第六話 カストリア大聖堂にて
ぼんやりと階段を下りていくと、走ってきたチェシャ王子と正面からぶつかった。互いに尻餅をついて転がったが、ペルルさんの声が聞こえてくるや否や王子は慌てて起き上がり、オレの口を塞いで廊下の影に身を隠した。
「王子! チェシャ王子!? どちらに隠れていらっしゃいますの? これから戴冠式の打ち合わせがございましてよ!」
王室付き魔法使い兼教育係はオレたちの存在に気がつくことなく、ヒステリックな声で叫びながら階段を上がってゆく。その姿が遠ざかると王子は安堵の溜息をついた。
「あのオバサン本当にしつこいな。式の打ち合わせなんてこのあいだしたばかりなんだから、何度も同じことする必要ないじゃないか」
そのセリフに、曖昧な笑みを浮かべて立ち去ろうとしたのだが、彼は天使の笑顔を浮かべて有無を言わさずオレの腕を取った。
「ねえ、暇ならちょっと付き合ってくれない?」
箒に二人乗りしてカストリアの空へ舞い上がると、チェシャ王子は昂ぶる気持ちを抑えきれずに子供らしくはしゃいだ声をあげた。
「すごいじゃないか! 本当に魔法が使えるんだね!」
褒められて気を良くした途端、箒はがくりと下降して城壁にぶつかりそうになった。オレは慌てて緩んだ気を引き締めて、壁を飛び越えた先に広がる湖の対岸へと舞い降りた。
「まさか見張りの兵士に見つからずに、こんなに簡単に城の外に出られるとは思わなかったよ。しかし、穴だらけの警備は問題だな。僕がカストリアの王として君臨した暁には、真っ先にどうにかしなきゃ」
チェシャ王子は一体どこで手に入れたのかみすぼらしいローブを纏い、旅の小さな魔法使いといった装いで街の中を楽しそうに歩き始める。確かにこの出で立ちなら誰も王家の人間だとは気がつかないに違いない。しかし――。
「ねえ、ここまで来てから言うのもなんだけど、一国の王子ともあろう者がお供も連れず街に繰り出すのはやっぱりまずいんじゃない? おまけに、命を狙われてるって言ってたよね?」
「心配いらないさ。それに、お供の者ならあなたがいるじゃないか。魔法でしっかり僕を守ってよね」
王子を引き止めるのは無理そうだと思い、早々とあきらめた。というのも、マーケットに並ぶ七色に光る飴玉をめずらしそうに眺める彼の姿が、まるでルリアのようだったからだ。こういうとき、ルリアに何を言ったっていつも聞く耳なんかもたないのだ。はしゃぎすぎて迷子にならないように後をずっとついていかなきゃならない。勝手に迷子になったくせに、オレが見失ったせいだとルリアはいつも泣きながら怒るのだから――。そこまで考えてから、はっとした。
オレが彼女の心配をする必要などないのだ。だって、ルリアには先生がついているんだから。そうだ。この先ずっと、彼女にはリーブル先生がついているのだ……。
そのとき、ふいに誰かの視線を感じたような気がして、オレは背後を振り返った。しかし、活気のある雑踏に別段怪しげな影は見当たらない。気のせいだろうか……?
