第四話 幽霊の住処
「リーブル先生! リーブル先生!! リーブル先生!!!」
部屋に飛び入ったオレたちは、ソファで眠る先生を揺さぶり起こす。
「起きてよ先生! 出たんだよ!」
「出たって、何が?」
「マリアさんの幽霊!」
オレとルリアは興奮冷めやらぬ様子で口を揃える。リーブル先生は呆れたように深い溜息をつくと、身構えていた魔法の杖でオレたちの頭を軽く叩いた。
「君たち、一体いくつになったんだ? 幽霊だなんて、そんな馬鹿馬鹿しい――」
「本当だもん! 見たんだもん!」
叩かれた額を押さえながら、ルリアが猛反発する。
先生は真意を確かめるみたいに、二番弟子からオレの方へと視線を移した。「本当かい、メグ?」
オレがこくりと頷くと、先生は寝起きの不機嫌な顔のまま「ふむ」と面倒くさそうに立ち上がり、蝋燭を片手に部屋から出た。暗闇に取り残されたオレとルリアは慌てて後を追いかけて、師匠の腕にそれぞれ両側からしがみついた。
マリアさんの部屋はのっぺりとした暗闇が広がっていた。辺りは物音ひとつしない。蝋燭の明かりで部屋の隅々を照らし始めた先生は、一瞬ぎくりと動きを止めた。というのも、前方に楕円形の大きな鏡があって、オレたち三人の姿が幽霊のようにぼうっと浮かび上がっていたからだ。
「ねえルリア、君、もしかしたら鏡に映った自分の顔をマリアの顔と間違えたんじゃない?」
先生に指摘され、ルリアはそんなはずはないと否定したが、言葉に力がないあたり自信が持てなかったに違いない。しかし、オレにははっきりと断言出来る。あれは間違いなく鏡に映ったルリアなどではなかった。顔は瓜二つだったが、髪の毛がマリアさんのようにうんと長かったのだ。
先生の部屋に戻ったオレたちは、いつぞやのように師匠を真ん中にして大きなベッドに横たわった。もはや頭はすっかり冴えてしまっていて、ちっとも眠れそうになかった。
「恐い話をしてあげようか」
悪戯気な笑顔を浮かべ、唐突に先生が切り出した。ルリアはすぐに「聞きたくない」と反対したが、先生はルリアの言葉を無視して勝手に語り始めた。
「この話はレーンホルムで暮らしていた頃、レイから聞いた話なんだけど――」
「もう、やめてってば先生!」
オレもルリアも両手で耳を塞いだが、先生は一向に構わず話し続ける。
「ウィンスレットの館にも、大きな鏡があっただろう? ほら、君たちが過去の世界に導かれたあの不思議な鏡だよ。ある日の晩、真夜中にレイが目を覚ますと、どこからか気味の悪い声が聞こえてきて――」
それは昔じいちゃんに聞かされた子供騙しの作り話だった。オレは安心して胸を撫で下ろした。ルリアは両手で耳をぎゅっと塞いで何も聞くまいとしていたが、しっかり聞こえてしまっているようで、怯えた青い顔をしてごくりと唾を飲み込んだ。
「不審に思ったレイは隣りで眠るハリエットを起こさずに、ひとりで確かめることにしたんだ。燭台を手に部屋から出ると、使用人たちもすっかり寝静まっていて、屋敷中がしんとしていた」
ルリアは呼吸をするのも忘れているんじゃないかというほどに、すっかり固まってしまっていた。先生はそんな彼女の様子を目の端で捉えてから、更に話を続けた。
