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wind from Venus  作者: 春鮫
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シティ・Lと大天使の庭

 石畳の路はわずかに湿っていた。通り雨の後。霧深いLondonの街。日照規定時間を過ぎ夕闇がひたひたと忍び寄っていた。河を隔てた公園から木々のざわめく歌声。

 ――憂鬱症に囚われているのはオレだけじゃないさ。隣の白樺を見てごらんよ。真っ青な顔で震えている。

 リオ・インコグニタは一つのドアの前に腰掛けていた。木製のドアにもたれかかり、長い脚を湿った黒い石畳の上に投げ出す。無人の通りの寂しさが身体を冷やす。背後のアパートからも人の気配は感じられない。打ち棄てられたシティ・Lの一画だった。ガラス窓は遠い昔に青ざめたまま、もう元の色には戻らない。笑い声が賑やかに震わせたあの頃には。石畳の街、シティ・L。霧深き街、シティ・L。植物の王国、シティ・L。この街の真の住人は彼らだ。高い天井を支える幹に、枝葉に覆われて、シティ・Lは静寂の歌を歌う。硬いブーツを蹴って起こされるまで、リオは静寂の歌に埋もれていた。彼女の耳には、このシティを支配するもののあらゆる歌が流れ込んでくるのだった。

 ――憂鬱症に囚われているのはオレだけじゃないさ……。


 硬い、真っ黒なブーツを蹴飛ばした日のことを思い出す。いつもどおり冷たい霧雨が降り、石畳の上は薄暗い青に塗られていた。ドームの外からやって来たロケット飛ばし屋のニュースはシティをざわめかせてはいたものの、ハロルドにとってはいつもどおりの日。農場と呼ばれる土を耕し、微生物の数を調べて、不味い給食、トイレでの暴行。いつもどおり。

 死体も見慣れている。ただし行き倒れは珍しい。シティ・Lでは生きた人間同様、死んだ人間の数も厳密に管理されているからだ。ハロルドは耳を澄ました。アパートの上階から古いレコードの音が漏れ落ちる。が、ガブリエルの歌声はない。

 ハロルドはもう一度ブーツを蹴飛ばした。ようやく女が目覚めた。最初に口にしたのはリオ・インコグニタという名前。空腹で機能停止していたんだという冗談。ロケット飛ばし屋という職業は不味いスープを飲んだ後で聞いた。

「旅人なのかい、君……」

「そう呼ぶと格好いいけど。色々と呼ばれるよ。招かれざる客とかね。今更ロケットを打ち上げようなんて馬鹿げてると思う市民は多くてさ」

「それは、そうだろう。宇宙に出たって真空しかない」

「晴れた夜の空を見たら、ちょっとは意見が変わるよ。星空。輝く星の一つ一つが太陽と同じだけ輝いてると思うとね」

「空想だ。太陽も。星空も。ロケットも」

「ドームの外周を見たよ。今日は一日歩き回って内側も。今やこのドームを支えているのは石でもコンクリートでもない。植物だ。塔から伸びた柱のような大木、梁となって伸びる枝。もうドームの屋根は開かないかもしれないけれど、この中で十分生存可能な生態系ができている」

「俺たちは危険を冒す必要はないんだ」

「夢見る必要もないってこと?」

「夢は見るよ。ただ見る必要のない夢なんだ、空なんて」

「君は知らないが、空は確かにある。星空も。太陽も。君たち市民を護る植物はそれを知っている」

「王様の景色は、下々の民には関係ない」

「確かにここは植物の王国だけど、それはへりくだり過ぎじゃない?」

「君は悪魔だな。善良な市民をそそのかす悪魔だ」

 初対面の会話なのに飛ばし過ぎじゃないか。そもそもハロルドは無口な性格だ。心の中も静かなのだと思っていた。言葉が出てくるまで、自分の中にこんな考えがあったとは気づかなかった。

