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wind from Venus  作者: 春鮫
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シティ・Eと贖いの村

 乾いた風が吹いていた。階段状に広がる街の下方から、だんだん狭まる上段へ向けて噴き上げる。耳をすますと天井の遥か上方で回転する巨大なファンの低い歌声が聞こえる。リオは中腹より更に上った広場から眼下の街を見下ろした。天井からわずかなりとも自然光の入るこのコロニーは明るい。空の色は見えないが街を柔らかく覆う白い霞は、確かに太陽光が乱反射している証拠だった。霞に覆われた下で古い街並みは昔ながらの静かな呼吸を続けている。リオの目は明るい藁の色をした建造物群の中にアイスクリーム屋の屋根や、サッカーボールを修理してやった区長の愛人宅を見つけた。この街での滞在ももう長い。半年が経つだろうか。

 単旋律の音楽が流れる。コロニーの定期放送だ。始めは単調な音であったものが天井に幾重にも反響するうちに、ずれ、音色を変え、最後は和音のように鳴り響く。昔、この地方に生息していた鳥の声を再現したものだという。放送が終わるとラジオから小さな声で今日のニュースが告げられる。何故コロニーの放送とラジオを分けるのか? それは天井の反響を考えれば仕方のないことだろう。

 リオの眼前にもニュースの文字が現れる。彼女の顔の半分も隠してしまう大きなゴーグルが拾った音声情報を文字情報にして伝えているのだ。

「今はニュースの気分じゃない」

 腹が減っていた。

 しかしゴーグルはニュースを流し続けてやめない。昨日までの採掘週間お疲れ様でした、集計結果は午後のニュースで発表予定です、ファームの貯水率五十五パーセント、生産ポイントは一ダウン、本日の日照予測は二パーセントが予想され……。リオはゴーグルを額にずり上げ強制的に視界からシャットアウトした。

 通称シティ・Eは典型的なアリスランド型コロニーとは趣を異にする。通常地下に建設される住居部は、かつてのまま地上にあり、シティ全体を覆うドームはコンクリートではなく金属だった。深い峡谷を幾つも抱くこの土地はそもそも氷銀や透明水銀の産地であり、地表は一仕事を終えた人間がようやく息をつく場だった。あまりに乾き鋭くそそり立つ大地に繁る森はなく育まれる麦はない。そのかわり地下を掘削し、利用することには長けた人々の住む土地である。大半が用済みとなった旧坑道は菌類のファームに作り変えられ、このキノコが人々の生活に必要な食糧や水までも生み出していた。今もリオの足元の何メートル、何十メートルという地下で瑞々しい営みが弛まず続けられ、風に乗って上ってくる生活の香り、蒸しキノコの匂いとなるのだ。

 とん、とん、と肩が叩かれた。振り返り灰色をした広い帽子のつばを持ち上げると、髪をオレンジ色に染めた老婆が顔中に皺を作ってリオを見上げている。無口な老婆は人差し指で半円型の広場を、とん、とん、と指差した。赤と白交互に塗られた壁の一画、人々が列を成し始めた。郵便局が開いたのだ。

「ありがとう」

 笑顔で頭を下げると灰色の長い外套が風を巻き、老婆の顔に吹きつけた。老婆は砂をぺっぺと吐きながらリオから遠ざかる。しまった、とリオは耳の下を掻いた。自分のマントはどうしても風を呼んでしまう。善かれ悪しかれ。巻き上げられた砂にリオも目を細め、ゴーグルをつけ直した。

 三日ぶりの開局だった。郵便局の前にはあっという間に長蛇の列ができた。峡谷に古くから棲み、今もコロニーの片隅にひょっくり顔を出すフィッシュ・スネークそっくりだ。シティ・Eの人々のカラフルな衣装の中でリオの全身灰色のファッションは地味だが、人一倍背は高い。まして余所者のリオだ、早速目立ってあちこちから触られたり朝食の食べかけを渡されたりする。行列の長さに、昼食を用意しなかったことを悔やんだリオだが心配はいらなかったようだ。

 ぶ厚い手帳を、リオはポケットから取り出した。中には白い封筒が挟まっている。宛先はシティ・EのR区画。リオ・インコグニタの古い手帳には昔の暦と電話番号がたくさん載っていた。街から街へ、災害塵の吹き荒れる嵐を抜けて旅する彼女は、そうして辿り着いたコロニーの古い歴史と己の手帳を照らし合わせて、滞在のひととき、己の一部をほんの少しだけコロニーの中に溶け込ませるのが嫌いではない。

『好きだと言いたまえ』

 ゴーグルから骨伝導で声が伝わる。

「ガミジン」

 ペンの尻でゴーグルを叩きながら、リオは思考する砂、旧時代四十七の門衛の遺産の名を呼んだ。

「好きでなどいられないよ。ずっといられる訳じゃないんだから」

『誰も君を強制はしない。気に入れば住めばいい』

「本気で言ってる?」

 リオは苦笑する。

「私の望みを知っているくせに」

『人間は変化する生き物だ。私は君に対応しているに過ぎない』

「懐の広いナノマシンなんだね、ガミジン」

 このコロニーも水が足りていない。通りには冷たい空っ風が吹いている。古に聞く北風のようだ。かつて雪を運ぶ前触れであったという風のようだ。郵便局の前には長い行列ができていて、リオもそこに並んでいるのだった。局員の昼食を挟むせいで列はもう一時間も動いていない。めいめい待ちくたびれた顔がそこここを向くように、リオも石畳の上に腰掛けて封筒の中身を取り出した。赤いハートを描いたカードだった。