「レイは足音を忍ばせて階段を下りて行った。どうやら声は踊り場にある鏡の中から聞こえてくるようだった。鏡の前に立ち止まり、恐る恐る蝋燭の光を翳してみると、なんとそこには――」
先生は恐怖を煽り立てるように声を一段低くした。「血にまみれた自分の姿が……」
「きゃあああああ!」
ルリアが悲鳴を上げてがばりとオレに抱きついた。というのも、話に合わせて先生の翳した手鏡に、血まみれの自分の姿が映っていたからだ。もちろん本物の血ではなく、手鏡には話を始める前からあらかじめ先生の手によってインクが垂らしてあっただけなのだが、何も知らないルリアは先入観から血まみれの自分の顔が映ったと勘違いしたのである。
その昔、幼いオレとリーブル先生もじいちゃんに同じことをされた。驚いたオレは隣りに座っていたリーブル先生に飛びついて、オレたちは椅子ごと床の上に転がったっけ。
単純な怪談話にルリアがまんまと引っかかったので、先生は腹を抱えて笑っていた。二番弟子は枕に突っ伏して、とうとう泣き出してしまった。
「もう、先生なんて……大っ嫌い……! やだって、言ったの……っ、に……」
ベッドの上でしゃくり上げるルリア。リーブル先生は「ごめんごめん、僕が悪かったよ」と言って(しかし全然悪びれた素振りはない)、嬉しそうに彼女の頭を優しく撫でた。そんな二人の姿にオレの心は再びもやもやとした気持ちでいっぱいになった。得たいの知れぬ不安と焦りの影がどこからかやって来て、夜の闇に重たく暗い輪をかける。
泣き疲れた二番弟子が眠りにつくと、それを追うようにして先生の寝息が聞こえてきた。だが、オレはこれっぽっちも眠れそうになかった。
頭の中で自分の居場所について考え始めたせいで、眠るどころか妙に頭が冴えてしまっていた。未来のオレは一体どこにいるんだろう? 何をしているのだろう? 自分は何をしたいのだろう――? わからない。何も、わからない。それなのに、先生やルリアが住むあの家から出て行かねばならないのかもしれないと思うと、不安で不安でたまらなかった。
漠然とした孤独に押し潰されそうになりながらも、オレは旅の疲れに誘われ、明け方近くにどうにか眠りに落ちるのだった。
翌日、嵐の明けたカストリアは心とは裏腹に晴れ渡り、柔らかな陽射しによって何もかもが洗われたように光り輝いていた。朝食後、ルリアは先生が起きるのを待てずに城の外を散歩したがった。
「ねえメグ、どこに行きたい? こっち? それともあっちに行ってみる?」
屈託のない笑顔を浮かべる二番弟子。オレが気乗りしない様子で曖昧な返事をしたものだから、彼女はあっという間に機嫌を損ねてひとりで勝手に歩き始めた。ルリアはいつもそうだ。ほんのちょっとのことで苛立って、子供みたいに怒るのだ。
仕方なく彼女の後を追って、幻想的な白亜の城を背に薔薇園へと向かった。そこは、まるで雪原のようだった。麗しい香りに満ちた真っ白な薔薇の花が、辺り一面を覆いつくしている。
「メグは将来、リーブル先生みたいになるの?」
唐突にルリアから尋ねられ、オレは驚いて問い返した。「どうして?」
すると、二番弟子は少し言いにくそうにこう言った。
「だって、エデンの大学に行くかもしれないんでしょう? たくさん魔法の勉強して、リーブル先生みたいに魔法使いの先生になりたいのかなと思って……」
オレが? 魔法使いの先生だって?
