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wind from Venus  作者: 春鮫
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シティ・Rとロケット飛ばし屋の仕事

 その身体にはすっかり馴染みの暴風が砂や小石を巻き上げ荒れ狂っている。マントを越して砂塵と石屑が身体に打ちつける。ゴーグルを越して見えるのは、それを色とさえ把握することのできないような灰色の嵐。リオ・インコグニタはその只中にすっくと立ち、片手でつばの広い帽子を押さえ空のあるべきところを見上げた。顔のほとんどをマフラーで覆い、その中で小さく息を吐いた。

 見えない…、そう溜息をついた瞬間、それまでただ目を保護するだけだったゴーグルが青白い光を帯びる。大地の大まかな輪郭が描かれ視界が補助される。風速、砂塵の量、そこに含まれる災害塵の数値が片隅に列挙されるが、そこにはさして注意を払わない。これがどんな風か、どんな嵐かはこの肉体がよく知っている。

 すると注意を促すように数字が明滅した。リオはマフラーの下で笑い、指で軽くこめかみを叩く。

「分かってるよ、ガミジン」

『君は感覚に頼りすぎて正確な数値を蔑ろにする傾向がある。非常に危険だ』

 答える声は確かに耳骨を震わせて聞こえるものだが、リオにとっては頭の中に直接響いて聞こえた。ゴーグルからの骨伝導と何度も同じ説明を受けているのに。

「見なくても分かるさ、粉塵の濃度は危険域を脱している」

 すると有害粉塵の数値だけが大きく表示され、再度明滅する。それは人間の生存できる基準値を遥かに超えていた。

「…いつものことじゃないか。すぐに減るって」

『君の予測も感情も関係ない。私は君に、君の肉体に死なれたら困るから警告しているのだ、リオ・インコグニタ』

「それはありがとう」

 リオは背後を振り返る。大地の輪郭は姿を消し、目の前に巨大な壁が立ち塞がっているのが分かる。ゴーグルに映る縮図のお蔭で、それがただの壁ではなく山のようにそびえるコロニーの外殻であることが分かる。一番外側の第五外殻はぶ厚いコンクリート製で、風に運ばれてきた砂のコーティングにより、本物の山と変わりなかった。

「じゃあ君に頼ろうか。ガミジン、一番上りやすい場所は?」

『風向きは数秒単位で方向を変えている。確実に風を避け得るポイントはない。積んだ砂丘も同様だ。君が足を踏み入れた瞬間に崩れるはずだ』

「ほら、いつものことじゃないか…」

 予想していた諦めが半分。リオは一度肩をぐるりと回す。帽子が飛ばないようにぐっと押さえ込み、目の前の壁にボロボロの手袋をはめた手を伸ばす。風化によって走る亀裂に手をかけ足元のスパイクを確認。マフラーの下で誰も見なかった笑みを消し、身体を持ち上げる。

 クライミングは黙々と続いた。垂直に切り立った壁が終わり、半球のドームに辿り着く頃、視界の片隅に浮かぶ数値に変化が現れる。有害粉塵の濃度が急激に下がり始める。風はまだ強いままだ。リオは腰にさしていた携帯型の杖を伸ばし、不安定な足場に両足で立ち上がった。光の描く輪郭はどこまでも終わらないかのように見える勾配のきつい坂だった。しかし必ず頂点はある。縮図がゴールポイントの点滅で示す。リオは心の中で了解と笑う。呼応するようにゴーグルから耳元にルルルという小さな音が走る。

 建造されて百年以上が経つこのコロニーの下にも旧時代の都市が一つ、その姿を残したまますっぽりと収まっている。

 俗に聖戦と呼ばれる百二十年前の戦争により国が一つ滅びた。それは文字通りの崩壊だった。かつてその国のあった場所には月からも見える巨大な穴が開いており、舞い上がった粉塵は気流にのり地球上をほぼくまなく覆い尽くした。以来百二十年の間太陽の光を閉ざし続けている。

 人類がこの地球で生き延びるために取った方策はほぼ三つ。ユーラシア大陸北部を中心に進められた地下都市計画、アリスランド・プロジェクト。海洋に面した大陸南部から東南部を中心とする海中都市、龍宮計画。そして旧ヨーロッパを中心に、祖先が築き上げた文明をそのまま残そうとするドーム型コロニー都市計画、シティ・プロジェクト。旧合衆国は地球外へ脱出するプロジェクトが進められたが、ロケットの発射の成果は政府民間を含め五分五分だった。一度宇宙に出てしまえば、地球を厚く覆う塵埃により通信はできない。半分の確率で空へ飛び立った彼らが無事火星基地に到着したのか、またその先どこへ向かったのか知る術はない。残された人々は小型の地下都市形成で生き延びている。