 飛ばし過ぎの会話に気づいて居心地の悪さを覚えたのはハロルドだけではなかった。御馳走様を言ったリオが出て行こうとしたので、ハロルドは首を傾げた。

「だって君は俺の客だろう?」

 この時、この異邦人をどう捉えていただろう。ハロルドとて言葉通りの客としてただもてなした訳ではないと自覚している。未知の景色、知らない知識、初めての言葉。

 初めて見る黒髪。

 リオ・インコグニタの肌からは健康の匂いがした。それは驚くほど生々しくて最初ハロルドは嗅いでいられないと思ったのだが、彼女が立ち去ろうとして、匂いが目の前から離れていこうとした時、どうしても引き留めたくなった。

 だってリオ・インコグニタは俺のアパートの前で腹を空かせていた。

 俺の客だ。

 シティ・Lは常に「黄昏のような」と表現される薄闇に包まれている。木々の枝や葉蔭から漏れ落ちて何とか届く照明の光は「月光のような」と表現される。どれも旧い時代の言葉だ。黄昏のような薄闇の中で生まれ、月光のような光を当たり前のものとして育ったハロルドら市民にとって当たり前の光量はドームの外で生まれたらしいリオにとって圧倒的に不足らしく、曰く、

「ここはずっと夜みたいで、毎日眠いんだよね」

 ゆっくりしなよ、疲れてるんだろ。そんな言葉をかけながらハロルドは窓の外に耳を澄ます。古いレコードに続いてガブリエルの歌声が聞こえる。ガブリエルが異邦人を探している。外部の情報をか。新たな知識をか。それともこの黒髪。

 新鮮な肉。異なるDNA。

 ハロルドがベッドで眠る間はリオは目覚めているか、ソファで眠っている。ハロルドは痩せた腕の中に秘密を抱いて眠る。枕には黒髪が一筋落ちている。


「ガミジン、どうして黙ってるのさ」

 ゴーグルを装着し、窓の外を眺める。しかしゴーグルは応えようとしない。視界を暗視モードにさえ切り替えない。

「これ以上黙ってると窓から放り投げるぞ」

『私は恐怖を理由にして君とコミュニケーションを取らないと明言しておこう、リオ・インコグニタ』

 頭蓋骨の中に響く声。視界の端に時刻が点滅する。

「一応、昼時なんだな」

『君はすっかり夜型人間だ、リオ・インコグニタ。最近よく眠っている』

「すごく眠いんだ。日照量のせいだろ」

『本当にそれだけの理由と判断しているのかね』

「……親切な家主が睡眠薬を混ぜた?」

『冷静ではない君と話をすると疲労するのだ』

「AIが疲労を?」

『しないと、何故、君が言えるのかね。人生の半分以上の時間を私と共生して、君は何も学んでいないのか』

「その言い方。嫉妬してるんだよ、ガミジン。私とハロルドが仲良くするのを」

『私はそれら感情とは無縁だ』

「人間とのコミュニケーションにおいて疲労さえするAIが、長い時間をかけて人間と一対一の共生をし、人間の影響を全く受けないと?」

 視界の端から点滅が消える。目の前に広がるのは薄暗い闇だけとなる。リオは溜息をつくと、両手でゴーグルのこめかみ部分に触れた。

「AIと喧嘩するなんて。ガミジンなしに私の旅はないのに」

『旅は続けるつもりなのだな』

「ガミジン、こんな時は、私も、と応えるんだよ。私も君なしには…?」

『君なしには機能停止するだろう。無論、私がそれを求めるものであれば承認に問題はなく、また機能停止する前にリオ・インコグニタ以外の人間と契約を結べば私は存在し続ける』