正直、考えたこともなかった。確かにリーブル先生はオレの目指すところであり、先生みたいな魔法使いになることは幼い頃からの憧れだ。けれども、自分が誰かに教えを施すような存在になろうだなんて思ったことがなかった。そんな選択肢が存在するのだということすら、今この瞬間に初めて気がついたような状態だった。
「ねえメグ、本当にエデンの大学に行っちゃうの?」
「そんなの、わからないよ。まだ先の話だし」
正直に受け答えると、ルリアは再び機嫌を損ねたらしく、ぐっと口をへの字に曲げて、眉を顰めて言い放った。
「あたしは、絶対嫌だからね! メグがあたしのそばから離れるなんて絶対にやだ!」
なんて子供じみたいい草だろう。しかしながら、二番弟子のその言葉は、オレの涙腺を確実に揺さぶった。喉の奥が締め付けられ、腹の底がぐっと重くなる。
離れたくて離れるわけじゃない。行きたくなくたって、行かざるを得ないかもしれないんだ――。
「ルリアには、リーブル先生がいるだろ」
オレはくるりと踵を返すと、その場から走り去るように逃げ出した。気持ちばかりが焦ってどうしていいかわからなかった。
いつものルリアなら、「待ってよメグ」としつこく追いかけてくるはずだった。だがしかし、彼女は追って来なかった。
居住塔に戻ったが、部屋にリーブル先生の姿はなかった。きっと目を覚まして遅い朝食をとりに食堂へ向かったのだろう。辺りは時が止まったみたいにしんと静まり返っている。昼間だというのに誰もいないかと思うとなんだか薄気味悪かった。
「幽霊を探しに来たの?」
突然、背後から幼い声が降ってきた。驚いて振り向くと、チェシャ王子がお伴の者もつけずにひとりきりで立っていた。
「重臣たちが噂していました。この居室群にはマリア王女の幽霊が出るんだって」
オレが答えにつまっていると、王子の可愛い唇が悪魔みたいに意地悪く歪んだ。
「なーんてね。幽霊だなんて馬鹿みたいだ。そんな話で僕が恐がってここに近づかなくなるとでも思ってるのかな? もう子供じゃないってのにさ。まあ、即位して七歳になるまでは大人しくしてやるつもりだけど、母上による摂政政治なんて真っ平ごめんだよ」
まるで別人のような言い草に、オレは開いた口が塞がらなかった。
「何? 驚いてるの? 天使が悪魔だったから? 生まれてから甘やかされて育てば大抵こんな風に捻くれるものさ」
こまっしゃくれた幼い少年は、オレの腕を掴むと悪戯気に言った。
「ねえ、亡き王女の部屋の中を探検してみようよ」
「ええ?」
「もしかして恐いの? これだから女の子は――」
「オレは男だ!」
子供相手に――それも、一国の王子を相手に思わずむきになってしまい、オレは慌てて口をつぐんだ。
そのとき、遠くから王子の名を呼ぶ召使いたちの声が聞こえてきた。
「王子! チェシャ王子! どこに隠れておいでですの? あたくし、隠れんぼはあまり得意ではありませんのよ! 悪ふざけはおよしになって!」
相当な距離があるというのに、王室付き魔法使いがヒステリックに喚き散らしているのが耳に届く。
「ちぇ。もう抜け出したことがバレたのか。帝王学なんて僕には必要ないのにな」
王子はうんざりした表情でオレの腕を開放し、主塔の方へと歩いて行った。
自分の部屋に戻ろうと踵を返すと、マリアさんの部屋の中から物音がしてオレはびくりと体を震わせた。もしかすると、ルリアだろうか? いや、そんなはずはない。どう考えたって真っ直ぐに居住塔へ戻ってきたオレの方が先に辿り着くはずだ。それとも、朝食に向かったと思い込んでいたけれど、中にリーブル先生がいるのだろうか――?
もしかして恐いの? これだから女の子は――。
先程のチェシャ王子の言葉に対する反発心の表れか、オレの手は戸惑いながらも扉を開けようと前方に伸びてゆく。そのとき、内側から人の声が聞こえて驚きから心臓が跳ね上がった。
しばらくその場に凍り付いて聞き耳を立てていたが、話の内容までは聞き取れない。やがて、意を決してぎこちない手つきで扉をノックしてみると、同時に、声がぴたりと止んだ。
「そ、そこに誰かいるの?」
返事はなかった。ただひたすら沈黙だけが続いた。
散々迷った挙句、オレはなけなしの勇気を振り絞り、恐る恐る扉を開けた。