 リオが今足元に踏みしめているのは通称シティ・R、旧ヨーロッパ北部の典型的なコロニー都市だった。五層の外殻の下には聖戦以前の風景が箱庭のように封じられている。天井のスクリーンには青空を映し出すが、太陽の代替になるものはない。市場には今も青々とした野菜や果物が並ぶが、それらも人工灯で育てられたものだ。勿論、そこに住む人間も。

 杖は時々ざくっと音を立てて外殻に突き刺さる。もう随分脆くなってしまっている。ゴーグルに数値を表示されなくても分かる、このコロニーはもう長くはない。それは一世紀余りの間激しく吹き荒れ続けるこの嵐のせいだ。砂や災害塵だけではない。D粒子と呼ばれるものが爆心地である元国家のクレーターからこの風により運ばれ、地上に漂っている。それは全ての老化に作用する。地球上のありとあらゆる生命が加速する老化スピードに対抗するには、この滅びの風を遮るか繁殖能力で対抗するより術はない。そして無機物は作用の働くままに崩れ落ちるのみだった。シティ・Rも数十年と待たず、祖先の築き上げた文明を空から降る瓦礫と砂に潰されるだろう。

 坂が急になだらかになったように感じられた。縮図の上で移動する点と赤く示されるゴールポイントはほぼ重なっていた。光で描かれる輪郭の上にも赤い点は灯っていた。リオは足を踏みしめて二歩、三歩と赤い点に近づき、杖を深々と突き刺した。

 リオは空を仰ぐ。風速をはじめ表示される全ての数値が下がっていた。災害塵濃度に至っては生存可能域にまで達している。ゴーグルの視覚補助も外殻を上り始めた頃に比べて随分光量が抑えられていた。視界に変化が訪れている。リオはマフラーを首まで下ろし、乾いた唇で「ガミジン」と呼んだ。

『雲が薄くなっている。リオ、君の言葉を借りればいつものこと、のように』

 視覚補助の光が消える。そしてゴーグルは透明度を増し、リオの緑色の瞳が見えるまでになる。そしてリオの瞳も、色さえ判別できなかった世界からモノクロームの景色を認識するようになる。

 空を広く覆っているのは黄みがかった白色で、これと似た光景を実際に何度も見たことのあるリオはそれが雲なのだと分かる。雲は物凄い勢いで流れている。そして徐々に薄くなっている。頬を打つ砂はもうほとんどなかった。リオはゴーグルを額に押し上げた。見上げる瞳の上にとうとう雲の切れ間が見えた。

「空だ…」

 リオは何度も味わってきた感動が今また腹の底から湧き上がるのに抗わず、声を震わせて呟いた。

「青空だよ」

 薄い水色の空が白と灰色の雲の切れ間から覗き、だんだん広がっていった。太陽は厚い雲の向こうに傾いていて、淡い金色の斜光にその存在を知ることが出来た。地平線まで雲を拭うことは出来なかったがシティ・Rを中心とした広範囲に青空は広がった。風が止み、青空の下には静寂が訪れた。

「これなら飛べる。何も心配はいらない」

 リオは帽子を脱ぎ、砂を払い落とす。髪を結い上げていたピンを抜くと、長い黒髪がふわりと舞った。

 あとはこのドームの屋根が開きロケットが発車されるのを待つばかりだった。リオの予測したとおり風は止み、空への道は開かれた。もう何も心配することはない。ロケットの中でコールドスリープにつく一万人の人間も、提供された三十万人分の精子や卵子のドナーたちも、ロケット発射に携わる五十人のスタッフも。

 なので頭の中に響く、リオ、と呼ぶ声は気のせいであると思いたかった。

『リオ!』

 頭蓋骨をビリビリ震わせてその声は呼んだ。

「うるさいな! 何だよ!」

『いつものこと、だ。問題発生。屋根が開かない』

 リオは顔を歪め、それでも未練がましく空を見つめたまま言った。

「怖気づいたの?」

『人間の感情は理解しかねる。だが事実屋根が開く様子はないし、ロケット発射台にも動きが見られない』

「通信を繋いで」

『ノイズが濃い』

「こじ開けろ」

 ゴーグルをはめ、帽子を深く被りなおす。チリリリリと電子の走る音が擬音化されて状況を伝える。チン!と古いエレベーターの到着するような音を立てて通信は繋がった。リオは叫ぶ。

