シティ・Eと栽培師の秘密
扉から光が漏れ出す、その刹那、圧縮された時間がリオの中に流れ込んだ。リオは自分の手がドアノブを掴んで引きながら、不測の事態に備えて筋肉が緊張を漲らせるのを感じ取りながら、目の奥では流れ込む映像と言葉を追体験していた。
始まりは会話だ。
君の仕事を確認しよう、とガミジンが言った。
『リオ・インコグニタ、余所者の君がシティに迎え入れられるのは何故か』
それは勿論、とリオは高台の窓辺からシティを見下ろし、ゴーグルにも階段状に広がるその姿を見せた。
「私の技術が貴重だからだよ」
『彼らがロケットを飛ばす気があればの話だ』
雲が厚く覆っているらしい。薄暗い午後の景色を背景に、窓ガラスにはリオの裸体が映った。肩に引っかけたマントは街の色と同化して暗く沈む。リオの肌は象牙色をしている。やや赤みがかったシティの住人の肌と比べると人造的なほど白く見えた。
『君の仕事が仕事はロケットを飛ばすためのあらゆる助力をすること』
「そのとおり」
『シティ・Eの住民はロケットを飛ばそうとは考えていない。彼らが子孫を繋ぐための場所として想定しているのはこの地上だ』
ゴーグルは密集した建物の隙間を縫って走り回る子供の姿にフォーカスした。リオの目にもそれは見えた。笑い声も聞こえた。曇り空だっていつもの空。厚い雲を透かしてほんのわずかでも光が届くのならば、子供達は外で遊びまわる。D粒子を濾過する巨大ファンの下、子供の姿は通りに絶えない。
「そうだね。今までなかったよ、こんなシティは。私達が訪れて二カ月? 三ヶ月?」
『五十八日』
「全く変わりない。浮かれることもなければ追い出されることもない」
『では何故シティ・Eに残り続けるのかね、リオ・インコグニタ』
「君も疑問を持つんだね、ガミジン」
『君の合理的ではない判断が生み出した数々の結果は私の思考を成長させる。私が生み出したのは疑問ではない、好奇心だ』
「命令にのみ忠実なかの門衛が好奇心を持つなんて、また凄い話だ。天使だった時代のお仲間は驚くに違いないよ」
『答えを聞こう、リオ。何故、シティ・Eに残り続けるのか』
「彼女……」
リオはちらりと部屋の中に目を遣った。ベッドの上では区長の愛人が俯せて眠り込んでいる。くしゃくしゃのシーツが熱の冷めない肌を包んでいる。
「何者か分かるね」
『区長の第十三夫人だ』
基本的に一夫一婦制をとるシティ・Eでは、しかし公然と愛人の存在が認められていた。間に子供が生まれれば実子として認められ、保障は区が行う。しかしガミジンの表現したような側室と呼ぶべき制度ではなかった。誰でも、誰の愛人になることができた。富める者から貧しい者まで揃って多産だった。
ベッドに眠る女は区長だけの愛人だった。区長との間に五人の子供がいた。しかしまだ若く見えた。
「不思議な話さ、ガミジン」
リオは窓の外に視線を移した。
「あの絶倫区長は一日と空けずこの部屋を訪れるのに、彼女は初めてオーガズムを感じたと言ったんだ」
『私も聞いた』
「本当に?」
『ベッドの柵に引っかかって』
ふふ、と笑いを含んだ顔が暗い窓に映った。
「私が男ならばよかったのにと言われたよ」
『君の遺伝子が散弾のように求められているという訳だね』
「閨房の技術故に、このシティに残っているという理由では不足?」
『シティ中の人間を抱くつもりなのか、リオ・インコグニタ』
滞在五十八日目の記憶。
あるいは中腹の広場で開かれた蚤の市の光景。リオは初めて食べるキノコアイスクリームにご満悦だったことを覚えている。アイスクリーム屋のカラフルに塗った屋台の側、ベンチに腰掛けているとわらわらと子供達が集まってきた。この街の子供達は皆、仲がいい。また年長者も誰の子であれ子供への愛情を隠さない。辺りは少し商売の声が止んで、和やかな目をリオと周辺の子供達に向けていた。
「人口ピラミッドのバランスの良さかな」
子供達が灰色のマントの下に潜り込んだり、頑丈な靴をペタペタ触ったりするのに任せてリオはゴーグルとの会話を続けた。
「こんなシティは滅多にないよね。子供がたくさんいて、それを育てる大人がいて、それを上から見守ってるじいさんやばあさんがいて……。豊かだよ」
『水には事欠くようだが』
「それはどこのシティも一緒じゃない」
指を伝って滴る白いクリームを舐め取り、子供達がそれを真似してリオの手を舐めようとするのを手を高く上げて防ぎながらリオは笑った。
「この街はシティ創設時の夢を叶えた稀有な例だと思うよ。きっと、もうお目にかかることはない」
『夢か。誇大な宣伝文句の間違いでは?』
