アイシスとアマンテュルス
大学都市アガシャのたった1つの街門。
その近くの一画に、壮麗な聖廟教団の神殿がある。
謎の鳥面の男により壊滅状態に陥った白聖騎士団の団員たちは、限界まで意気消沈した様子で、そこに帰還を果たした。
実際のところ、死人はおろか、大きな怪我をした者さえいないのが奇跡と言えるほどの負け戦だったのだ。気落ちしない筈がないだろう。
神殿の中庭で団員たちに解散を告げると、団長であるアイシスは、ただ1人で神殿の最奥に足を向ける。
「ア、アイシス殿、一体何が!?」
途中で、心配した何人もの教団員が声をかけて来るが、アイシスは右手を上げてその問いを制止するばかり。何も語ろうとはしない。口を一文字に結び、思い詰めた表情で足を速めるだけだ。
そしてアイシスがたどり着いたのは、観音開きの重厚な扉の前だった。
小さく息を吸うと、アイシスは扉の両脇に立つ衛士に頷いてみせる。それを合図に、衛士がゆっくりと扉を開く。
誰もおらず、調度品もない薄暗い部屋にアイシスが入室すると、その背後で静かに扉が閉じられた。
部屋の中央に佇み、アイシスは静かに瞑目する。
自然に立っているだけだが、背筋の伸びたその姿には、凛とした美しさが漂っていた。
そのまま、アイシスが身じろぎもせず待っていると、10分ほどして、室内が白く発光し始める。強烈だが、不思議と眩しくはない光だ。
やがて光がおさまると、そこは、どこまでも広がる白い空間に変貌を遂げていた。壁も天井もなく、さりとて太陽や雲がある訳ではない、ただ白いだけ。そんな空間だ。
天と地の境が判然とせず、無限に広がっているかの様な、ひたすらに白い世界に立ち、アイシスはそっと目を開く。
その前方の白い空間が、ゆらりと捻れた。そして、その捻れの中から、1人の人間の影が浮かび出て来る。
流れる様な動作で片膝を突き、頭を垂れるアイシス。
銀の髪、真っ白な肌と、この空間の一部の様なアイシスの前に出現したのは、白い空間を照らす美しい色彩の持ち主だ。
豊かな黄金の髪、エメラルドのごとき鮮やかな碧の瞳、血色の良い桜色の唇、内から光を放つ白磁の肌。それは、完璧なまでに美しい1人の少女であった。
「アイシス、大儀であった。その身に変わりはないか?」
染み1つない白い布地に、金糸で美しい刺繍が施された貫頭衣を着た神々しいまでの美少女が、外見に似つかわしい涼やかな声でアイシスを労う。
「ありがたきお言葉! 私も団員たちも、奇跡的に傷1つございません! しかし、この度はアマンテュルス様よりお預かりした魔動鎧と全てのクモを失ってしまった上、鳥面の男をも取り逃してしまいました! アマンテュルス様からいただいた使命を全う出来ず、また、魔動鎧とクモを失った責を――――」
「アイシス、それで良い」
「――――は!?」
隊員たちを守る為に、任務を失敗した責任を1人で負う気であったアイシスは、アマンテュルスの言葉に自分の耳を疑った。
「今回の任務が失敗する事は、最初から分かっていた。その上で、アイシスたちに任務を申し付けるしかなかった。許せ」
「そ、そんな! もったいない事を!」
アマンテュルスが申し訳なさそうに詫びの言葉を口にするのを、アイシスは慌てて押し止めた。聖廟教団にとって絶対的存在であるアマンテュルスに、下々の者に頭を下げるなどという真似をさせる訳にはいかなかったのだ。
「次こそはこの身命に換えても、必ずや鳥面の男を討ち取ってみせます故、アマンテュルス様におかれましては――――」
「すまぬ、アイシス。それも、もう良いのだ」
「――――!? 鳥面の男は、討つ必要がないと・・・? それは、我が白聖騎士団には任せられないという事でありましょうか?」
「それは違う。鳥面の男を追う必要は、もうなくなったのだ」
アマンテュルスの言葉に、アイシスは脳天を殴られた心地になった。
では、理由さえ教えられず、問答無用で鳥面の男を殺そうとした自分たちの行いは、一体何だったのか?