「何をやっているんだ! 早く屋根を開け。この天気は長くは続かないんだぞ」

『……違うよ、開かないんだ』

 弱々しい老人の声が返す。

『まさか使うとも思っていなかった機能だ。動かないんだよ、屋根が』

 ああ、という嘆息を老人と共にリオも吐いた。

 いつか青空の戻る日が来たら、いつか秘蔵のロケットを使う時が来たら。そんな淡い希望のもとにコロニーは屋根の開閉機能が備わっている。しかし百年以上もそんな機会は訪れなかったし、コロニーの劣化は設計時の予想より早く進行している。

 リオはスパイクで何度か足元を蹴った。表皮がボロボロと剥がれる。ゴーグルに第五外殻の推測強度が表示される。リオの考える端からゴーグルには計算結果が表れる。ゴーグルがリオの脳の一部を映し出すかのように。

 手段はある。それがリオの結論だった。常にロケットを飛ばす手段を探し求め、リオは考えているのだ。

「市長、決断をしてください」

 リオは老人に話しかけた。

「このロケットに全ての希望を託しますか? シティに残る市民の安全は保障できない。いや、今後あなた方は確実に危険に晒される。でも私にはロケットを飛ばす方法が分かっています」

『どんな決断を…しろと』

「屋根を落とします。ロケットには傷一つつけさせない。けれどもあなたがたが守ってきた都市は…」

 今、全てが破壊されなくとも、外殻がなくなれば災害塵とD粒子が都市を破壊するだろう。

 長い沈黙が耳を占めた。リオはゴーグルの下でまばたきもせず市長の返事を待った。

 青空が徐々にその範囲を広げていた。リオは知っている。この空が晴れきれば、そのピークの瞬間こそ終わりの始まりだ。嵐は再び怒濤のように押し寄せる。

 西の空を厚く覆っていた雲も少しずつ千切れていた。頬に光線をリオは感じ取った。太陽だ。雲の裂け目からとうとう太陽が姿を現す。

『我々は…』

 しゃがれた声を振り絞り市長は言った。

『その希望にかけて今まで準備を進めてきたのだ。我々の子に、孫に、希望の光を』

 市長には見えるはずもなかったが、リオはうなずいた。

「分かった。私も全力を尽くす。だから、もう一度試してくれ。せめて第三外殻まで動かすことはできないか?」

『やってみよう』

「あなた方の希望は必ず空へ送り出す」

 しばらくすると耳元から歓声と、そして足元から空洞に響く低い唸り声が聞こえた。ゴーグルが管制塔と情報をリンクさせ開放状況を知らせる。第三外殻までがゆっくりと開き始めている。

「よし!」

 リオはまた指先でゴーグルのこめかみ部分に触れた。

「ガミジン、計算は頼んだ」

『じゃあドアキックは任せるよ、リオ・インコグニタ』

 今は太陽は半身を雲の上に現していた。

 ボロボロの手袋を脱ぎ捨て、リオはマントの下から取り出した黒いグローブを装着した。手の甲に走る五本のラインが太陽の光を集めじわじわと光りだす。ゴーグルには第三外殻までの開ききるカウントダウンの数値が表示された。充電に十分な時間は取れないが、やるしかない。

 リオは杖を引き抜き、しっかりと右手に掴む。ゴーグルにはスパイクで十分に踏みしめるべきポイント、ゴールポイントが赤く示される。

「今日のツボはまた随分とど真ん中だね」

『そこにグローブで充電したパワーを叩き込めば効率よく屋根が破壊される。ただし、パワーが十分だと言う訳ではない』

「全身全霊、渾身の力を込めて」

『そう、君の腕力が必要だ』

「で、落下ポイントは?」

『防風林が生えているぞ。ラッキーだな、リオ・インコグニタ』

「機械が」

 唇の端で笑い、リオはゴーグルの縁を指で叩いた。

「幸運とか信じているのかい?」

『君の辞書を借りただけだ』

「そうだな。私は信じているよ」

 カウントダウン表示にゼロが並ぶ。

「行くぞ」

 マフラーを口元まで引き上げ、押し殺した声と共にリオはコロニーの頂点を蹴った。

 急降下する速度を踏み締める力に転換し、一歩、二歩、とポイントを確実に踏んでゆく。

 一歩ごとにリオは肉体の変化を感じる。身体中の熱という熱が中心に集まる。集まり、込められ、放出を待って急激に高まる。

 最後の一歩は大きくジャンプし、体重を、全ての力を前に傾ける。両手を組んで拳を握り、赤いポイント目がけて頭から突っ込む。

 衝撃と共に灰色の砂が全身を包み込んだ。砂嵐の始まりのような地鳴りが舞い上がった砂の中を落ちるリオの身体を揺さぶる。

 リオは頭の中でガミジンを呼んだ。ゴーグルはノイズに乱れながら何とか数字を表示しようとしている。リオは頭の中で叫んだ。数字はいらない、見せてくれ!