視界の半分を電子広告が覆った。リオは片目を細め、口の片端で笑う。懐かしのシティ・P。四十七の門衛の中でも特に誇らしき六枚羽のセラフィムが守護した、かつての麗しき都よ。かつてその残骸でリオ・インコグニタと門衛であったガミジンは出会ったのだった。あの時、リオがシティ・Pなる廃墟に辿りついたのは、白い荒野に佇み続けたこの広告のお蔭だった。「シティ・Pに参加しましょう。シティ・Pは参加者の年齢性別を問わず、全ての住民に満足のいく文化的な生活を提供します!」その崩壊を見たガミジンだ。虚偽広告と断じないだけ、かなり柔軟で懐の広い人工知能だと言える。
リオはレンズの縁を叩き、広告を消した。
「宣伝文句に夢を詰め込んだのさ。誇大広告のつもりじゃなかったよ、きっと」
今、ドアの隙間から漏れる淡い光を浴びながら、あの時の会話を思い出していた。ドアをそっと引きながら、自分が半年間享受した穏やかな生活の表面をゆっくり剥がす実感があった。
ドアの向こうは広かった。リオは自分の落ちた場所が物置に類する部屋だったと知った。そこは壁も仕切りもない広い部屋だった。仄明るかった。静かに佇む大勢の人々の足元に多面体のランプが置かれていて、それぞれのランプに入った小さな灯りがランプに反射し、反射した先でぶつかったランプの表面にまた反射し、次第に薄められながらまんべんなく広い部屋に満ちていた。リオは、キノコの夜光細胞だ、と頭の中で考えた。それを感じ取ったガミジンが、ルルル、とこめかみで呟いた。
小柄な人々だった。リオの腰ほどまでしかない背丈の、小さな人々だった。皆、顔も腕も白かった。白い毛に覆われていた。ケモノのように表皮をびっしり覆う高密度の毛。瞳は静かにリオを見つめている。無言の視線がリオに集まる。リオは言葉を呑んだ。恐れではなかった。人々に対する恐れではない。
『触れてはいけない』
ガミジンが警告を流す。
分かっている、これは、きっと……、とリオは息を止めながらマフラーで口元を覆った。
ゴーグルには続けざまに分析結果が表示された。
菌糸。
小柄な人々の表面をびっしりと覆う白い毛。それらは彼らの皮膚から生まれたものではない。寄生しているものたちだった。
「彼らが苗床なのか?」
くぐもった声で尋ねる。
『違うと、もうすぐ断定できるだろう。彼らの粘膜に菌糸が進出している気配はない。君がもう少し近づけば内臓はクリーンだと証明されるはずだ。R地区の住民と菌糸は共生関係にあるらしい』
中央から、彼らの中では一番大柄らしい人影が近づいた。特に頭部は菌糸が蓬髪のようにうねっている。色彩も鮮やかで鮮やかな黄色、薄い緑、ピンク色さえ混じっている。だが顔の表面は隣り合う誰とも変わらずそっくりの白い短い菌糸が覆っていた。真っ白な毛に埋もれたつぶらな瞳は無邪気に、また穏やかな表情に見えた。リオは膝をつき、集団の長であろう彼――それとも彼女?――と視線を合わせた。
ふわり、と長の顔面の菌糸がなびく。リオはまた風を呼んだかと思うがマントは静かに垂れたままだ。長に向かって手を伸ばすと、再びガミジンが警告を発し、掌が熱くなるのを感じた。同時に長に寄生する菌糸はリオを避けるようになびくのだった。
リオがゴーグルを外すと、全体が一歩退いた。長は、フ、フ、フ、と息を吐きながら二歩、三歩と離れ、よろけた身体を後ろの住民に支えられた。
押された一番奥から小さな呻き声がした。リオは立ち上がり、ゴーグルを着ける。
R地区の住人達はリオの行く手を阻もうとはしなかった。歩き出せば道を開けた。広い部屋の中央にはうつぶせに横たわった女がいた。
『区長の第十三夫人』
「ハニラっていう名前だったよ」
リオは教えた。
滞在五十八日目に寝床を共にした女はすっかりやせ細っていた。背中にはぷっくりと拳大の瘤が幾つも膨らんでいた。表面はミルク色で中央だけ赤い。リオが指先で押すと、甘い香りの乳が噴き出した。間一髪、器を抱えた一人が受け止めた。顔にかかった飛沫は舌を伸ばしてぺろぺろと舐めている。瘤からは更にたらたらと乳が溢れて、途端に小柄な集団は列を作ると順番に乳を飲み始めた。器の中の乳はどこかへ運ばれていった。それは全く別の場所だったようで、長さえ順番待ちの列に並んでいた。
リオは膝をつき、頬を床に擦りつけた。それでようやくハニラだった女と目があった。瞳の中にはまだ光があった。
「ハニラ」
囁くと、瘤だらけのハニラは微笑みを返した。背中の瘤には数人が取りついてちゅうちゅうと音を立て乳を吸っている。痛みはないらしい。不快感も。
乳を飲み終えた長がリオの気を引くように手を叩いた。菌糸に覆われた手はポフ、ポフ、と音を立てた。リオはハニラにさよならの視線を送り、身体を起こす。
「出ていって」
長は可愛らしい声で言った。
