き通して残された者を無視するのが怖い。
僕の価値観を壊されて前世の僕に侵食されるなんて。
ある意味自殺と変わらない。自ら望んで過去であろうとするなら今を殺すと言う事。そこに恐怖しない方がおかしかった。
「でも後悔は、ないんだよ」
前世の自分に飲まれかけていながらも最善を尽くせたのだから悔いはない。
悔いはないのにしこりが残る。あやふやな気分になるのは自分の意志ではなかったせいなのか。
久信は重くなった頭を床に向ける。
見えるのは己の手足。両手を開閉させて何かを確認するもそれで何かが分かる筈もなかった。
「何やってるのよ?」
久信の視界にスラッと白い脚が映り込む。この美脚の正体など顔を見なくてもよく分かった。
「ああ、鈴原さん」
顔を上げる久信に千勢は顔を歪める。
「随分辛気臭い顔してるわね」
「そう?いつも通りだよ。風呂上がりの美少女の姿に興奮が抑えられないから顔洗って来るね」
「どんな言い訳よ?」
強引な切り口で立ち上がって風呂場に向かう久信に千勢は呆れた顔になる。
「そんな顔で興奮しましたなんて言われても説得力ないわよ。死人みたいな顔しといて」
「いや、もう興奮し過ぎて鼻血が出そうだよ?」
「青ざめてるから。むしろ貧血起こしてるから」
「それはあれだよ。ほら下半身に血液が行き過ぎて?」
「タッてないじゃない」
「僕のサイズが小さいから分からないんだよ」
「……言ってて虚しくならない?」
「……分かる?」
もちろん久信の股間は平常通り。大きくも小さくもない普通のサイズで納まる所にしっかりと納まっていた。
無論そんなアホなやり取りをしたかった訳では無い。
久信は逃げる様に千勢の横を通り過ぎようとするが千勢にその手を掴まれる。
「………」
久信はどんな顔をしていいか分からなかった。
はっきり言ってしまうと千勢が無茶をしようとしなければ久信は【第二深層領域解放】をしなかった。
もちろん責めたい訳では無い。【第二深層領域解放】をしたのは久信の勝手であり久信の意志だ。他人にそれを擦り付けるのはお門違いも甚だしい。
だけど千勢の一件でやったのも事実。お前がいたからやったんだとする免罪符が目の前に有っては顔をまともに見るのは難しかった。
「………私のせい、よね」
「ちっ、ちがっ!」
「違わないわよ。あれだけ私を庇っていればね」
免罪符自身が認めてしまっているのだ。前世を叩き起こしたのは私が原因だと。
「あんたは私と違って【霊隔】の深い所まで触れようとしていなかったもの。なのに今日は急に第二深層まで触れていたらバカじゃなければ気付くわよ」
千勢はゆっくりと手を離す。
「風呂入って来なさいよ。その後で話しましょう」
「…うん」
手を離された久信はそのまま脱衣所へと入って行く。
そこに設置された鏡の前に映る自分はそれこそ死人同然。下手をすれば以前討伐した落ち武者たちの方が元気のある顔をしていた気がした。
「これは酷いな」
傍若無人に振る舞う千勢でも気に病む姿だった。
早く済ませてしまおうと久信は風呂へと入って行くのだった。