 様々な色の乱れたノイズが消え、目の前が灰色になる。砂だ。リオは肉体に感じる重力をあてに上を、空を見上げようとした。手で砂を掻き、仰向けになろうとする。

 不意にまとわりつく砂から解き放たれ、目の前が青く光った。

 青空だ。

 屋根は全体の半分以上が落ちていた。そして尚も端から砂が都市に向かって滝のように雪崩落ちていた。百年の間守られてきた箱庭が砂にうずもれてゆく。

 リオは首を捻って自分が落下するであろう場所を見下ろした。確かにロケットを中心に黒々とした森が広がっている。針葉樹が突き刺さるように上空へ向かって伸びている。

 ラッキーなのかな?という軽口をリオは胸の中だけに留め、身体を丸めた。マントが身体を包み込む。砂の降り注ぐ波のような音。そして混沌の只中に突っ込むような衝撃。

 身体はゴロゴロと転がり、止まった。リオは転がったままマントの影から顔を出して、あたりを見回した。身体は出来たばかりの砂丘から転がり落ち、モミの枝に引っかかって止まっていた。

 起き上がることができなかった。手も足も氷のように冷え切っており、リオの意志の通りに動かなかった。ゴーグルは最後の命令のとおり、ただ周りの景色を見せている。

「ガミジン……」

 掠れた声でリオは言った。

「回線を繋いで。どうなってる? 飛ぶ? 飛ぶよな?」

『カウントダウンが始まっている』

 ガミジンの声にリオはぐったりと脱力した。耳には回線で繋がれた管制室の音声が響いた。

『君の見たがった光景だ、リオ・インコグニタ。頑張って首を動かしたまえ』

 リオは何とか首だけ動かし、視界の端に銀色のロケットを捉えた。

 キラキラと光るものが散っている。そして勢いよく白い煙が噴出する。

 轟音と共にリオの視界も揺れる。爆風が再び砂を散らし顔や身体に叩きつけるが、ゴーグルで保護された視界には飛び立つロケットの光の軌跡がはっきりと見えた。耳の中には歓声。

『リオ! 見たかねリオ!』

 老人の歓喜の悲鳴が頭を揺さぶった。

『飛んでいったよ、我々の希望が! 見事に、見事に……』

「この目で見ましたよ、市長…」

『祝いの杯を掲げさせてくれ。今どこにいるんだね?』

「どこでしょうね。…ガミジン、位置を送って、迎えを寄越してって言ってよ」

 リオの目は青空に吸い込まれてゆく銀色の光をいつまでも追っていた。しかしやがて彼女自身気づかぬ内に瞼は閉じ、気を失った。


 暗闇の中から自力でもがくのは彼女の持って生まれた能力だった。深く閉ざされた意識の底から痛みを梯子のようにつたって表に浮かび上がり瞼を開く。

 眼球を刺す光刺激に全身が反応して呼吸がつかえる。リオ・インコグニタは咳き込もうとして自分の胸を刺す痛みを生々しく自覚した。

 厚いコートは脱がされ、薄い下着姿のままベッドに横たえられているようだった。青白い照明の照らす部屋は広く、両脇に並んだベッドにはやはり怪我人が横たわっている。

「ガミジン」

 掠れ声で囁き、無意識のうちにこめかみを探るがゴーグルはない。

「……ガミジン!」

 思わず上げた大声は胸に響いた。リオは舌打ちをする。この皮膚の下、並んだ肋骨の何本が折れているのだろう。

 忙しく駆け回る白衣の一人が気づいて、大声で市長を呼ぶ。

 わらわらと人がベッドを取り囲み、周囲は急に騒がしくなった。隣のベッドの男が驚いた顔をしているのも、すぐ人影に隠されて消えた。

 本来ならばあられもない格好に頬を染めても良さそうなものだが、リオはその類の羞恥をも捨てている。真っ直ぐに市長に視線を定め、起き上がれないなりに意志を示した。

 今朝会ったばかりの市長は一気に十年は老け込んだように見えた。目の下の隈も、深く刻まれた皺も。しかしそれは喜びと安堵の皺だった。皺の間に埋もれるように細められた茶色の瞳はキラキラと輝いていた。彼はリオに向かって手を差し伸べた。リオも痛みを堪えて手を差し出す。それを両側から支えるように市長は強くリオの手を握った。