『メッセージがない』

 ガミジン。

「このハートがメッセージなんだよ」

『記号だ』

「好きだとか愛してるとか、そういう、ね」

 あるいは心臓を捧げますとかね…、呟きながらリオはペンを走らせる。

『追伸か』

「バレンタイン・デーっていうんだよ、今日は。カードとかチョコレートを贈りあったっていう」

『チョコレート……富裕層の習慣か』

「だろうね。でなければもっと大昔、水も空気も足りて地表の至る所に小麦が実ってチョコレートが店に並んでいた時代の習俗かも」

『それを真似ようと言うのだね』

「ここへチョコレートを贈ったという記録が残っていたんだ」

 手帳を捲り指し示した先にゴーグルが焦点を合わせる。

『贖いの村』

「残っている数少ないアドレスだ。届くといいけれど」

 チョコレートは贈れないけど絵になら描ける、とリオはカードに黒く塗りつぶしたブロックを描き足す。

「届くといいな……」

『気弱な言葉だ、リオ』

「ずっとはいられないけど、このコロニー好きだよ」

『好きと言ったな』

「好きだと素直に伝える日らしいから」

 風にざわめきがまじる。身じろぎやくしゃみが伝播した。行列が少しずつ動き出したのだ。リオはカードを封筒に収め、糊を舐めて封をした。アドレスはシティ・EのR地区、旧称リディーマーズ・ビレッジ。贖いの村。

「届きますように、届きますように」

 即興のメロディに合わせながらリオは切手を貼る予定の空白にキスをする。ゴーグルのガミジンはリオの即席の歌さえ記録してリディーマーズと名付けたフォルダにアーカイブした。

 郵便局で切手を買って投函する頃、リオは再び腹ペコになっていた。広場は薄暗い。霞の柔らかな白色は消え、街は屋根の上も下もくすんだ灰色に染まっている。日照予測二パーセント。コロニーの屋根に積もった砂塵のせいではない、空そのものが厚い雲に覆われたのだ。

 時刻は夜には早いのだが、貯水率と生産ポイントの数字からして今夜は街灯を点さないだろう。で、あれば、歩き回るのは危険である。シティという閉鎖空間の中、ある程度の治安が保障されていなければ維持はできない。シティ・Eの夜道の恐ろしさを作り出すのは急坂や突然現れる階段だ。

「急ごう」

『慌てることはない、リオ。私が視覚補正する』

「そうだけどさ」

『不安要素があるなら言葉にしたまえ』

「真っ暗な中を余所者がごそごそ動き回るのは歓迎されないからさあ」

『では堂々と歩くがいい』

「ううん、そういう問題じゃない」

 不安を口にしながらもリオには笑みが浮かぶ。

 灰色のコートはすっかりコロニーの夕闇に溶け込んだ。ゴーグルの淡い発光もつばの広い帽子が隠してしまう。坂道を下層、下層へ下りながらリオは、ガミジン、と呼んだ。

「うんと遠回りのルートを出して」

『いいのか。不必要な徘徊は監視の目を引く』

「堂々としていれば問題ないんだろう?」

『君はルールを悪用するタイプの人間だったな、リオ』

「手助けをしてくれるのはいつも君だよ、ガミジン」

 補正され通常より拡張した視界の端にR地区の文字を見つけ、リオは迷わずそちらへ爪先を向けた。行き止まりの小公園から崖下にジャンプする。下からは強い風が吹き上げる。

『気をつけろ、屋根だ』

 膝と足首が衝撃に備え、靴底にエアが注入される。しかしリオの足は屋根を踏みしめなかった。

「あぁ?」

 踏み抜いた。

 底のない感覚。一瞬の体感的な無重力。次には乾いたちくちくしたものと木材と雑多なものにもみくちゃにされ、まとめて床に叩きつけられた。

 靴底のエアが用をなさず、フスーッと音を立てて抜ける。抜けるエアに乗って埃と枯れた草が舞った。尻もちをついたリオは枯草の塊と木材の隙間から顔を出してコロニーの夜空を見上げた。幸い警戒音は響かない。しかし天井はのっぺりとした黒。屋内にも灯の気配がない。

『ショートカット完了。R地区に到着』

「サンキュー、ガミジン…」

 肉体の頑丈さは災害塵を越えて旅をするリオ・インコグニタの強みだ。彼女は立ち上がり、枯草と壊れた木材の不安定な足場の上でコートの埃を払った。帽子の中にも枯草が入り込んでいる。

「さて、どうするか」

 枯草を払い落した帽子をかぶり直し、ずれたゴーグルを調整する。視界の文字を読むより早く、『謝罪するのが上手い立ち回りというものだ』とガミジンが忠告した。

『生体反応がある』

「……多いな」

『厳密な数字が必要か?』

「今はいい」

 床に下りると背後で更にガラクタの崩れる音が響いた。

 リオは、あぁ、と声を漏らし両の掌を上に向けた。

「正直に謝るよ。全面的にこっちが悪い」

『相手が攻撃行動を起こしたら?』

「反撃しないで」

『何故』

「だってこっちが悪いんだから」

『では、どうする』

「逃げるから、ちょっと考えておいてね」

『諒解した』

 ドアを見つけノブを握ると、ゴーグルが視覚補正をやめた。急な光に備える為だった。リオは目を細めドアを押した。強い衝撃がかかる。重たい。開かない。

『引くんだ、リオ』

 口の中で、分・か・っ・て・ま・す、と呟き、リオは呼吸を止め静かにドアを開いた。

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