「ええ」
リオは頷き、ちょっと考える。
「出ていくかわりに、あなた達の内緒を覗いても?」
「いいよ」
あっさりと承諾した長はリオに先だって歩き始める。背後では、リオが屋根を突き破った物置の扉に板が張られ、釘打ち、封印されていた。
『美しい人口ピラミッドを描くためには人口を管理する手が必要だ。道理ではないかね、リオ・インコグニタ』
「そうだよ。それに、管理する手が天の手でなければならないなんて、誰も言ってないさ」
ガミジンが囁く。旧坑道よりも更に深く、更に入り組んだ地下道の各室を抜けての感想だ。
わずかな子供、育ち盛りの青少年、そしてしっかり肥え太った大人たち。苗床となった人間は栽培師の手によって丁寧に管理され、並べられ、その様子は時に芸術的な光景を作り出してさえいた。栽培師は苗床の体質や年齢によって適する胞子を植え付け、このシティを支えるほとんどあらゆるものを作り出していた。食糧となる穀類、キノコ類、果ては水までも。乾いた砂粒の隙間を縫って地下深くまで菌糸を伸ばし、深い水脈から水を吸い上げる水色のそれは人であった輪郭をほとんど溶かして交じり合い、一つのものとして脈を打っていた。リオは太い幹の中に半年前見かけた子供、数か月前見かけた子供、果てはつい昨日郵便局前の広場で見た子供の顔さえ見つけ出した。どの顔も今は眠っている。水が吸い上げられると彼らの口がいっせいに開いて、わっ、という吐息を吐き出した。何十、何百にも重なる吐息は巨大な空洞内に反響し、栽培師の菌糸もリオの髪もさやさやと揺れた。太い幹は天井に至ると、今度は八方に枝分かれて手を伸ばす。これが各地区の井戸に繋がっているのだ。
「いつからこのシステムを?」
リオが尋ねると、長は首を傾げた。
「ずっと?」
「シティが建設される前から?」
長はこっくり頷き、ぱちぱちっと瞬いた。そして満足そうに口元を持ち上げた。
地下に張り巡らされた階段のアップダウンを繰り返すうち、いつの間にか最上部まで上り詰めている。出口は寺院裏手の墓守小屋だった。この街に個人の墓はない。全ての死者から憂いを取り除く女の像が建っているだけだ。その脇の小屋だった。リオは遠目にしか見たことのなかった小屋を、その朝初めてまじまじと見た。小屋と呼ぶには立派な石造りの家だった。窓は、シティの外殻と同じ透けた金属でできている。朝の弱い光は黄金色に拡散して小屋の中に満ちていた。
長は地下と地上とを隔てる扉から一歩だって外に出ようとしなかった。
「もう来ないでね」
「さようなら。もう永遠に訪れることはありません」
「それは淋しいね」
子供のような言葉がおかしくて、リオは笑いながらしゃがみこんだ。
「最後に一つ尋ねていい?」
「なぁに」
「あなた達もセックスするの?」
菌糸がぞわぞわと蠢く。顔全体がピンクに染まった。菌糸の下で顔を真っ赤にしているのだ。長は照れながら、確かに一つ頷いた。
「それは、気持ちが良いこと?」
両手をバタバタと振ったり、顔を覆ったり。身体をくねくねさせながら長は照れを隠さず、一つだけって言った、悪いひと、悪いひと、とリオを指さした。
「よき繁栄を」
最後に別れの一言をかけ、リオは光を通さない鋼鉄の扉を閉じた。
外へ出て見る景色は墓守小屋の内側に満ちていた光より幾分くすんでいるが、シティの全景を見渡すには十分だった。
『雲が薄まっている。風はまだ強い』
ガミジンの言葉とにのせてゴーグルに気象データが、より詳細な数値を携えて表示された。災害塵が生存可能濃度に薄まるまで、昼を待たないだろう。リオはだしぬけに寺院から崖に向けて伸びる石畳の道を走り出し、思い切り地を蹴った。眼下には灰色のビルの屋上が見える。靴底にエア。着地とともに屈伸した足で強く蹴ると、身体は再び宙へ放り出される。
頭の中にプランが提示された。ガミジンだ。
『宿で荷物を回収する』
「それから?」
『ハニラという女性が住んでいた部屋に行き、君が思い出に浸る』
「すると?」
『我々の旅に必要なものを私が君に教える』
「そして私はハニラの形見を手にシティ・Eを去る……という物語だね」
屋根から屋根へ移りながら、リオはシティ・Eの窓を覗いた。彼らはこのシティを維持するための最も重要な仕事に励んでいる。短時間で素早く数をこなし、区長は新しい十三番目の愛人の部屋へ向かう。
「昨日の手紙」
『バレンタインのカードだね、リオ』
「宛先は贖いの村で間違いなかったよ」
『ああ。きっとハニラのもとに届いている』
シティ・Eのゲートが見えた。セラフィムがその羽を閉じた強固なゲート。リオ・インコグニタのマントは風を呼び、シティ・Eの空に金色の砂埃を巻き上げる。