「あれからどれだけ経ったんです?」

「五時間だ」

「ロケットは」

「軌道に乗ったところまでは何とか電波で追うことができた。今はもう宇宙空間に浮かんでいる。打ち上げは無事成功した。ご協力に心から感謝する」

「どういたしまして、市長。ロケットの飛び立つ姿を見ることこそ私の喜びです。お力添えできて嬉しいことこの上ない…」

 大勢に見守られた儀礼的遣り取りの途中だが、市長はもう感極まったらしくリオに抱きつこうとする。それを周囲が慌てて止めた。

「申し訳ない、インコグニタさん」

 白衣の一人が泣き出した市長を制して前に出る。

「外殻の落下で負傷者が多少出ている。まだあなたの治療に取り掛かれていないんだ」

「住民の避難は?」

「七割は…」

 市長が自分を制する人垣を分けて、ようやく落ち着きを取り戻し言った。

「今、八割ほど進行している。発射前に大方の人間が地下に移動していたお蔭だ」

 それは欧州コロニーの利点でもあった。元々地下道、地下街が発達しているため地下都市形成への移行はゼロから始めるより易い。この街もロケットの発射準備と同時に、カタコンベや聖戦時代の防空壕を利用し地下都市への移行を進めていた。

 当初の目論見では一時的避難のつもりだったのだが、コロニーの屋根が落ちた今、もう地下に潜る以外生存はできない。今いるここも、地下に移された医療施設のはずだった。頭上には屋根の破れ目から滅びの風が容赦なく吹き込んでいる頃だろう。

「手伝いますよ」

 リオは起き上がろうとしたが、また胸の割れるような痛みに襲われてベッドに横たわる。医者が、まだ治療もできていないことを繰り返そうとするので、リオは手を伸ばした。

「ガミジンは…」

「ガミジン?」

「ゴーグルのことだ」

 市長が助け舟を出す。しかし誰もゴーグルの行方を知らない。

「ガミジン!」

 リオは叫び、また痛みに呻いた。すると、白衣を着た中の一人が、胸のポケットに引っ掛けた大きめのサングラスがきらりと光った。

「そこのあなた、こっちに来て」

 手招きして呼び寄せると、リオはレンズのやたらと大きなそれを奪い取り額に押し当てた。

 ルルル、と小さな懐かしい響きが頭蓋骨を震わす。

『四時間三十六分ぶりの再会だ、リオ・インコグニタ』

「どうして変形なんかしてるのよ…」

『横になった状態ではゴーグルはかけづらいと判断した』

「お心遣いありがとう」

 リオは心底溜息をついた。表情が緩み、脱力する。

 ベッドを取り囲む者たちには状況がよく飲み込めていない。

「彼女は誰と喋っているんです? アレは管制室との通信装置じゃなかったんですか?」

「ガミジンだよ」

 市長はリオの様子に、娘でも見るような顔をした。

「聖戦時代の遺物、燃える神兵から都市を守る四十七の門衛、その残骸、だそうだ」

「…それは伝説でしょう。雄叫びで街を燃え上がらせ、六枚の翼で国を天に返し…」

「燃える腕で地を這うものども皆抱き締め、愛の炎で天へ導く」

 続きを市長は暗唱する。

「この世には七体実在した。私の父はそれを見ている。お前の死んだ爺さんもな」

「まさか…」

「この街が外殻で覆われる前、我々はもっと広大な土地の、力ある国家の一部であり、熾天使によって守護されていた」

 その会話を聞いていたリオは片目を開き、いまだ信じられないという顔の医者に自分のサングラスを差し出した。

「かけなくても、触れさせるだけでいい」

 医師は恐る恐る、リオの真似をして額にサングラスのつるを触れさせた。

『…何を説明すればいいのかね。私はリオ・インコグニタ以外の人間に対して存在証明の必要性を感じてはいない』

 弾かれたようにサングラスを離し、医師は目を丸くする。

「自律思考を…?」

「思考する砂を、もう学校では習わないのかな? ガミジンはナノマシンの巨大な塊だった。彼はその細胞一つ一つが意志を持ち思考する」

「そんな、統合する意志がなければ形を維持することさえ無理だ」

「それは私」

 手を差し出し、リオは笑った。

「さ、どろどろに溶ける前に返してください」

 医師は慌ててその手にサングラスを持たせる。リオがそれをかけると、すぐさまガミジンの声が耳の奥に飛び込んできた。

『善良な人間を脅して楽しむのか?』

 リオはそれに笑みだけで返す。ガミジンに視覚と明確に分類されるものはないが、彼は自分を装着した者の肉体については全て把握している。イエス、という意味だけを汲み取って、ガミジンは次の指示を待つ。