「…ひねくれ者AIめ」

『人間の中でも特別酔狂な君と契約したのだ。我々はお互いがノーマライズされていないことを指摘しても不毛だということを、それぞれ記憶しておこう』

「オーケイ。理解した、我が悪魔よ」

『重畳である、我が契約者』

 ざあっ、と雨粒がガラス窓を叩く。強い雨は珍しい。この街の雨は頭上を覆う植物から放散されるものなのだ。

 リオは窓ガラスにもたれかかろうとし、ふと眼下に目を留めた。緑のツタが窓枠を這っている。彼女は慎重に身体を起こすと窓から離れた椅子に腰掛け、ガミジン、と問いかけた。

「どう思う?」

『目的語を明確にしたまえ』

「シティ・Lの植物に対してどんな感想を抱く」

『君の考えは読み取れる。君が不安に思うとおりだ、リオ・インコグニタ』

「眠いのも植物のせいか…」

『日照時間が唯一の原因にはなり得ない』

「そうだ。日照時間って言ったって他のシティも昼夜が完備されてる訳じゃない。シティの外なら尚更だ。太陽光を遮る闇の中、ここまで来たんだ、私たちは。……しかし一体、植物が意志を持つものなのか。統一された意志で人間を支配しようと。そんなことができるのなら、聖戦以前から世界は変わるんじゃないの」

『聖戦がきっかけになったとも考えられるが、私はこのシティを分析した上で推論を持った』

「お聞かせいただこう」

『君はシティ・Lのガーディアンを知っているかね』

「Lね。L…エル…ちょっと待って」

 リオは椅子の背にかけたコートのポケットから手帳を取り出し、黄ばんだページをぺらぺらと捲った。

「おっと、ここは守護天使の街か。ガブリエル。三大天使が一人。神の言葉を伝え、死者を蘇らせる……っと、ちょっと待てガミジン、君らAIはマシンあってこそ存在し活動する。でも植物って言ったら君らの大敵じゃないか。見ただろ、あの管制塔」

『シティ・Lに到着して第一日目、君と共に確認し記録した。ロケット発射の為の管制塔は緑に覆われていた。ズッキーニのようだと君が備考した』

「そんな下らないことまで記録してたの。まあいいけど。管制塔があの様でメインフレームが生きていると?」

『ゲートで君が身分確認と除染を行う間もガブリエルは見ていた。私には分かる。同類なのだから。同族と呼べるかは怪しいが』

 ――ガブリエルにできて私にできないということはない。

 そんな独り言がリオの頭蓋骨の端を掠め、ずるりと顔面を何かが流れ落ちる感触。リオは悲鳴を呑み込んだ。ゴーグルは液体のように溶けてリオの手に絡みつき、黄金の蛇となる。蛇は鎌首をもたげ、片方の眼でリオの顔を覗き込んだ。息を詰めると、蛇の口が開き、黄金の口から歌うような声が溢れた。

「驚くなかれ、リオ・インコグニタ。私だ」

「ガミジンとは……驢馬の姿で顕現する、と」

「この部屋は驢馬が現れるには狭い。それに私の体積は限られている。手乗り驢馬がご所望かね。この姿は人間が悪魔に求めるものではないか」

「いや…君がどんな姿にも変わることができるとは、勿論、理解していた。でもこんなことをするなんて、吃驚だ」

「私も考えたことがなかったのだ。他者と交わるということは時に偉大な変化を与えるぞ、リオ・インコグニタ。ガブリエルを知らなければ、私は自分の可能性に気づかなかった」

「そう言えば互いの目を見て話すのは久しぶりだな、ガミジン」

「初対面の時以来だ」

「懐かしい。語ってくれ」

「我々はナノマシンだ。思考する砂。意志を持った細胞の集合体が我々GTシリーズ、ガーディアンだ。そして無辺際なカオスたる思考する砂をゴーレムという形に為すのが君ら人間、我々の契約者。思考する砂の統合意志」