目抜き通りを抜けると、カストリア国教会の総本山であるカストリア大聖堂がその全貌を現した。国教会が成立するより遥か昔、ル・マリア教会最大の聖堂建築物として主教座が置かれたこの巨大な聖堂は、息を飲むほどに圧倒的な存在感を放っている。
チェシャ王子は顔を上げて眩しげに尖塔の先を見上げた。
「実のところ、城を抜け出したのはここに来るためだったんだ」
「カストリア大聖堂に?」
「戴冠式の前にどうしても足を運んでおきたかったんだ」
そう言うと、王子は厳かな装飾の施された正面入り口から、大聖堂の中へと入っていった。
採光窓から差し込まれる光の中で、幼い王子の姿は高い天井を支える柱や身廊の広さとの対比によって一層ちっぽけに見えた。彼は翼廊が交差する場所に立ち止まると、随分と長い間、聖ノエルを筆頭にずらりと立ち並ぶカストリア歴代の王の彫刻を無言のままに見つめていた。オレは王子の邪魔にならないよう、左右の美しいステンドグラスを眺めに向かった。
今後、チェシャ王子が背負っていかなければならないものは、きっとオレが想像しているよりも遥かに大きなものに違いない。けれども、そうした重圧感さえも――それがたとえ茨の道であろうとも、今のオレにはひどく羨ましく感じられた。王子は人々から求められ、自分の歩むべき道が指し示されているのだ。
では、オレは? オレは一体、この先どこで何をすればいいのだろう? 星降る丘の家を離れて、リーブル先生やルリアの元を離れて、ひとりぼっちで一体何を――。
再び焦燥感と喪失感がない交ぜになったようなひどい孤独に襲われてしまい、オレはそうした思いを振り払うかのように頭を振った。
明かりの灯された無数の蠟燭の向こう側では、信徒席に腰を下ろした信者たちが熱心に聖女マリアに祈りを込めている姿が見えた。オレは胸の前で星十字を切ると、落ち着きを取り戻すべく内陣障壁の先に置かれたマリア様の像に向かって祈りを捧げた。それからしばらくして、王子がやって来た。
「せっかくだから図書室にも足を運んで、例の物を見ておこう」
「例の物?」
大聖堂の一角にある図書室は思ったよりも案外小さかった。警備兵が立つ扉の先、茶色い蔵書が背を並べるこじんまりとした部屋の中央に、古びた一冊の書物が展示されている。カストリア王家――つまりは聖ノエルの血の者にしか触れられぬ強力な魔法陣によって護られているその書物は、ほかでもない聖書の原本だった。
現存する原本がカストリアにあるという話は知っていたが、まさか大聖堂の図書室にあるとは思ってもいなかったし、ここへ来るまでその存在自体すっかり忘れ去っていた。なるほど、これを目当てにカストリア大聖堂には多くの巡礼者が足を運んでいるわけだ。
「知ってるかい? 聖書の原本には隠された最後の章――第三百六十六章が存在していたと言われているんだよ。そして、それは『禁書』としてカストリアの王家によって代々護られてきたと伝えられているんだ」
ローブで顔を隠しているため、王子の少しくぐもった小さな声が耳に届いた。
忘れもしない、それはオレとルリアが鏡の向こう側――つまり過去の世界に迷い込んだときに、マリアさんが持って逃げていた羊皮紙の束のことだった。
「『ランズ・エンドの悲劇』の時代にカストリアで謀反が起こり、王位継承者であったマリア王女が禁書を護るため、辺境の地レーンホルムへ亡命していたそうだ。しかし、王女が魔法教徒に捕らわれた際、禁書は彼女共々ランズ・エンドに――って話はもちろん知っているよね? あの教育係の魔法使いが教えてくれたけど、あなたはレーンホルム伯爵の孫なんでしょう?」
そう言って、王子はオレの返事を待たずに言葉を続けた。
「まあ、とにかく『ランズ・エンドの悲劇』をきっかけに、禁書は暁の魔法使いの出現によって母なる海に帰したと言われている。だから、ここにあるのは聖女マリアの旅の記録が記された三百六十五日分までってわけさ」
王子の話を聞きながら、オレは鏡の向こう側で起こった出来事について思いを馳せた。確かマリアさんは魔法教徒に捕らわれる直前、レーンホルムの森でカストリアの密使に禁書を渡していた。そして、それはエメット三世に届けられたはずで、つまり、今現在禁書はカストリア総主教エメット三世が保持しているということになる。
しかし、オレが森で拾ったはぐれた一枚は、あの後どうなったのだろう? パッシェン総主教が「聖エセルバートの魔法陣について記されたページのようだ」と言っていたやつだ。未来へ戻る直前、オレがマリアさんに直接手渡して返すことが出来たが、その後マリアさんはあの一枚もエメット三世の手に託したのだろうか……?
これまで考えもしなかったが、こうして改めて思い返してみると知りたいことが山のようにあった。しかし、エメット三世総主教にそれらのことを直接尋ねるのは躊躇われる。なにしろ、まずオレとルリアが過去の世界へタイムトリップしたという非現実的な話を信じてもらわなければならないのだから……。