「私の怪我の状態を教えてくれ」

『肋骨の三本にヒビが入っている。手足は君の意志次第で動くだろう。だが筋肉へのダメージも大きいぞ』

「肋骨三本にヒビが入っている。指示をするから固定してくれ」

 医師の助けを借りて応急処置をしたリオは何とか立ち上がり、周囲の人間を驚かせた。

「君は空から落下したんだぞ?」

「私には偉大な守護悪魔がついていますから」

 リオは指先でサングラスのつるをつついて笑った。

 ワンピースの患者衣を着て長い黒髪を結い上げ準備万端とばかりに動こうとしたが、しかし歩くには杖が必要だった。彼女は点滴用のスタンドにつかまりながら医療施設内の通路を、市長と共に地上へ向けて歩き出した。

「ロケット発射に関するデータはまだ上なんでしょう?」

「ああ。都合が悪かったか?」

「いえ人命優先ですよ。それで構わない」

「それにしても君は本当に天使に守られているとしか思えないね」

「身体は…まあ丈夫な方なんです」

 管制ビルの窓は早速ほとんどが割れてしまっているようだった。建物の中心部にも風の鳴らす轟音が低く響いてくる。わずかな晴れ間の直後の風はいっそう強くシティ・Rに吹きつけた。

 管制室にはまだ数人の職員が残って、データを避難させている最中だった。

「搭乗者名簿は?」

「まだ残っています」

 リオの問いに若い職員が振り向く。インコグニタさん、と顔をほころばせロケット発射の感動を口にしようとしていたので、リオは彼に握手し「今は取り敢えず仕事だ」と肩を叩いた。

 一つの席についたリオの隣に市長は佇んだ。

「…そろそろ、教えてくれてもいいのではないかね?」

 市長は静かに話しかけた。その声は小さく、黙々と作業の進む管制室の中でも隣にいるリオにしか聞こえなかった。

「ロケットを打ち上げるという君が報酬として求めたのはこれだけだ」

 リオの目は滝のように流れてゆく搭乗者名簿とドナー名簿を映していた。彼女はサングラスを押し上げ、自分の目で青白く光る文字列を見つめていた。

「これだけ…とは言いませんよ」

 小声でリオも返事をしたが、それは放心に近い小声だった。

「次のコロニーに辿り着くまでの水と、食料と…」

「それは君が言い出さなくても用意したさ。いや、君が出発すると言い出さなければ名誉市民として迎え入れるところだ」

 リオは無言で作業に集中した。何万という名前、生年月日、職業等々のデータが流れてゆく。それが全て避難を終えると、他の職員の手伝いをするためにロケット発射に関するデータを流し始めた。

 彼女の目は夢から覚めたように焦点を合わせ、しかし無言と退屈を漂わせながら黙々と作業を続けた。

 市長が諦めて踵を返そうとした時、リオはぽつりと言った。

「命の恩人を探していたんです」

「………」

 市長は足を止め、リオを見下ろした。リオの横顔はモニターの無機質な光に照らされ、マネキンのように静かだった。

「私の命を助けてくれた人を今度は私が助けようと。憂いのない空へ送り出そうと。それが私の決心で、生きる全てだ」

 市長の瞳はやはり娘を見守る父親のようになり、彼女の肩を優しく叩いてその場を後にした。

 リオはサングラスを下ろし、呟くようにガミジンと声をかけた。処理速度が上がり、離れた席から若い職員が口笛を鳴らした。彼女は笑いまじりに裏技めいたコマンドの幾つかを彼に教えた。

 やがて全ての作業が終わり、管制室は明かりが落ちた。あとは風の音だけが、無人となったビルの空洞に響くだけだった。

 シティ・Rには砂が降り積もった。生きるものの姿はなく、色も失われる。厚い雲の上には夜が来ていた。

 滅びの風と命なき砂の下に、古い都市は長く崩れ行く眠りに落ちた。

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