「ガーディアンは人間と契約することでガーディアンたる」

「君と私が交わした契約のとおり」

「では、ガブリエルにも契約者がいるのか。その契約者が植物による支配…シティ・Lの安泰を望んでいる」

「そのアイデアを提出した人間は存在しただろう。しかし死んでいるはずだ。寿命が二百年以上ある人間でない限り」

「確かに植物によってシティ・Lは他にない自給自足システムを確立してる。人間は安泰だけど、ガーディアンは? メインフレームは?」

「リオ」

 黄金の蛇は螺旋を描きながらするするとリオの腕を移動し、人差し指の指先から首を伸ばした。

「私が着目したのはそこだ。私がこの姿になれる自分を発見したのもそこだ。リオ・インコグニタ、生き物には電流が流れている。微弱ながらも。植物にも流れているのだよ」

「おい、冗談だろ……」

「契約者のアイデアか、ガブリエルの発見かは分からない。起点がどうあれ、結果、ガブリエルは植物との融合に成功し、バイオコンピュータとなりシティ・Lに根を張った」

「おいおいおいおい、すんごいな。我が身を省みず興奮してきちゃったよ」

「感情に思考を鈍らせず見たまえ、リオ・インコグニタ」

 蛇がもたげた鎌首で導くと、人差し指の先がメタリックな光を帯び爪はナイフのように尖って伸びた。

「…悪魔の魔術だ」

「君の脳を介さず血液に直接命令したのだ。鉄を集めろと。そして形を成せと」

「ガブリエルはこの芸当を、君以上に意のままにやれるって訳だな」

「ガブリエルには二百年の経験がある。並列化させてくれればあっという間に追いつくが、私が向こうに呑まれる可能性も多大に存在する」

「私を眠らせているのも、ガブリエルの意志?」

「君だけではない。シティ・Lで生まれ育った人間ならガブリエルの一部と呼んでも過言ではないだろう。たとえ市民一人一人が自由意志を信じていても、ガブリエルにはあらゆる手段を使って彼らを思い通りの結末に導くことができる。この街で人間が口にする水は誰が造ったのか。君らが呼吸に必須な酸素を造り出しているのは誰かという話だ」

 リオは頬杖をつく。黄金の蛇が間近から目の奥を覗き込む。

 ヤバイ気はしてたんだよ、とリオ・インコグニタ。

「私たちがこのアパートに厄介になった夜、アパートの壁は黒く濡れていた。それだけだった。なのに、もう窓枠までツタが伸びてるんだ。ここ、三階だぜ?」

「眠そうだ、リオ・インコグニタ」

「ヤバイ。これもガブリエルの意志か。奴は何が目的だ」

「君自身。私は勘定に入っていないだろう」

「ガミジン、君なしに私の旅はない。これからもだ」

「旅装を調えたまえ。コートを纏え、リオ・インコグニタ。帽子を手放すな」

「今すぐには逃げられない」

「この部屋の住人が帰ってくる」

「ハロルド? 彼に期待するのか、君が」

 答えはなく、リオはコートを羽織り、脚をもつれさせながらふらふらと歩く。釘から外した帽子を胸に抱き、なんとかベッドの上に倒れ込んだ。

「一度眠ったら、今話したことを忘れそう」

 もう瞼が開かない。手の上でぱしゃんと蛇の形の崩れた気配。慣れたゴーグルの手触りが帽子に引っかかっている。

 銀色の指先が振るえて声を伝えた。

「もし君の生命に危険が及ぼう時は、君のこの手で相手に電気ショックを与えてやろう」

「それは私も感電する方法では?」

「目が覚める。一石二鳥のソリューションだ」

「馬鹿な……」

 馬鹿な話をするものか、とAIは今にも意識を失いそうな人間に向かって言った。

「君は我が契約者なのだぞ、リオ・インコグニタ」


 ――憂鬱症に囚われているのはオレだけじゃないさ……。

 古いレコードがかかっている。リオは目蓋を閉じたまま、ゆらりと意識を浮上させた。これはピアノの音だ。鼓膜の底を光の玉で優しく叩くのは。何百年前の録音だろう。音の一つ一つが素朴で愛らしい。