しかし、己の胸の中に湧き上がろうとした疑問を、アイシスは一瞬のうちに封じ込めた。アマンテュルスの言葉は絶対である。たとえ今は理解出来ない内容であろうと、必ず得心出来る日がやって来る筈なのだ。
「では、鳥面の男に偶然出会ったとしても?」
「何もする必要はない」
「敵対行動を取られた時は?」
「その時は、返り討ちにするが良い。ただ、その様な事態は出来るだけ避けて欲しい」
「承知しました」
アマンテュルスの言葉を素直に受け入れるアイシスに、すでに迷いはなかった。理由など分からなくとも、黙って頷くだけだ。
「それはそうと、病状の方はどうだ?」
「そちらに変わりはありません」
頭を下げたまま静かに返答するアイシスを、アマンテュルスは心配げに見やる。
アイシスの異常に白い肌は、実はある病気が原因なのだった。
ザナン蟲と呼ばれる寄生虫が心臓に巣くい、徐々に肉体の機能が損なわれていくザナン病は、確実に宿主の生命を奪う不治の病として、広く知られている。アイシスの肉体を蝕んでいるのは、正にそのザナン病なのだ。
身体の傷口等からが血液中に入ったザナン蟲の卵は、宿主の心臓内に留まり、孵化し、成長を始める。成虫となったザナン蟲は心臓の内壁にへばり付き、やがて同化した上、更なる卵を撒き散らし、結果的に宿主の心臓内には無数のザナン蟲が巣くう事になってしまう。
宿主は極度の貧血に見舞われ、全身から血色も失われていくが、ただ、すぐに倒れるような事はない。ザナン蟲により心臓が作り替えられ、膨大な魔力が発揮されるようになり、肉体の変調を打ち消してしまう為だ。
が、魔力が病状を抑えていられるのは、永久ではない。
病状が進行し続け、魔力で抑えられる限界を超えた途端、宿主は操り人形の糸が切れるかの様な唐突な死を迎える事になる。
アイシスが、なぜザナン病に罹患してしまったかは謎である。
通常の生活を送っている者が、自然にザナン病にかかる事は、まずないと言って良い。唯一あるとすれば、ザナン病にかかっている者が身近にいて、偶然その者の血液が体内に入ってしまう場合だ。それも口からでは血液中の卵が消化されてしまうだけなので、発症する事はない。傷口等から、血液中に入る必要があるのだ。
それほど身分が高くなかったとはいえ、貴族の生まれであるアイシスが接触する人間は、ごく限られていた。そして、その者たちの中にザナン病にかかっている人間がいなかった事も分かっている。
つまりアイシスは、幼少のころに、何者かの手によって意図的にザナン病に罹患させられてしまったと考えられている。
これにより、アイシスの人生は大きく変わってしまった。
肉体的な接触が病気を感染させてしまう可能性が強い為、婚姻の道を断たれ、アイシスは聖廟教団に預けられる事になるのである。アイシスが10才の時だ。
そこでアイシスという少女の人生は、終わったも同然であった。
が、教団はアイシスを神殿騎士として育て始める。
ザナン病により人並み外れた魔力を有するのは確かだが、稽古等により毎日の様に自らの血を流す騎士という役割は、アイシスに相応しいものとは言えなかった。感染を恐れる騎士たちはアイシスに近寄る事さえ恐れ、拒否し、アイシスは孤立を深めていく。
しかし、そんなアイシスに騎士団の中での地位を確立させたのも、ザナン病による強大な魔力であった。
むろん、剣術、騎乗術を始めとする様々な技能に、アイシスが秀でていたのは確かだ。が、実力的に拮抗する者は、何人もいた。そんな中でアイシスに騎士団の団長という地位をもたらしたのは、間違いなくザナン病のおかげであった事は、大いなる皮肉であろう。
ただ、その生命がいつまで保つかは、正に神のみぞ知るところだ。
真っ白な空間からアイシスの姿が消えた後。
「もう少し。もう少しの辛抱で、貴女は解放されるのですよ、アイシス・・・」
そんな呟きを残し、アマンテュルスの姿も消え去ったのであった。