「リオ」

 ハロルドの声に目蓋を開ける。ベッドを占領していた。

「ごめん」

 咄嗟に謝罪の言葉を口にしながら、今までの光景が夢だったことに混乱する。

「いや、寝ていてくれても構わないんだけどさ」

 淡い色の髪を透かして義眼が瞬きをする。リオはベッドに横になったまま、ふっと息を吐いた。上下する胸の上にリオのトレードマークである大きな灰色の帽子が載っていた。帽子にはゴーグルのガミジンが引っかかっていて、リオに抱えられたまま沈黙している。

「せめて帽子を釘にかけてくれたらと思って」

「ああ、うん」

「コートも」

「……私はどれくらい眠っていた? 君が部屋まで運んでくれたの、ハロルド」

 義眼は笑わない。首を横に振ると淡い色の髪が微かに金属質の音を立てる。

「最初から、ベッドに」

「悪いことしたなぁ…」

「最初に言ったとおりだよ。何もしなくても君は俺の客だし、君ひとりを数日食わせるくらい困らないんだ」

「でも君が労働している間ずっと眠りこけていたなんて気が引けるよ」

「そう言ってくれる時点で、そう気にしていないさ君は、リオ」

 農場の土はハロルドの爪の間、手の皺の深くまで入り込んで黒く染みている。リオは洗面器一杯の雨水にハロルドの手を浸し、小さなブラシで爪の間を一つ一つ洗った。

「永遠に…」

 指先の仕事とは別に耳が周囲の気配を探る。聞こえるのは雨音。ピアノの音はどこだ。

「永遠に、何?」

「ううん…永遠に食わせてもらうわけにもいかないし」

「そうだな。永遠は無理だ。……次の旅の目処がついたの」

「分からない。出かけようと思えばいつだって、どこへだって行けると思ってたんだけど……この街に来てから頭が回らないよ。毎日眠くて」

「……そう」

「もう片手」

「ああ」

 ハロルドは濡れた手をシャツで拭い、もう片手を洗面器に浸す。ブラシが泥を掻き出す小さな音を包む部屋の静寂、を包む雨音。

 確かにピアノの音が聞こえる。古い録音らしい、素朴な音。

 雨のように降っている。

「憂鬱症に罹ってるのは君だけじゃないさ」

「えっ」

 突然の言葉にリオは顔を上げた。ブラシがぽちゃんと洗面器の中に落ちて沈んだ。

「君の髪は黒い、リオ」

 濡れた手がリオの長い髪を一房掴む。

「この街にはもう居なくなった。何世代にもわたって金の髪の人間だけが残った」

「ハロルド」

「部屋から出ないで。そうでなければ今すぐにでも街から出て行ってくれ」

「君たちが去りゆく旅人としての私を歓迎していないことは分かってたよ」

「俺は違う…、俺は……」

「私の仕事を知っているね。そう名乗ってシティ・Lに入ったんだもの。私はロケット飛ばし屋だ。遥か昔に断たれた希望をもう一度宇宙に繋ぐため、シティを旅してロケットを打ち上げている。けど、この街は遅かった。ドームは蔦で覆われ、もう開かない。管制塔もきっともう駄目なんだろうね。君たちはこのドームの中だけで生きていくことに決めた。グリーンドーム。素晴らしいよ。ドームの外ではもう滅多にお目にかかれない水の循環がここにはある。植物のお蔭だ」

「でも、人間は」

「人の数は減少した。」

「適正な値を弾き出したのは管制塔のメインコンピュータだ。GTシリーズ。俺たちの守護天使はガブリエルだった。彼女は何人減らせば俺の爺さんたちが生きてけるかを計算した。勿論ただでは減らさない。シティを緑で満たすための肥料が必要だった…」

「街に入った時、皆がじろじろ見た。物珍しがられるのはいつものことだけど、違ったんだ。あれは羨望で…物凄く本能的な欲で…肌がビリビリしたっけ」

 濡れた左手と生乾きの右手がリオの肩を掴む。ハロルドは項垂れた。さらさらと淡い金色の髪が流れる。見下ろすと、その髪が薄くなっているのが分かる。水面に雫の落ちる音が、ぽつ、ぽつ、と。

「私に子どもを産んでほしいのか、ハロルド」

「俺は違う」

 しゃくりあげ、息も絶え絶えにハロルドは答えた。

「俺は、健康な君が、羨ましい」

 筋肉質な熱は血管の青く透ける白い身体を抱き締めて眠った。今にも折れそうなこの腕が森を茂らせ雨を降らせている。やがて死ぬ時、そう遠くない未来、彼は彼の祖父が妻に対してやったように、また彼自身心臓の鼓動を止めた時そうされたように街の養分となる。

 熱のある身体に包まれてもハロルドの中心は静かなままだった。役立たずなんだ、と諦めきった呟きが枕に落ちた。リオは細い髪を梳き、顔を覗き込む。透き通りそうなほどの水色の瞳はじっと黒髪の女を見つめた。

「もし俺が君の身体なら、自分の子どもを産んだのに」

「君の子ども?」

「俺の精子と卵子でできた頑丈な子ども」

「私は精子を出せないんだけれども」

「う……ん、そうか」

「次に生まれ変わる時は両性具有になる?」

 するとハロルドはうんざりした顔で笑った。

「生まれてくるのは一度でたくさんだ」

 ピアノの音が止んでいる。代わりに息をひそめ極限まで神経を研ぎ澄ました数多の耳がこの部屋を囲んでいるのを知る。

「この手の街には地下道が付き物のはず」

 ベッドから下りたらあっという間。灰色のコートを羽織る頃もハロルドは裸のままで部屋の端に寄っていた。これからリオが何をしようというのかは分かっている。

 リオはベッドを端の端まで蹴り遣り、部屋の中央をなるべく広く空けるとコツコツと音を立てて歩き回った。ゴーグルの内側でガミジンが喋っている。一方的なレポートだ。この街で起こった感情について、ガミジンはいつも以上に我関せずの立場をとる。

「ありがたい、地下鉄様様だ」

「それじゃあ、リオ?」

「行かなきゃ」

 ゴーグルを額の上に押し上げ、相手を見る。金の髪の、痩せた男。リオは軽く両手を開いて見せた。

「ハグ、を?」

「いい。行けよ。君のことが羨ましすぎて殺すかもしれない」

「さらばだ、ハロルド」

「さよなら、悪魔」

 リオはゴーグルを装着し直し、その場で軽くジャンプを始めた。ブーツに青白いラインが入る。床板がミシミシと声を上げる。一際大きく飛び上ったリオの身体は床に着地せず、衝撃と共に下階へ突き抜けた。更にその下へ。

 わっと声が上がり部屋の周囲から人の気配が去る。リオを追いかける。この街を知り尽くしているのはシティ・Lの住人だが、リオはあらゆるシティの構造を知り尽くした上、健康な肉体を持つ。バネのような瞬発力を生み出すあの太腿、あの腕。直に触れたハロルドには分かる。シティ・Lの誰も彼女には追い付かない。

 ハロルドは床に開いた大穴を避けて部屋の反対側まで来ると、ガウンを羽織り窓の外を見下ろした。青いライトの直線的な光が木立の隙間を縫って届く。彼はガラス窓に後頭部をぶつけ、目を閉じた。穴の奥から幾重にも反響するどよめきが届く。それもやがて木霊のように薄れる。

 ベッドはまだ生温かかった。ハロルドはシーツの隙間に潜り込み、明日の仕事に備えて目を閉じた。

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